山道の銭湯
これは、山道で夕立に降られた、ある若い男の話。
その若い男は、山道で予期せぬ夕立に降られ、全身ずぶ濡れになっていた。
「急に降ってくるなんて、参ったな。
早く着替えないと、風邪を引いてしまいそうだ。
でも、こんな山道じゃ、雨宿りする場所も無いよなぁ。」
山道には車道が広がるのみ。
車が通り掛かる様子はなく、屋根がありそうな場所も見当たらない。
何か建物に行き着くまで、移動するしかなさそうだ。
その若い男が、ずぶ濡れになりながら山道を進んでいくと、
やがて遠くに、大きめの建物が見えてきた。
「向こうに見えるのは、店か旅館かな。
あそこまで行けば、雨宿り出来るかもしれない。」
そのまま山道を進み、その建物がよく見える距離まで近付いた。
建物は瓦屋根で、大きな煙突が立っていた。
「あれは、銭湯みたいだな。
大きな煙突が立っているのは、そのためだろう。
丁度いい。
雨に濡れて体が冷えてしまったことだし、
雨宿りがてら、あの銭湯でひとっ風呂浴びていこう。」
その若い男は、冷えた体を腕で擦りながら、その銭湯の暖簾をくぐった。
銭湯の暖簾をくぐると、すぐに小さな下駄箱。
それから男湯の入り口の先には、脱衣所と浴室が広がっていた。
まだ夕方だからか、その銭湯の中に人気は無く、
番台に座っている丸眼鏡のお爺さんが一人、いるだけだった。
その若い男が、番台の丸眼鏡のお爺さんの前に小銭を出す。
「大人一人、お願いします。」
それを見て、番台の丸眼鏡のお爺さんは、驚いた表情で話しかけてきた。
「おや、珍しい。
あんた、此処らの人じゃないだろう。」
「はい、そうです。
山道で雨に降られてしまって。
雨宿りがてら、この銭湯で風呂に入っていこうと思いまして。」
その若い男は、ずぶ濡れのシャツを摘んで見せた。
それを見て、番台の丸眼鏡のお爺さんは、可笑しそうに応える。
「おやまあ、外は雨なのか。
それは災難だったなぁ。
どおりで、見かけない顔だと思ったよ。
うちはね、こんな山道にあるから、
普段は、近隣の集落から車で来るお客さんしか来ないんだ。」
そこまで話してから、真剣な表情になる。
「でも、悪いことは言わないから、
風呂には入っていかない方が良いよ。」
意外な言葉に、その若い男はすぐに聞き返した。
「どうしてですか。
びしょ濡れのままで病気になるよりは、
風呂に入って温まった方が良いと思うんですが。
それとも、今は休憩中でしたか。」
「・・・いや。
そういうわけではないんだが。」
当然の質問に、番台の丸眼鏡のお爺さんは少し遠い目をして話を続ける。
「昔の話なんだけどね。
ある日、うちの銭湯に、ガラの悪いもんたちがやってきたことがあって。
その連中たちが、うちの銭湯の中で喧嘩になってね。
喧嘩と言っても、ただの喧嘩じゃないんだ。
その連中たちは、刃物や拳銃を持っていたんだよ。
それで、被害者が何人も出てしまったんだ。
・・・それ以来、たまに出るんだよ。
その時に、死んだ男の・・」
「出るって、何がですか。
まさか、幽霊が?」
話の続きが気になって、その若い男が聞き返す。
その時、出入り口の外から、ガヤガヤと数人の声が聞こえてきた。
どうやら、他の客が何人かやってきたようだ。
他の人達が来たせいか、番台の丸眼鏡のお爺さんは、手短に話を締めくくった。
「そいつは、今でもひょっこり現れては、人に悪さをするんだ。
だから、もし風呂場で何かに話しかけられても、決して返事はしない方が良い。
無事に家に帰りたかったらね。」
それっきり、番台の丸眼鏡のお爺さんは口をつぐんでしまった。
後ろの出入り口から、何人もの人たちが中に入ってくる気配がする。
その気配に押されるようにして、その若い男は、脱衣所へと進んでいった。
その若い男は、濡れた衣服を脱ぐと、引き戸を開けて風呂場に入った。
風呂場の中に人影はなく、広々としている。
湯船にお湯が張ってあるせいか、湯気が多くて視界が悪い。
「他に誰もいなくて、貸し切り状態だ。
でも、後から来た人たちが、すぐに入ってくるだろう。
今のうちに、湯船に浸かって体を温めよう。」
体をお湯で流すのもそこそこに、湯船に浸かる。
湯船のお湯を掬って顔にかけた。
「ふぅ~。生き返るなぁ。」
湯船は丁度いい湯加減で、体に熱が染み渡っていく。
そのまま湯船に浸かっていると、不意に山道での疲れが襲ってきた。
その若い男は、湯船に浸かったままで、うつらうつらと居眠りを始めてしまった。
「・・・いかんいかん。
風呂に浸かりながら、うっかり眠ってしまった。」
その若い男は、湯船の中で居眠りから目を覚ました。
口元を腕で拭ってから、辺りを見渡す。
風呂場の中の湯気は、ますます濃くなっているようだ。
すぐ目の前の席ですら、湯気で曇ってよく見えない。
「体は十分に温まったし、体を洗ってしまおう。」
湯船から上がると、適当な席に腰を下ろす。
鏡の前に蛇口とシャワーが備え付けられ、
そこに桶と椅子が置かれた、よくある銭湯の風景だった。
シャワーで頭を湿らせて、髪の毛を洗う。
石鹸などは備え付けの物があるので、用意が無い身にはありがたい。
シャンプーを手に出して、髪の毛を泡立てていく。
そうしていると、静かだった風呂場に、人の気配が感じられた。
髪の毛を洗っている最中なので、目を開けられないが、
他にも人が入ってきているらしい。
居眠りをしていた間に、入ってきたのだろう。
周辺の席に腰を下ろしていく気配が伝わってくる。
その若い男の両隣、そして背中合わせに後ろの三つの席に、
人が座っていく気配がした。
そうして、人の気配を感じながら髪の毛を洗っていると、
背中の方から声が聞こえてきた。
「・・・兄ちゃん。
おい、そこの兄ちゃん。」
片目だけ開けて、流れるお湯と泡の間から、鏡越しに後ろを確認する。
どうやら、背中合わせの後ろの席に座っている人が、
話しかけて来ているらしい。
声の様子から、どうやら相手は中年の男のようだ。
湯気が充満しているのもあって、詳しい人相までは見えない。
湯気で曇った鏡に映ったその姿は、
緑色のタオルを首からかけて、口元にヒョロっと長いヒゲを生やしているようだ。
ここでふと、番台の丸眼鏡のお爺さんの話を思い出す。
「ここの風呂には、出るんだよ。
何かに話しかけられても、返事はしない方が良い。」
番台の丸眼鏡のお爺さんに、
そう脅かされていたのだった。
しかし、後ろの人は、
もちろん、白い死装束を着ているということはない。
ちゃんと人間の言葉を話しているし、まさか幽霊だったりはしないだろう。
「おい、兄ちゃん!」
いつまでも返事をしないので、声の主は少し苛立っているようだ。
このまま無視をするのも、失礼な状況になってきた。
その若い男は、仕方がなく、返事をしてしまった。
「兄ちゃんって、僕のことですか。
ご用は何でしょう。」
その若い男が返事をしたのを確認して、
後ろから話しかけてきた声の主である、その中年の男が、嬉しそうに話し始めた。
「おう、兄ちゃんや。
兄ちゃん、この辺の人やないな。
見たら分かるわ。
こんな辺鄙な山道の銭湯に、なんでまた来はったんや。」
「この辺りを通っている時に、夕立に降られてしまいまして。
雨宿りを兼ねて、ここで体を温めているんです。」
「せやったんか。
そら難儀なことやったなぁ。
で、これからどうするんや。」
「ここで、雨が止むまで待たせて貰おうと思ってます。」
「そうか。
せやったら、うちらとええトコ行かへんか。」
「良い所、ですか。
どちらでしょう。」
この周辺の集落を案内してもらえるのだろうか。
そう思って、ちょっと興味が湧いてくる。
しかし、中年の男は話をはぐらかした。
「ええトコは、ええトコや。
行ってみたら分かる。
楽しいのは保証するで。」
「そうなんですか。
でも残念ですが、あまり遠くに行くことは出来ないので・・」
その若い男が断ろうとすると、中年の男は食い下がった。
「そんなん言わんと、ついてきて欲しいんや。
足が無いなら、
うちらの車で連れてってやるさかいに。
先に風呂から上がったら、そこで待っとき。」
「でも悪いです。」
「ええから、遠慮せんと。」
「は、はあ。」
厚意を強く断ることも出来ず、
また、行く先に興味が湧いたのもあって、
その若い男は、中年の男と一緒に行く約束をしてしまった。
「結局、押し切られてしまった。
でも、どこに連れて行ってもらえるのか気になるし、まあいいか。
車で来ているということは、近隣の集落の人だろう。
番台の丸眼鏡のお爺さんの話では、そういうことだったはず。」
きっと、集落の案内でもしてもらえるのだろう。
その時、その若い男は、その程度に考えていた。
髪の毛の泡を洗い流して、やっと目が開けられるようになった。
その若い男が、周囲の席を見ると、
中年の男と周辺の人達は、すっかり姿を消していた。
湯気の向こうの湯船を見ると、数人の男たちが浸かっている様子がある。
しかし、その中に、
緑色のタオルやヒョロっと長いヒゲの人がいるようには見えない。
さっき話していた相手の男は、どこに行ってしまったのだろう。
それと、
居眠りをしていたり、目をつぶって髪の毛を洗っていたので、
今まで気が付かなかったことだったが、
風呂場の中は、人がいくぶん増えていた。
しかも、少しガラの悪い人たちが多くなった気がする。
体格の良い男たちが、大声で話している様子が分かる。
あまり居心地が良くない。
早く上がってしまった方が良いだろう。
その若い男は、手早く体を洗い流すと、
湯船に浸かるのもそこそこに、風呂から上がってしまった。
その若い男は、風呂場から上がって脱衣所に戻った。
用意していた着替えに袖を通す。
それから飲み物を買うと、のんびりと椅子に腰を下ろした。
そうしている間にも、風呂場に出入りする人たちはいたが、
緑色のタオルやヒョロっと長いヒゲの人は、やはり見当たらなかった。
念の為、番台の丸眼鏡のお爺さんに確認する。
「お爺さん、
緑色のタオルでヒョロっと長いヒゲの人を、見かけませんでしたか?」
「いいや、そういう人は見かけんかったが。
知り合いかい?」
「知り合いと言うほどではないんですが、
さっき風呂場で話しかけられて。」
「・・・あんた、まさかその声に応えてしまったのかい。」
「ええ。
でも、相手はもちろん、人でしたよ。
少し話をしただけです。」
「そうか。
・・・何事も起こらないと、良いんじゃがの。」
番台の丸眼鏡のお爺さんは、神妙そうな表情をしている。
結果的に、その若い男は、
番台の丸眼鏡のお爺さんの忠告を、無視してしまっていたのだが、
本人はそんなこと、気にもしていなかった。
「約束したのを忘れて、
先に帰ってしまったのかもしれないな。」
その若い男の方も、
約束をしたつもりは無かったので、軽く考えていた。
「もし雨が止んでいたら、もう帰ろうか。」
そう思った時。
一際ガラの悪い男たちの一団が、風呂から上がってきた。
中心にいる男に対して、周辺の男たちが頭を下げる。
「兄貴。お疲れさまでした。」
中心にいる男は、中年くらいの年で、
周辺の男からバスタオルを手渡された。
その中年の男は、バスタオルで顔を拭いながら、周辺の男たちに話しかける。
「おう。
お前らも、ひとっ風呂浴びてきいや。」
「ありがとうございます。
ところで兄貴、これからどうなさるんで?」
「それやけどな。
さっき、風呂の中で若いのとなんや仲ようなってな。
うちらの賭場に、案内してやることになったんや。」
「若いの・・・ですか?
でも兄貴、外部の者を連れて行くのは、まずいと思うんですが。」
「わかっとる、せやから、ちょっとだけや。
わしは最近、負けがこんでるさかい、ちょっと助けて貰おうおもてな。」
中年の男の話を聞いて、手下らしい男たちが、やれやれと顔を見合わせた。
中年の男が、脱衣所の中をキョロキョロと見渡す。
しばらくして、その視線が、
椅子に座って飲み物を飲んでいる、その若い男のところに行き着いた
「あれや、あの兄ちゃんや。
お前ら、あの兄ちゃんを連れてくで。」
ガラの悪い男たちが、その若い男の背中から迫る。
その中心にいる中年の男。
その背中には、緑色の昇り龍の入れ墨が入っていた。
「兄ちゃん、待たせたな。」
椅子に座って飲み物を飲んでいた、その若い男は、
後ろから声をかけられた。
聞こえてきたその声は、さっき風呂場で聞いた覚えがある声だった。
「あ、さっきはどうも・・」
振り返って挨拶をしようとして、その若い男の動きが止まった。
後ろにいたのは、
緑色のタオルでも、ヒョロっと長いヒゲの男でも、そのどちらでもなかった。
現れたのは、体格が良くてガラの悪い、中年の男。
笑顔のその口には、金歯が光っていた。
こんな相手と、どこかで知り合っただろうか。
声は聞き覚えがあるのに、人相には見覚えがない。
どういうことだろう。
その若い男がそう思った、その時。
向こう側にある鏡が目に入った。
鏡に、そのガラの悪い中年の男の背中が映っている。
ガラの悪い中年の男、
その背中には、緑色の昇り龍の入れ墨が入っていた。
それを見て、その若い男は事情を理解した。
さっき、風呂場で鏡越しに見えていた、緑色のタオルとヒョロっと長いヒゲ。
その正体は、入れ墨だったのだ。
髪の毛を洗っていて目が開かなかったのと、
湯気で曇った鏡越しだったので、見間違えたのだ。
その緑色の昇り龍の入れ墨の、緑色の鱗とヒゲが、
緑色のタオルをかけた、ヒョロっと長いヒゲの人に見えていたのだった。
その若い男の顔に、冷や汗が流れ落ちた。
相手をよく確認せずに話をして、
一緒に行く約束までしてしまった。
どうにかして、取り消せないものか。
その若い男が狼狽しているのも気にせず、ガラの悪い中年の男が肩を掴んできた。
「ほな、車に行こか。」
間違いに気がついた時には既に遅く。
その若い男は、
ガラの悪い中年の男と、その手下たちに両腕を抱えられて、
外に連れて行かれようとしていた。
番台の丸眼鏡のお爺さんの話を思い出す。
「ここには、たまに出るんだよ。」
出るのは、幽霊では無かったのだ。
あるいは、幽霊よりももっと恐ろしい相手だった。
その若い男は、泣きそうな表情になって、精一杯の抵抗を試みる。
「あ、あのっ、僕やっぱり・・」
それに対して、両腕を掴んだ手下たちが、耳元で凄む。
「兄貴が誘って下さってるんだ。
黙って来い。」
為す術なく、連れて行かれてしまう。
もうどうにも出来ない。
そう思われた。
しかしそこに、高いところから声が降り注いだ。
「あんたたち、ちょっと待ちなさい。」
その声の主は、あの番台の丸眼鏡のお爺さんだった。
銭湯の建物から出ていくには、番台の前を通らなければならない。
その若い男は、ガラの悪い男たちに両脇を抱えられ、
番台の前を通ろうとしていた。
そこに、番台の上から、丸眼鏡のお爺さんが声をかけた。
「あんたさんたち、
その辺にしておいてやってくれんかね。」
番台の丸眼鏡のお爺さんに声をかけられ、手下の男たちが睨み返す。
「爺さん、口出ししないでくれるか。」
しかし、番台の丸眼鏡のお爺さんは動じない。
穏やかな表情で、諭すように話す。
「そうはいかん。
聞けば、その若い人は、
事情をよく知らないで、話に応じてしまったようじゃないか。
その若い人は、ここに来るのは初めてなんだ。
今回は大目に見てやってくれんかの。」
ガラの悪い中年の男は、鋭い目つきで話を聞いていた。
しかし、番台の丸眼鏡のお爺さんの話を聞いている内に、
敵意に満ちた顔が、気の抜けたような表情に変わっていった。
そして、話が終わる頃には、
すっかり毒気を抜かれて、気の抜けた表情になっていた。
ガラの悪い中年の男が、力の抜けた声で応える。
「わしらは別に、揉め事を起こしたつもりはない。
ただ、この兄ちゃんに、ちょっと助けて貰おうおもただけや。
せやけど、行き先も教えんかったのは、悪かったかもしれん。」
ガラの悪い中年の男が、その若い男に向き直る。
「すまんかったな。
今日は許したるわ。」
その声で、その若い男の両腕の拘束が解かれた。
両腕を掴んでいた男たちの表情は、やはり気の抜けた表情に変わっていた。
逃げるには今しかない。
「僕、やっぱり一緒には行けません!
これで失礼します!」
その若い男は、そうまくし立てて頭を下げると、
そそくさとその銭湯から逃げ出していった。
それから一週間ほど経って。
その若い男は、またあの銭湯にやって来ていた。
あの日は逃げるのに精一杯で、荷物を置きっぱなしにしていたのだった。
今日ここに来たのは、その荷物を回収するため。
それと、番台の丸眼鏡のお爺さんに、助けてくれたお礼を言うためだった。
頭上には日が高く登っていて、
時間帯としては、あの時よりもずいぶんと早い。
ガラの悪い男たちに出会わないように、時間をずらしたのだ。
そのため、銭湯はまだ営業準備中のようで、暖簾がかかっていなかった。
暖簾がかかっていない出入り口をくぐって、中の様子を探る。
引き戸は開いていて、風呂場の方で掃除をしている気配があった。
「あの~、すみません。
どなたか、いらっしゃいませんか。」
その若い男は、風呂場に向かって声をかけた
すると、少し間が空いて、奥から人が出てきた。
応対に現れたのは、あの番台の丸眼鏡のお爺さんではなかった。
それよりも若い、中年の女だった。
中年の女は、人懐っこそうな笑顔で口を開いた。
「はいはい、何でしょう。
今日の営業は、まだですよ。」
その若い男は、手を振ってそれに応える。
「いえ、風呂に入りに来たのではなくて。
先週、こちらに忘れ物をしてしまって、それを取りに来たんです。」
「忘れ物、ですか?
うちも銭湯をやってると、忘れ物が多くて。
失礼ですが、どんなものか伺ってもよろしくて?」
その若い男は、鞄など忘れ物の特徴を伝えていく。
程なくして、その若い男の忘れ物は返ってきた。
忘れ物を受け取ってから、その若い男は中年の女に尋ねた。
「それと、番台の丸眼鏡のお爺さんはいらっしゃいますか。
お爺さんにお世話になったので、そのお礼が言いたくて。」
それに対して、中年の女は怪訝そうな顔で応えた。
「お爺ちゃん・・・ですか?」
「はい。
先週、すごくお世話になったんです。
そのお礼を言いたいのですが。
もし、今日いらっしゃらないのであれば、また日を改めて来ます。」
「失礼ですけど、そのお爺さんって、どんな人でした?」
「さっきも言った通り、番台の丸眼鏡のお爺さんです。」
「もしかして、それってあの写真のお爺ちゃん?」
中年の女が、番台の後ろの壁を指差した。
そこには、古めかしい白黒写真が飾ってあった。
その写真には、丸眼鏡のお爺さんが写っている。
「あっ、その写真の方だと思います。」
それを聞いて、中年の女は静かに応えた。
「・・・いつ来ても、お爺ちゃんには逢えないと思います。」
「もしかして、お体がお悪いんですか。」
「いいえ。
そうじゃないんです。
お爺ちゃんは、10年も前に亡くなってますから。」
「・・・亡くなっている?
10年も前に?」
その若い男は、言われたことの意味がすぐには飲み込めない。
中年の女が、説明を続ける。
「その写真は、10年前に亡くなったうちのお爺ちゃんです。
うちは他にお爺ちゃんはいないし、何かの間違いじゃないかしら。
そもそも、うちは先週、家族旅行に出かけていてずっと休みにしてたんです。
だから、ここには誰もいなかったと思うのだけれど・・・。」
頬に手を当て、困ったように話す、中年の女。
話を聞いて呆然と立ち尽くす、その若い男。
それを見下ろすように、壁に飾られた写真の中で、
番台の丸眼鏡のお爺さんが、いたずらっぽく笑った。
終わり。
髪の毛を洗う時に、後ろに誰かが立っている気がする。
そう感じることがあります。
でも、もっと恐ろしいのは、
銭湯で無防備に髪の毛を洗っている時に、
後ろに見ず知らずの人が立っていた時なのではないか。
そう思って、この話を作りました。
お読み頂きありがとうございました。