夜の箱庭に歌う 姉視点
ドゥルイット侯爵家次期当主である長女、ヘレナは幼い頃から自分の感情を抑えておくことが苦手だった。しかし、本人もそれは自覚していた。そして、それは貴族として生まれたからには難点であり、そんな自分が侯爵家の当主となるのは不向きだということもわかっていた。
けれど、長子が家を継ぐことは当然の常識だ。
3つ下に生まれた妹をお姉さんらしくあやしながら、ヘレナはこの小さな存在を守るために次期当主としての教育を頑張ろうと思った。
幼い頃は仲の良い姉妹だった。
表情の薄い妹はおとぎ話が好きでいつもぼーっとしているような夢見がちな少女だったけれど、ヘレナの後ろをとことこと付いてきてはふにゃっと笑ってみせる様がとてもかわいかった。
ヘレナは吊り上がったような目をしていてそれもコンプレックスだったけれど妹が笑ってくれるとどうでもよくなって、他の貴族と上手く関係を築けないと落ち込んでいると妹が慰めてくれて一緒に謝ってくれる。そしてルイーズはヘレナが友達を作るといつの間にかその輪から消えている。
気の強いヘレナと姉の心の機微に敏感なルイーズは、見た目や性格からも正反対の姉妹だと言われることが多かったけれど、確かに仲は良かった。
姉妹の仲に亀裂が入ったのは、父親のたった一言の冗談だ。
家族の食事の席で、『ルイーズの方がドゥルイット侯爵家の当主にふさわしいかもな』なんて言ってのけたのだ。母親はそれを微笑みと共に賛同し、当主の教育についていけていなかった10歳のヘレナの自尊心を大きく傷つけた。たとえ7歳でもヘレナよりも頭の良さの片鱗のあったルイーズが食事に気を取られて聞いていなかった振りをしていたとしても、そんなこと姉であるヘレナは気付いていて、それが無性に腹が立った。
父のそれは8割がたは冗談で、残りの2割では本気だった。当然だ。国政の一端を担う者として、侯爵家当主として、より優秀な人物を選ぶことはヘレナだってそうする。
けれど、当時のヘレナにとっては何よりも代えがたい屈辱だった。
今まで妹にしてもらって感謝していたことが出来損ないな姉に対する同情心からにしか思えなくなり、それまでも小さくあった自分より優秀な妹に対する嫉妬心と今まで頑張ってきた当主の座を奪われるかもしれない恐怖心が膨れて、それまで愛おしいと思っていたルイーズを攻撃するようになった。
両親にも使用人にも見つからないように陰湿に、苛烈に、ヘレナのストレスはルイーズに向かった。
ルイーズに話しかけられても無視して睨みつけ、ルイーズのお気に入りだった服を遊んでいる振りをして汚した。ぼーっとしているルイーズを後ろから小突いたり、向かいから歩いているとつまづかせたり、料理長に言ってヘレナだけが知っている苦手な物ばかりを出してもらった。時には苛立ちに任せて頬を叩くこともあったし、書庫でおとぎ話を読んでいるルイーズからそれを突然叩き落としたこともあった。
ルイーズは当初、姉のすっかり変わった態度に呆然としていてどうして?という視線で見ることが多かったけれど、長くない時間でその理由もなんとなく悟ったようでされるがままだった。それもまた、ヘレナは気に入らなかった。
ヘレナは知られないようにとしていたし、ルイーズが泣きつくこともなかったけれど、そんな姉妹の雰囲気に使用人は少しずつ気付いていた。それを両親に言ったのか、ちょうどいい時期だったのか、ヘレナは13歳の時に跡取りの貴族だけが通う全寮制の学園に入学させられた。
そこで4年学び、成人して卒業と共にヘレナは侯爵家に帰ってきた。
『お姉さま、お帰りなさい』
ヘレナを迎えたルイーズはその顔に笑みを浮かべながら、その目は笑っていなかった。
ヘレナは昔のようにルイーズをいじめることはしなかったが、姉妹が口をきくことは片手で数えるほどしかなく、ルイーズの婚約者を先に決めようとした両親に物申したことで姉妹の仲が元通りになることは永遠にないと侯爵家の使用人たちは悟った。
以降、ヘレナとルイーズは犬猿の仲だ。
「それがあなたの望みなの?」
「ええ、そうです。お姉さまにとっても、とても良い条件なのでは?」
突然、私室にやってきて人払いをしたルイーズは、誓約書を渡してきた。
感情の無い笑みを浮かべる妹を訝し気に見ながら、誓約書をもう一度最初から読み返す。
そこにはルイーズが2度と侯爵家に関わらない代わりに家を出たあとこちらも2度とルイーズに関わらないという内容が書いてあり、ルイーズの署名がもうあった。
確かにヘレナは未だに恐れている。実の妹でかつては守ろうと決意した、自分よりも当主としての素質があるルイーズを。
「あなた、本気なの?侯爵家を出ると言うことは貴族と言う身分も捨てることなのよ。もしかして平民として今までのように暮らせるとでも思っているの?」
「いいえ、まさか。私が市井に出れば悲惨な最期を遂げることは目に見えているでしょう。私は市井に身一つで出るつもりはありません。あるお屋敷に行きたいので、そのお屋敷に行けるように手配していただきたいのです。その後、私は侯爵家を頼ることは一切いたしません」
「・・・まさか、あの獣人のところじゃないでしょうね?」
「ええ、お姉さまのお察しの通りでございます。あの方の元に行くのに、身分は必要無いのです」
遠い大国からやって来た獣人が爵位と屋敷を与えられ、自分の番を探しているという話は知っている。獣人が来た5年前、国中を騒がせた話題だ。
「あなた、番になれるとでも思っているの?」
ヘレナは明らかな嘲笑を浮かべ、足を組んで真向いに座る妹を挑発した。
引きこもっている屋敷の主人が次々と子息令嬢を追い返していることは有名な話だ。縁を持っておけば役に立つ、そんな邪な欲に振り回される獣人をかわいそうだとも思うが避けて通れない道だ。
5年前から屋敷に入ってはいなくなっているのに、未だ繋がりを持とうとする者たちが後を絶たない。
そんな中、国政の一端を担うドゥルイット侯爵家の次女があの主人の元に行くと言う。
どんな笑い話にされるか、わからないわけではないだろうに。
するとルイーズは冷ややかに姉を見つめ、口を開いた。
「お姉さまにとって都合の良い条件を出しているのに、私はそんなことまで話さなければいけないの?」
「っ!!」
虚仮にされた憤りからヘレナは思わず立ち上がり、平然と見上げる妹を睨みつけた。
この場にもし執事や侍女がいたら止めに入るか青ざめて立ち竦んでいただろう。もしくは、姉妹から漂う相手を拒絶する絶対零度のオーラに慄いて気絶していたかもしれない。
姉が憤怒の形相で睨みつけているにも関わらず、ルイーズは平然とそれを見上げて、すでにぬるくなっていた紅茶を飲む。肝が据わっていて、元々の素質もあるのか相手を見定めるような目をしながら表情を変えず、淡々と物事を進める。
ヘレナの怒りを買うと知りながらさっきの言葉を言った。そうしてルイーズへのコンプレックスが更に強くなり、顔も見たくないと思わせることまでも折り込み済みなのだ。
そうして、ヘレナが絶対にこの誓約を交わすことも。
そこまで考えてヘレナは大きく深呼吸をして己を落ち着かせた。
妹のこういうところが嫌いだった。否、それは今もだ。唯一の救いはこんなにも扱いやすいヘレナを嘲笑うことがないことだろうか。
学園という箱庭で、ヘレナはたくさんのことを学んだ。感情的な本質が直ったわけではないけれどそれを抑制させることはできるようになったし、友達もできて、貴族としての世界をもっと広く知って、勉強を重ねてきた。
気に食わないという理由だけで、却下することはできない。自分はもう子供ではなく大人になったのだから、それがルイーズの思惑通りに進んだとしても侯爵家のことを一番に考えなければいけない。
「一つだけ聞かせてちょうだい」
もう一度大きく深呼吸をして落ち着かせたヘレナは、冷静にルイーズを見据えた。
「会ったことも無い獣人のために、貴方はこれまでの全てを捨てるの?」
貴族という身分は、たったそれだけで大きな責任と権力を持つ。責任があるからこそ権力を持っている。今まで貴族だから許されてきたこと、与えられるもの、権利や常識があって、その中でしかヘレナもルイーズも生きていない。
それをルイーズは不要だと言う。貴族の身分を捨てるということは、庇護を捨てて平民として生きるということ。もしあの屋敷で何か粗相があった時、紹介者としてドゥルイット侯爵家に連絡は来るがそんな娘は侯爵家にはいませんと答えてしまえば、ルイーズの身分を証明するものはなく、身一つで生きていかなければいけない。
「――ええ、捨てます」
聞かなくても強い覚悟を決めていたルイーズを、ヘレナはただ純粋に羨ましいと思った。
そしてヘレナは誓約書の内容をルイーズと詳しく詰めたあと、共に署名と拇印を押した。
夢見る少女の夢が壊された時、ヘレナは父が持ってきた縁談相手と結婚した。
「僕の奥さん、考え事かな?」
後ろから聞こえてきた声に振り返るとヘレナの夫がグラスを両手に持って立っていた。
「ええ、まあ。ところで貴方が持ってきたものの中身は何かしら?」
「これは普通の葡萄酒だよ。仕事で疲れているだろう奥さんに休んでもらいたくて、ね。どうだい?久しぶりに一杯飲もう」
「・・・そうね」
断ろうかと一瞬思ったけれど、一気に疲労がやって来たのでそのままグラスを受け取った。一口飲んで、ヘレナは頭一つ分高い夫を見上げた。
「貴方のご実家のもの?」
「ご名答。どう?美味しい?7年前の葡萄酒でね、まだ若いけれど出来が良かったみたいだから味見したくて我慢できなかったんだ」
「7年前の・・・貴方と出会った年ね。美味しいわ」
デリックは嬉しそうに笑い、ヘレナの髪を撫でた。
ヘレナの夫であるデリックは農耕に優れた領地を持っている伯爵家の次男で、学園で出会った同級生だ。彼の実家では葡萄酒を始めとした様々なお酒を造っていて、国内に流通しているお酒のほとんどは伯爵家の領地産だ。
学園に入学した当初、ヘレナには友人がいなかった。何故ならルイーズという矛先を失い、入学した当初のヘレナは感情赴くままに話し、その言葉の鋭さから避けられていたからだ。それまで時々遊んでいた子も学園に入って派閥というものをわかってからは疎遠になっていた。
全寮制という全く環境の変わった場所で、毎日たった一人で過ごさなければいけないことはとても辛くて寂しかった。
食堂では席で食べるかランチボックスで食べるかの二択があり、食堂で一人寂しく食べる姿を見られるのが嫌で、いつもランチボックスを頼むと人気の無い場所のそのまた茂みに隠れた場所でそれこそ一人寂しく食べていた。昼間の寮は閉められていて戻ることができなかった。
そんな過ごし方で2カ月経ち、授業のグループでもまるで厄介な扱いを受けて、移動教室でもいつも一人で移動し、早くもホームシックになって帰りたいと思っていた時、ヘレナはデリックに出会った。いつものように一人寂しく茂みの奥の隠れた場所でサンドイッチを食べていたら、がさごそと音を立てて彼は現れた。
『ヘレナ嬢!』
いつか見た大型犬のように尻尾を振って喜んでいる姿が彼に重なった。
それからデリックは何故かヘレナに付きまとい、ヘレナも素直に感情を表現する彼にいつしかほだされて友人となった。そんな二人の打ち解けた姿にいつしか同級生も話しかけてくれるようになって、今でも付き合いがあるほどの友人ができた。
中でもデリックとは親友と呼べるほどの仲になった。
好きな食べ物、好きな本、勉強でわからないことがあればお互いに聞いて、友人と喧嘩をしてしまった時は仲直りの方法を。休日には友人たちと共に一緒に街を巡り、お祭りに参加したり、クラスが離れると不安になって一緒に食事をとってもらった。
他の誰にもしたことのない妹との話を嫌われる覚悟で彼に話した時、彼は静かにヘレナの頭を撫でてくれた。それから小さな頃からのコンプレックスも、町で見かけた青年に恋をしたこともその恋が破れて泣いたことも、ヘレナの全てをデリックは知っていた。
対面させられるまで婚姻相手がデリックとは知らなかったけれど、ずっと君が好きだったんだと告白されて、ヘレナはデリックと離れたくないと思った。
そうしてヘレナは3年の婚約期間を経て、デリックと結婚した。
「私、あの子に謝ることができなかったの」
「うん」
「おとぎ話に憧れているのは知っていたけれど、まさかあそこまでとは思わなくて」
「心配?それとも・・・不安?」
全て飲み、グラスの底に残っているワインを揺らめかせる妻を抱き寄せ、デリックはその艶やかな髪に口づけを落とす。
「・・・・・・」
答えらない妻のささやかなプライドにかわいらしいと思わず笑みを零しつつ、デリックは未だ少女のような危うさを残した初恋の相手を優しく抱きしめた。
*
「ねぇ、そういえばルイーズのお姉さんて侯爵家当主だったわよね?」
洗濯ものを干しているとオリヴィアがふと聞いていた。
「ええ、そうですよ」
今は家から出ているし、きちんと国にも届け出ているけれどね。
なんて、ルイーズの内心の呟きがオリヴィアに聞こえるはずがない。
本来ならば侯爵家の娘が家を出たなど醜聞も甚だしく、貴族中を駆け巡る話題だが、それを恐れた父によって秘密裏に進められたので知っている人はほとんどいない。ほとんどの貴族の認識は、ドゥルイット侯爵家の次女はあの獣人の屋敷で見張りとして遣わされている、というもの。
意図的に広めたそれも含めて、最初は3人にも歓迎されていなかった。
「どんな人なの?ほら、私が長女でお姉ちゃんやってたでしょ?ロビンからお兄さんの話は聞くけどお姉さんの話はないから、他の家のお姉さんてどんな感じなのかと思って」
「そうですねぇ。オリヴィアともまた違った感じなので、私の姉だけならばになりますけど・・・責任感のとても強い真っ直ぐな人ですよ。不器用な方なのでそこは心配ですけど、夫になった方はしっかりしているのできちんとフォローしてくれるはずです」
「ふぅん・・・。お姉さんのこと、好きなのね」
「――はい、幸せになってほしいです」
照れくさそうに笑うルイーズを微笑ましく思うオリヴィアは見つめ、無駄に大きなお屋敷のある部屋の窓を見上げた。
オリヴィアの視線に気付いたのか、窓辺にいた存在はさっとカーテンを閉めて逃げたようだ。
主様も恋をしたなら素直に伝えたらいいのに。
主様のほのかな想いに気付いているのはオリヴィアとアルマさんだけだ。くそ鈍感なロビンは一向に気付きもしなければ、言ってもあの主様がまさか!と信じようとしないバカだ。
実はルイーズがもしかしたら番ではないかと、オリヴィアは密かに思っているがそれに関してはアルマさんも否定するので、それは違うのだろう。
ま、番様が現れるのが一番いいんだけどね。
なにを隠そうオリヴィアもおとぎ話の幸せな結末に憧れていた一人なので、自分の食い扶持は自分で稼ぐのも本心ではあるが主様と番様が出会う瞬間が見たいと期待してこのお屋敷で働くことを決めたのだ。
そんな日が早く来ればいいのになあと思いながら、洗濯物を干し終えたルイーズと一緒にオリヴィアはお屋敷に入っていった。