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花冠 -タイカン-5



 翌週、流華の快復と入れ替わるかたちで今度は私が体調を崩した。病院へ行った結果はインフルエンザ。当然、宿直室へ隔離されることになった。

「流華ちゃんすごく寂しがっててね、『私も莉乃と一緒に寝る』ってさっきまでずっと言ってたのよ」

 勤務を終えて帰宅する前に寄ってくれた浅沼先生がそんなことを教えてくれた。ニコニコ笑っていたところを見ると笑い話のつもりだったんだろうけど、私からすれば不安が増すだけだった。

 その時にもらった薬を飲んでからベッドに入るといつの間にか眠っていた。

 目を覚ましたのは真夜中で、上体を起こすと同時に吐き気を催し、先生が用意してくれていたバケツに顔を突っ込んで嘔吐した。

 息苦しさに視界が滲み、ようやく吐ききった時に涙がバケツの中へ落ちていった。

 はぁはぁと乱れていた呼吸が落ち着いてきた頃に顔を上げて、サイドテーブルに置いてあったティッシュで口の回りを拭いた。ベッドを出ようとしたけど嘔吐後の脱力感からか足が震えて力が入らなかったから、少しの間その体勢のままぼんやりしていた。部屋の中が臭くなりそうで心配だった。

 回復してからトイレへ行って吐瀉物を流し、洗面台で口をすすいでから顔とバケツを洗った。宿直室へ戻りスポーツドリンクを飲んでからベッドに入る。吐き気や頭痛は殆ど感じなかったけど、同じように眠気もなかった。ぼんやりしているうちに眠る前の不安を思い出してしまった。

 流華は大丈夫かな。一人で寝てるのかな。それとも誰かの部屋で一緒に寝てるのかな。基本的に人の部屋で眠るのは駄目だけど、今回みたいな場合なら許してくれそうな気もする。私は平気だったから一人で寝ていたけれど。

 しばらく悶々としてから再び宿直室を出た。先生や他の子に気付かれないよう足音を殺して階段を上がっていく。

 二階の一番奥にある自室の前に着くと、そっとドアノブを握ってゆっくりドアを開き、隙間から室内の様子を覗いた。

 二段ベッドの上。流華が眠っている筈のその場所には、明らかに大人の大きさのシルエットがあった。

 両手をベッドに付き、下腹部を動かしている。

 さっきの私より荒い息遣い、それに合わせて時折聴こえる小さな呻き声ーーーー泣き声?

 前者が島屋のもので、後者が流華のものであることは考えるまでもなく理解していた。何をしているのかまでは分からなかったけど。

 でも、それがおかしいことだというのはなんとなく分かった。島屋が無理矢理やっていることも、流華が嫌がっていることも。なんでされるがままに、なんて思わなかった。怖くて動けないのだ。見てしまっただけの私ですらそうだったのだから。

 ようやく動けるようになっても、部屋の中へ入っていくことはできなかった。踵を返し、さっきよりもずっと足音を殺しながら宿直室に戻り、バケツを手にとって廊下に出ると思い切り床に叩き付けた。

 大きく跳ねたバケツはガランガランと大きな音を立てながら廊下を転がり、壁にぶつかって動きを止めた。

 しばしの静寂の後、二階から複数の物音が聞こえてきた。続いて話し声と足音、そして島屋の「部屋に戻れ」という怒声。

 階段を降りてくる足音を聞きながらバケツを拾って胸に抱いた。

「莉乃、どうしたんだい、こんな夜中にバケツなんか持って」

 一階へ降りてきた島屋が尋ねてくる。明るい場所で見たその顔は気持ち悪いくらい汗でテカテカしていた。

「吐いたから洗ってた。そしたら転んで……」

「そうか。大丈夫かい?」

 頷くと島屋は笑みを浮かべた。

「なら早く部屋に戻って眠った方がいい」

 ここで素直に従ったら島屋はまた流華のところに戻るのだろうか。

「先生も一緒に寝よう」

 一歩近付いて島屋の服の裾を掴む。流華の元に戻らせたくないという意思表示は、島屋からすれば甘えているようにしか見えなかっただろう。

 流華と同じ事を自分がされるかもしれないと考えなかったわけではない。でも、もしそうなってしまったとしても、流華の元に戻らせたくはなかった。

 恐怖に震えていた私を見てどう思ったのか、島屋は短い逡巡の後に「じゃあ眠るまでは一緒にいよう」と言った。

 その後、私が眠ったのは明け方くらいだったと思う。それまで島屋はベッドに腰掛けて私の手を握っていた。何もしなかったのは、単純に私に興味がなかったのか、あるいは伯父さんと伯母さんの存在があったためか。

 その日から私は考えた。どうすれば流華を助けられるだろうかと、熱で朦朧とする頭で、ひたすらに。



 インフルエンザが完治した週の終わりに伯父さんと伯母さんが訪ねてきた。二人は私の快復をとても喜んでくれたけど、その笑顔に上手く言葉を返すことはできなかった。

 そんな様子を見て、伯父さんと伯母さんはいつもより早めに切り上げることを決めたらしく「それじゃあ今日はそろそろ」と腰を浮かせた。

 申し訳なさそうに頭を下げる園長先生に笑顔で首を振る二人を見て私はようやく決心した。

「おじさん、おばさん」

 二人は柔らかい表情で私に顔を向ける。

「私、おじさんとおばさんのとこには行かない」

 決心した筈なのに、そう口にし終えると同時に両目から涙が溢れた。

 一緒に出掛けた記憶。美術館で見た写真に写った綺麗な景色。その場所に三人で立っている未来図。

「だからっ、流華をつれていってあげてください」

 嗚咽で喋れなくなる前に一息で言い切って頭を下げた。涙がテーブルの上にポタポタ落ちていく。

 その場にいた四人の大人は明らかに困惑していた。

「流華ちゃんというのは……」と聞いた伯父さんに園長先生は「一緒に住んでいる同い年の子です。莉乃ちゃんととても仲が良くて……」と答えた。

 そして僅かな沈黙の後、私の隣に来た伯父さんが腰をかがめて私の名前を呼んだ。ゆっくりと顔をあげると涙が頬を伝っていった。

「伯父さん伯母さんと莉乃ちゃんは親戚だよね。だからここから引き取ることもそう難しいことじゃあないんだ。でもね、血縁関係がまったくないーーーーつまり親戚じゃない子を引き取るとなると、事情がまるで変わってきてしまうんだよ」

「無理なの?」

「とても難しいことではあるよ」

「流華はすごく良い子だよ。たくさん笑うし、小さい子にも優しいし、花かんむりの作り方だってお母さんの代わりに教えてくれた」

「うん。じゃあ莉乃ちゃんはどうして流華ちゃんを連れていって欲しいのかな」

「それはーーーー」

 絶対に言えない。言うべきじゃないと思っていた。


 伯父さん伯母さんと別れて西棟へ戻る際、浅沼先生がさっきの発言の理由を尋ねてきた。私が答えずにいると、

「最近流華ちゃんの元気がないのと関係あるの?」と更に質問を重ねた。返事はしなかったけど、おそらく顔に出たのだろう。確信したような口調で先生は話を続ける。

「理由を知っているのなら知りたいな。先生もね、流華ちゃんのことが心配なのよ」

 それは分かっているけど。でも。

「先生はね、莉乃ちゃんが伯父さん伯母さんと一緒に暮らすようになってくれたらいいなって思ってるの。もちろんここにいてほしくないわけじゃあないし、莉乃ちゃんがいなくなったらすごく寂しいけど、引き取ってくれる人がーーーー一緒に暮らそうって言ってくれる人がいるっていう幸せは莉乃ちゃんにも分かるでしょう?」

 素直に頷くと先生は笑みを深くした。

「心配しなくても大丈夫よ。流華ちゃんのことは先生もちゃんと見ておくから」

 見たってしょうがないのだ。見るだけなら誰にだってできる。流華はもう酷い目にあっている。見るだけじゃなくて動かないと。手を差し伸べないと何も変わらない。

 大人はいつだって悠長だ。同じ時を生きているとは思えない。やっぱり私が流華を守らないといけない。傍にいないといけない。


 それから伯父さん伯母さんと会う度に流華のことをお願いし続けた。二人は毎回困った顔をしていたけど構わなかった。嫌われたっていい。最悪なのは、流華を置いて私一人があさやけ園を出ていくことだったから。

 そして、春が過ぎて夏が来た頃に、

「もし莉乃ちゃんが言うように、僕達が流華ちゃんを引き取ったとして」と伯父さんが言った。いつものお願いにたいしてその反応は初めてで、期待に胸が高鳴った。

「二人を引き取ることはできないよ。つまり、莉乃ちゃんはここに残ることになるんだ。それでも考えは変わらない?」

「うん」と即答した。元々私は出ていくつもりなんてなかった。ここには妃ちゃんや他の女の子もいて、島屋のことを知っているのは私だけなのだから、なんとかして守ってあげないと。

「そうか……」と伯父さんは伯母さんと顔を合わせた後、私へ向き直った。

「二人でたくさん話をしてね、莉乃ちゃんがそこまで言うのなら、一度流華ちゃんと会ってみようかと思っているんだ」

「うん、うん」

 興奮のあまり何度も頷いた。会うなら早く、今日にでも会っていってほしい。流華を引き取る人が現れれば、島屋も下手に手出しは出来なくなるだろうから。

 そしてこれはずっと後から知ったことだけど、施設の子供を養子にする際、子供を選択することはまずできないらしい。だからきっと、二人は私に確認をする前から先生達と話をして、流華と会える、もしかしたら引き取れる状況を作ったんだろうと思う。そこでどんな会話がされていたのかは分からないけどーーーー子供の選別なんて正しくないことは分かっているけど、それでも私は二人には感謝の気持ちしかなかった。

 翌月に流華が園長室へ呼び出された。戻ってきた流華はどこかぼんやりしていて、でもその瞳は久し振りに、少しだけだけど、輝きを取り戻しているように見えた。

 それから流華は時の流れに比例して元気を取り戻していった。その様子から島屋が何もしなくなったことは一目瞭然で、私はほっと胸を撫で下ろしていた。油断していたといってもいいのかもしれない。

 そして再び冬を、新年を迎え、流華の退所が目前に迫った頃。

 学校から戻ると園の前に救急車が停まっていた。私が近付く前に発進し、それを見送る先生の服はところどころ赤く染まっていた。

「莉乃ちゃん」と私に気付いた先生が駆け寄ってくる。

「今ね、島屋先生が階段から足を滑らせて病院へ運ばれたの。小さい子でパニックになってる子もいるから見てあげて」

「うん。島屋先生は大丈夫?」

「え、えぇ。きっと大丈夫よ」

 大丈夫じゃないんだ、と分かった。でもなんとも思わなかった。むしろーーーー。

 その感情を振り払うように大きく頷いてから歩き出す。

 西棟へ入りリビングへ行くと流華と妃ちゃん、それから幼児二人がいた。一人は東棟の子だ。

「あ、おかえり、莉乃」

 流華はそう言って私に笑みを向けた。

 その瞳は、また輝きを失っていた。

「ただいま」

「島屋のこと聞いた?」

「うん」

「東棟ね、今二人しかいないんだって。だからこっちに集まってるの」

「うん」

「荒詞君もいたんだけどどっか行っちゃったし」

「うん」

「島屋大丈夫かな。先生なにか言ってた?」

 私は流華を安心させたくて、

「大丈夫じゃあないかもって」

 と言った。

 妃ちゃん以外の子が泣き出す。島屋が死ぬことが悲しいんじゃなくて、きっと身近に迫った『死』が怖かったんだと思う。

 その子達をあやしながら私は流華を見た。

 笑っているのに、一番泣きそうで、怖がっていて、混乱しているように見えた。

 その表情から、流華のしたことをなんとなく理解する。でもショックはなかった。善悪も成否も考えることなく、そのままを受け入れることができた。

 大丈夫。

 島屋がどうなろうと、流華はもうすぐここを出ていくのだから。

 そうしたら全部忘れられる。

 幸せになれる。

 それを口に出さなかったのは、流華のためではなく、自分に言い聞かせるための言葉だったからなのだろう。



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