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花冠 -タイカン-4


 その日の夜、流華がまた体調を崩したと浅沼先生が教えてくれた。

「熱はほとんど下がったんだけど、吐き気とか頭痛が酷いみたいで大分辛そうなの」

 その言葉に不安が大きくなり、ベッドに入っても悶々としてしまいろくに眠れず、翌日は朝から眠気と戦いながら過ごした。しかし学校が終わってあさやけ園へ戻ると嘘のように目は冴えて、意識もハッキリしていた。

 駆け足で園庭を駆け抜け、宿直室の閉じたカーテンを確認してから西棟へ入る。 靴は他の子達のものもあったけど、リビングには島屋一人しかいなかった。

「先生、流華は?」

 テレビを見ている島屋にそう尋ねる。

「宿直室で寝ているよ」

「そうじゃなくて。お医者さんに見てもらったんでしょ?」

「あぁ、そういうことか。うん、連れていったのは僕じゃなくて園長先生だがね。インフルエンザではないそうだよ」

「じゃあ会ってもいい?」

「あー……、いや。止めておいた方がいいかな。もしも莉乃ちゃんに風邪を移したりしたら流華ちゃんが気に病むと思うから」

 もう接触禁止じゃあないんだ、と思いながらも島屋の言葉にも同意した。昨日だって流華は妃ちゃんに風邪を移さないよう気にしていたから。

「流華ちゃんの身体の中に残った菌が悪さをしているんだろうね。大丈夫、きっとすぐに良くなるよ」

 頷いてから踵を返してリビングを出た。宿直室の前を通りすぎようとして、何気なく足を止めた。ドアノブを掴んで、音を立てないようにそっとドアを開く。

 多分寝ているんだと思っていたし、ちょっと様子を見たいだけだったけど、ドアの隙間から室内を覗き込むと同時に流華の大きな瞳と目が合った。

 ベッドで上体を起こし、身体を隠すように毛布を抱いている。

「莉乃?」

 確認するような、そしてどこかすがるような、流華らしくない弱い声だった。

「うん」

「一人?」

「ん? うん」

「入ってきて」

 言われるがままに室内へ入ってドアを閉めた。島屋にバレたら何か言われそうだったから、気付かれないように、ゆっくりと。流華が声をひそめていたのもそれを分かっているからだろうと私は思っていた。

「大丈夫?」

「お風呂入りたい」

 昨日と同じ言葉が返ってきた。よく見ると流華の額にはじんわりと汗が浮かんでいた。

「暑い? エアコン下げる?」

「ううん、いい」

「先生に頼んでみる? お風呂」

「いい」

「じゃあまたタオル持ってきてもらう?」

「莉乃が持ってきて。島屋には言わないでいい」

 その要求は、流華が日頃から島屋を嫌っていることを知っている私にとって別段気に留めるほどのものではなかった。

 一つ頷き、入ってきたときと同じようにゆっくり宿直室を出て洗面所へ行く。浴室に入ってクリーム色の風呂桶を取ってぬるま湯を注ぐ。浴室乾燥中の流華のパジャマを両手で触れて乾き具合を確認。問題なし。ハンガーから外して洗面所へ戻る。綺麗なタオルを洗面台の棚から取り出して宿直室へ戻ると流華はベッドに腰掛けてパジャマを脱ぎ始めた。

「あとで背中拭いてね」

「うん」

 会話はそれだけで、後は身体を拭いている流華を何気なしに眺めていた。普段なら私相手でも色々話してくれる流華も、今日はとても無口だった。風邪のせいだろうな、なんてぼんやり考えていた私に流華は時折チラチラと視線を向けてきた。何かを確かめるような、そんな視線だったと思う。

「背中拭いて」

「うん」

 タオルを受け取ると流華はこちらへ背中を向けた。エアコンのついた室内とはいえ、真冬だというのにその背中にはじんわりと汗が浮かんでいた。

 背中にそっとタオルを当てると、流華の肩が僅かに跳ねた。

「痛かった?」

「う、ううん、ちょっとびっくりしただけ。えっと、タオルが冷たくて……」

 手に持っているタオルに今一度よく触れてみたけど、冷たいどころか体温より少し暖かいくらい。でも流華がそう言うのなら、とタオルをぬるま湯に入れた。

 身体を拭き終えた流華は替えのパジャマを着てから「ふぅー」と大きく息を吐いた。その表情には今まで浮かべていなかった笑みがある。そんなに汗が気持ち悪かったのだろうか。

 流華は私を見て一層笑みを深くすると両腕を前へ伸ばした。昨日の妃ちゃんと同じポーズだ。

 何かの拍子に流華から抱き締めてくることはよくあるけど、それを要求されたのは初めてのことだった。五割のむず痒さと四割の嬉しさ、そして一割の違和感を抱きながら流華の背中に両腕を回した。

 ギュッと抱き締め合うと、流華の不安が不思議と伝わってきた。

 何が不安なんだろう。

 私が思い付くのはやっぱり風邪のことくらいで、でもそれじゃないこともなんとなく分かっていた。

 それでも何も聞かなかったのは何故か。

 自惚れていたからだ。

 流華に何があっても、私がこうやって抱き締めてあげればいいのだと思って、その異変を見て見ぬフリした。

 ここが最初で最後のチャンスだったのだと、今になって思う。

 私は自惚れることなく、満たされることなく、見て見ぬフリもせず、尋ねるべきだったのだ。それに流華が正直に答えてくれたかどうかは分からないけど、そんなのはどちらでも構わない。一言、何かあったの、と尋ねて、心の距離も縮めるべきだった。

 そうしたら、心に刻まれた大きな傷にだって、もっと早くに気付くことができたかもしれないのに。

 その痛みを共有することだって、できたかもしれないのに。


 翌日になっても流華の体調が良くなることはなかった。微熱、倦怠感、吐き気、頭痛。昨日とまったく変わらない症状に先生達も不安を感じていたのか、その翌日、やはり症状が治まらないことを確認してから園長先生が流華を再度病院へ連れていった。

 帰ってきた園長先生に診断結果を尋ねると「質の悪い風邪だそうよ。そんなに心配しなくても大丈夫」と笑顔で言った。その表情が、伯父さん伯母さんが初めて来たときに見せたものにそっくりだということに気付いたのは園長先生と別れてからのことだった。つまり本物じゃない笑顔。何か嘘を吐いたのか、それとも誤魔化したのかは分からないけど。

 伯父さん伯母さんとは月に二、三度、休日に会っている。最初の頃は園長室で先生を交えて話をしていたけど、いつの頃からか立ち会いはなくなって私と伯父さん伯母さん(伯父さんはいないときもあったけど)だけになった。そして二週間前には三人で外へ出掛けた。伯父さんが運転する車に乗って、レストランでお昼ご飯を食べて、近くの美術館で展覧会が開かれているという話を聞いて早速向かった。

『冬の景色』がテーマの写真展と聞いて、数日前の大雪の日に見た光景を思い浮かべていたけど、展示された数々の写真は私の脳に記憶されたどの景色より遥かに美しいものだった。そして驚くことに、伯父さんと伯母さんは写真に写っている場所に実際に行ったことがあるらしい。帰りの車内でその時の写真を見せてもらった時は羨ましくて堪らなかった。

 私もあの綺麗な場所に行ってみたい。そして可能ならば、展覧会にあったような美しい写真を撮ってみたい。

 外に出ればーーーー伯父さんと伯母さんの子供になれば叶うのだろうか。

 そんなことを考えた記憶。

 伯父さんと伯母さんは明日も来る予定だ。

 でも何時から来るんだっけ。園長先生に聞いた覚えがあるけど思い出せない。

 島屋に聞こうと思って一階へ降りたけど姿が見当たらない。外にいるのだろうかと玄関から出ると、ちょうど南棟へ入っていく島屋の姿を見付けた。帰ってくるのを待とうかと思ったけど、伯父さん伯母さんの話はなるべく他の子がいない場所でしたい。赤ちゃんと先生しかいない南棟は最適だし、もし島屋が知らなくても園長先生に聞けばいい。

 後を追って南棟へ入る。島屋の姿はなかったけど職員が南棟に来る用事なんて限られている。思い付く限りの最有力候補だった事務室へ行ってみたけどもぬけの殻。それなら、と事務室を出て正面にある園長室の前に立った時、扉の向こうから微かに声が聞こえてきた。ドアノブに伸ばしていた右手を止めたのは、その小さな声が流華の名前を口にしたように聞こえたからだ。

 園長先生の作り笑顔が頭に浮かび、そっと右手を下ろした。左右を見て誰もいないことを確認してから扉に耳を寄せる。

「流華ちゃんのこと、ですか?」どこかわざとらしい口調で返したのは島屋の声だった。「流華ちゃんが何か?」

「病院で医師から気になることを言われまして、念のため西棟の先生方にはお伝えしておこうかと思いまして」

「気になること?」

「はい。流華ちゃんの体調不良はもしかしたら精神的なものが原因ではないかと」

 セイシン……?

「精神的、ですか」

「島屋先生、最近流華ちゃんが何か悩んでいる様子などは……」

「風邪を引いてからは確かに元気がないですが、それ以前は特に変わったところはなかったと思います」

 少し間をあけて島屋は「しかし」と続ける。

「思い当たる節は一つだけ」

「なんでしょうか」

「莉乃ちゃんが親戚に引き取られるかもしれないということをどこかで知ったのではないでしょうか。あの二人はとても仲が良いですし」

「なるほど……。確かにそれは有り得ますね」

「しかし、かといって僕達が無理矢理に聞き出すわけにもいきませんよね」

「それはそうですね。医師にはカウンセリングも勧められたのですが……」

「カウンセリング……、いえ、それは止めた方がいいでしょう。少なくとも、僕達が無理矢理に連れていってはそれこそ逆効果です。そういう場所があるのだということだけ教えて、後は流華ちゃん自身の判断に任せるべきかと」

「そうですね。では島屋先生にお願いしてもいいですか」

「勿論です」

 それからも二人の会話は続いていたけど、私は扉から顔を離してそっと立ち去った。園長先生が言った『セイシンテキ』という言葉の意味は分からなかったけど、流華が体調を崩している原因が私にあるのかもしれないと言っていることは理解できた。

 二日前の流華の少しおかしな様子を思い出すと、島屋の言ったことは正しいように思える。何か確かめるような視線、そしてギュッと抱き締め合うという行動。

 翌日、伯父さんと伯母さんと会っている間も私の頭はひたすら流華のことを考えていた。

 流華が体調を崩していることへの罪悪感もあったが、それ以上に怖かった。嫉妬されることが、そしてその感情を向けられることが。

 それを解決する方法は当時の私にも思い付いていた。

 今回の話を全てなかったことにすればいい。伯父さんと伯母さんの誘いを断ればいい。園長先生は残念がるかもしれないけど、それで流華が元に戻ってくれるのなら構わない。

 そう思っている筈なのに、私はその気持ちを口にすることが出来なかった。




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