108.新たな風が吹き起こる教室 ①
それから二週間が経ったが、狂人男は二度と姿を見せなかった。
ミュラはティフニーからの情報をもとに、フミンモントルのホックムントの拠点で、情報を探っていた。だが、たとえこの事件が立件されたとしても、他院であるフミンモントルが直接介入する権限はない。また。ミュラは巡査隊隊長でもあるため、個人の判断で事件に関わることができない。そのため、のぞみの事件に関して、とくに深入りできない立場にいる。
のぞみ本人も、二週間の間に少しずつあの日の恐怖や危機感を薄れさせ、どこかの心苗が起こしたミスとして受け止めることにしていた。
アテンネスカレッジ、2年A組の心苗たちはホームルームの時間を過ごしていたが、教室に義毅の姿はなかった。
のぞみは自分のポケット納屋からランチボックスを取り出す。スイッチを押し、カバーを開けると、中には6種のサンドイッチとおにぎりなど、たくさんの食べものが入っていた。どれも全て、手に取りやすいものばかりだ。
「カンザキさん、今日もおやつ持ってきてくれたのか!」
「はい、よければ食べてください」
「おお、これは美味しそうだな!」
宣言闘競の敗北条件である玄関廊下の掃除が終わった日以来、のぞみは教室に料理を持ってきていた。というのも、聖光学園内のグルメ情報で寮の食堂メニュー、ナンバーワンを誇る人物が彼女であると知り、2年A組のクラスメイトたちはもちろん、他のクラスの心苗たちも慕ってやってくるようになっていたのだ。
女子たちはもちろんだが、日頃、義毅のホームルームに参加しない男子たちでさえ、のぞみの手料理を楽しみに、わざわざ出席するようになった者もいる。二週間前、蛍たちとのことで注目していたクラークやフォランたちも、のぞみと親しくなってきていた。
ポンポンが大声で呼びかける。
「カンザキ・シスター。オレも一ついただくヨーロ」
のぞみはポンポンに向けてにっこりと笑顔を見せると、ランチボックスを両手で持ちあげ、取りやすいようにした。
「ベックルさん、どうぞ召し上がってください」
悠之助や京弥たちも喜んでおにぎりを取った。
「神崎、助かったぜ!朝練してたから何も食べてないんだ」
「黒須さん、修行は大事ですが、朝食も忘れないでくださいね」
「それにしても、アトランス界の食材を使ってヒイズルの料理を再現するなんて、神崎さんマジで凄いッスよ!」
「吉田さん、過大評価しすぎですよ」
「料理の腕はたしかに良いが、対人戦もその調子で、気勢で負けないようにできると良いな」
「黒須さんの仰るとおりですね……。精進します」
京弥の言葉に、のぞみは身を縮こめる。愛想良く返してはいたが、目は笑っていなかった。
第28のハウスメイトをはじめ、かつてのフミンモントルのクラスメイトたちにも、のぞみはよく手料理を持っていった。それが、のぞみにとっての友だちの作り方だった。その手法はアテンネスカレッジでも通用し、2年生のなかでの、のぞみの人気は上がっていた。
しかし、バトル以外の才能で人気を集め、男子を中心にちやほやされているのぞみの様子を見て、気に入らない者も一部いた。なかでもクリアたち三人からは、食べもので心を買収しているように見られている。彼女たちの腹の中は、嫉妬の水が揺れている。今も、不愉快そうな表情でのぞみを睨んでいた。
わずか数分の間に、ランチボックスはほとんど空になった。集まっていた心苗たちが解散し、のぞみが席に腰かけると、藍が声をかけてきた。
「今日も大評判ですね」
「パンやクッキーはちょっと残りましたがね」
「のぞみさんの作ったお料理は、みんな食いつきがいいです」
藍もクッキーを一枚取ると、その美味しさに、柔らかくなったと言わんばかりに頬を触った。
「うんん~」
藍は、一日のスタミナが満タンに補充されたように目を細めながら、クッキーを堪能している。
「ところで、やっぱりメリルさん、今日は欠席なんですね」
のぞみはメリルの姿を見ていないことに気付き、昨日のできごとを思い出した。
「昨日の挑戦闘競、かなりの深手を負ってましたからね」
「ビーストタイプの方は、大怪我すると回復に時間がかかりますね」
「相手の魔導士も手加減なかったですから」
「スピードも力もバランスの良いメリルさんでも、辛勝と言わざるを得ませんでしたね」
レベルが同程度であれば、闘士と魔導士では、闘士の方が、勝率が低くなる現実は認めざるを得ない。
「闘士にとって魔導士は天敵のような存在ですから。それでもメリルさんは、先天的に狩りを得意としています。トラップ化した『章紋術』の気配に人一倍鋭く気付くメリルさんだからこそ、五分五分の戦いに持ちこめ、勝てたんでしょうね」
魔導士の源気の特性としては、他の三つの属性よりも安定感があり、外界での残留時間が長いことが挙げられる。また、言霊や念力で源気の状態を綺麗に整え、指定する対象に綴ることができる。そして、それらを細かい文字や紋様、図形として記録し、思ったり、口に出したりするだけで具現化させることができる。これらすべては、『章紋系統術』という術式で呼ばれている。
「とくに彼らは『章紋術』を使ってきますから、手強いですね」
「可児ちゃんは魔導士と戦ったことがあるんですか?」
「入学以来はあまり手合わせなかったですが、兄と姉が魔導士ですから。生家で何度手合わせしても、いつも術式で食いとめられ、負けましたね」
魔導士の身体能力は、闘士とは比べものにならないくらい弱い。だが、身体の強化や状態補正のための、身体変化系の『章紋術』を使えば、短時間で闘士に対抗できる状態に強化することが可能だ。
もちろん、『章紋術』を唱えるための時間がかかるというリスクはある。それでも、源気の特性を生かし、戦闘が始まる前にある程度の術式を先に綴っておけば、その気配を自然環境の源並みに弱め、『章紋術』無形化させておける。そうすれば、戦況を読み、念で術式を発動させるだけで、相手に気付かれることのないままでダメージを与えられる。場所も時間も制限されずに術式を発動できるのは、いつでも発砲可能な銃のトリガーに指をかけているのと同じことだ。
のぞみはこの二週間で10回、挑戦闘競を受けた。そして、全敗した。どれも相手から申しこまれた闘競ではあったが、人の実力について優劣を評価する立場にはないと思い、のぞみは気弱げに応える。
「そうなんですか。でも、皆、それぞれの強みがあると思いますよ」
のぞみは教室のあちこちに視線を泳がせる。これまで見かけたことのない顔が何人かいる一方で、いつもの賑やかな雰囲気は、八割程度に抑えられている。前方の円形ステージが使われていないのも気になった。
「そういえば、今日のホームルームも先生は来なかったですね」
「あのエロネズミボウズ、しょっちゅうサボりよね。ま、自習の方が楽でいいわ」
後方の隅に席を取っているクリアたちは嬉しげだ。彼女たちの会話を聞いて、のぞみはティフニーに声をかける。
「ハヴィテュティーさんなら、何かご存じですか?」
ティフニーが親しげに応える。
「トヨトミ先生なら大丈夫ですよ。最近は少し多忙にされています」
「そうなんですか」
「先生にご用でしたか?」
「いえ、最近あまりお顔を見ていないので……。とても忙しい方なんですね」
この数日、のぞみは基礎強化訓練に集中したが、対人でのバトルでは連敗続きで、なかなか訓練の成果が見えなかった。訓練法が間違っているのではという悩みについて、義毅のアドバイスが欲しいと思っていたが、顔を合わせることがなく、チャンスに恵まれないでいた。
「そうでもないんですよ。サボることだってあるんですが、たまたま急に忙しくなってしまったんでしょう」
機関がのぞみに日常の見張りを手配して以来、義毅はしょっちゅう、ダイラウヌスから直接のミッションを受けていた。ティフニーも機関が手を打ってくれたことを知っており、義毅からは自分が留守の間、のぞみのケアを頼まれていた。
「何か、先生に聞きたいことでもありましたか?」
「いえ、大したことではないですから……」
のぞみはクラスメイトの間で、「対人無能」と呼ばれるようになっていた。はじめはクリアたち三人が言い始めたことだったが、この二週間、挑戦闘競を重ねるたびに、そう思う人が徐々に増えてきた。のぞみは、自分への酷評にティフニーを巻きこむわけにもいかず、それ以上の会話を控えた。