鬼踊 -ユウ-3
「今まで気のせいかもしれないと思って言わなかったんだけどさー」
三人で帰る日常にも慣れてきた五月下旬の朝食時。唐突にそう言った流華に顔を向ける。
「たまにだけどね、夜中に隣の部屋からゲホゲホって咳してる音が聞こえてくるんだよね」
宙で箸先を開閉しながら流華は言う。行儀の悪さよりもその言葉に意識をとられた。
「隣って結羽の部屋だよね?」
「うん。ほら、歓迎会の帰りに結羽ちゃん吐いちゃったでしょ? あんな感じの咳」
「いつから?」
「気付いたのは一週間くらい前。それで、昨日また聞こえたから、一応莉乃に言っとこうかな、って」
「他の誰かに言った? 隊長とか」
大将とか。
「んーん」
「そっか」
その日のうちに私から隊長に、そしてこっそり北詰大将に連絡した。環境に慣れれば症状は治まるだろうという予想は外れていたのだから。
しかし、大将が様子見の姿勢を変えることはなかった。上がそう言っているのだから、隊長が何かやろうとしてもおそらく無駄に終わる。大将も『こちらでも手は打っておく』と言っていたから完全に放置ということはない筈だけど。
でもそれだけでいいのかな。現状のままじゃあ駄目なら、少しでも環境を変えた方がいいんじゃ。
そう思って夕御飯に誘ってみたけど一言で断られてしまった。流華も流華で、結羽ちゃんの話題を出すとどこか不機嫌そうになる。何かあったのかと聞いてみても『何もないよ? そもそも任務の時くらいしか会わないし』という答え。
やっぱり結羽のことまで気にかけるのは無理なのかもしれない。それでも、最悪の事態にだけはならないようにしたい。結羽のためにも流華のためにも。
それからは、夕御飯やお出掛けのお誘いがてら結羽の様子をこまめに窺うようにした。でもあんまりやり過ぎると今度は流華がむすっとしてしまうから、ちょうどいい具合に。多分流華は、お誘いを全部断る結羽のことが気に入らなかったのだ。私が聞いても『べっつにー』とそっぽを向くだけだったし。
そういう態度を取られるとすごく困ってしまうのだけど、でもそれと同じくらい嬉しくもあった。流華がそんな顔をするのは私に対してだけだと知っていたから。
結羽もそうなってくれればいい。笑わないし、誰にも言わないから、私の前だけでは取り繕わずに、素直に。
それがとても難しいことだというのは分かっている。でも、繕っても繕っても、またほつれてしまいそうになっている結羽を思うと、そう思わずにはいられなかった。
それから数日が経ち、六月に入って最初の土曜日。
ベッドに仰向けに寝て、両手で持ったそれを眺める。
『冨田先生から演劇の割引券をもらったんす! 俺行こうかと思ってるんですけど、よかったら先輩達も一緒に行きませんか!?』
今週の中頃にそう言って手渡されたチケット。そこに記されている劇団にも演目にも覚えはない。日付は明日。開始時間は午後一時。
健が言った『先輩達』というのは私と流華のことだけど、流華は公休で実家へ帰ることになっているため不参加。代わり、というわけではないけど結羽を誘うつもりだ。流華の助言に従って、考える時間を与えないように、明日の出発前くらいに。
チケットをナイトテーブルに置いてから部屋の灯りを消す。
眠気は感じていなかったけど『眠ろう』という思いに反応して、意識はすぐに溶けていった。
翌朝、六時半に目を覚ました。普段通りの起床時間。平日ならすぐに着替えて流華を起こしに行くけど、今日は休日だから七時くらいまでは寝かせてあげる。それでも早いと言われるけど。
カーテンを開ける。昨晩雨が降ったらしく地面は濡れていて、空は相変わらずの雨雲に覆われている。最近はずっとこんな天気だ。
重たい瞼をこすりながら洗面所へ行って顔を洗う。鏡を見ると相変わらず眠たそうな顔。実際眠たい。両手でぱんぱんと頬を叩いてから前を向く。眠そうな顔。実際眠たい。
どれだけ規則正しい生活を続けても朝が弱いのは変わらない。徒花だっていうことを考えると、私の意識に問題があるんだろうけど。でも別に寝不足というわけでもなければ起きるのが嫌なわけでもない。眠ることは割と好きだからそのせいかもしれない。
欠伸をしながらリビングに戻る。
何しようかな、と室内を見回して、クローゼットに目を止めた。今日着ていく服でも選んでおこう。流華が考えてくれたコーデ通りに着れば間違いないしーーーー、いや、私ももう高校生なのだから、ちょっとくらいアレンジを加えたところで昔ほど酷いことにはならない筈だ。
そんな危険極まりない思考と謎の自信に突き動かされてクローゼットへ一歩踏み出した時、ナイトテーブルに置きっぱなしにしていたスマホがブルルと振動した。
メール? こんな朝早くに誰からだろう。
ベッドに腰掛けてスマホを手に取る。差出人は『類家隊長』だった。
『都合がいいときに電話をくれ』と短いメッセージ。すぐに電話を掛けると、ワンコールもしないうちに繋がった。
『起こしたか』
「ううん、ちょうど起きたとこだった」
『ならいい。早速本題に入るが、空木のことだ』
そうかもしれないとは思っていた。けど、
『昨晩、マンション近辺の道端で倒れている空木を発見した』
その言葉は全くの予想外だった。
『いくら呼び掛けても身体を揺すっても目を覚まさない状態だった。今は支部の医務室で眠っている』
「大丈夫なの?」と聞きながら、大丈夫なわけがないと頭の中で自答した。やっぱり悠長に様子見なんてしている場合じゃなかったのだ。
『その問いが、空木が目を覚ますかどうかという意味なら『分からん』としか答えようがない。だが空木の状態を指しているというのなら、少なくとも大丈夫とはいえないだろう。目を覚まし次第、空木には無期限の休業命令を出す』
出すつもり、とか、出す予定、と言わずに断言したところから、今回は上の人に何と言われようが引かないという決意が伝わってきた。
その後、朝食を終えたら様子を見に行くと言って電話を終えたものの、流華の寝起きがいつも以上に悪かったり、実家に帰る支度を全然やっていなかったりで、支部に着いたのはお昼近くなってからだった。
流華に結羽のことは言わなかった。ずっと黙っておくつもりはないけど、せっかく実家に帰るという時に言うこともないかと思ったから。
医務室へ行くと結羽は目を覚ましていたけど、安心したのも束の間。隊長が休業命令を言い渡すと、結羽は今にも飛びかかりそうな勢いで抗議した。でもそれで決定が覆るわけもなく、隊長が出ていったドアを結羽は歯を噛んで睨んでいた。
どうしてそこまで戦いたがるのか私には分からなかった。カフカと戦わずに生きていけるならそれに越したことはないと私は思うし、軍を辞めるのではなく休業ならば一般人から疎まれることもほぼない。退職した徒花からすれば羨ましいくらいの処置だ。
それでも何か言わなきゃと思って結羽の名前を呼んだ。何を言えばいいかも分からないまま。
こちらを見た表情には怒りと敵意が混ざっていた。それを見た瞬間、私は『違う』と思った。どんなに考え方が違っていても、口論をしても、性格が合わなくても、徒花は敵同士になんかならない。
敵じゃないということを伝えなきゃと思った。
「えっと、私に何か出来ることがあったらーーーー」
「何もない」
全てを拒絶するような冷たい声。
「出来ることなんて何もあるわけないでしょ! 徒花に出来ることなんてカフカを殺すことだけなんだから! 何かを生かすことも助けることも、認められることも称賛を浴びることも、殺すことでしか叶えられない! そんな存在が偉そうなこと言うな! 嫌いなんだよ! あんたも、戸舞流華もーーーー!」
続く言葉が出る筈だった結羽の口からは、コフッ、という息が漏れる音しか聞こえなかった。意識して行ったことではないらしく結羽も一瞬だけ戸惑った表情を浮かべたけど、すぐに眉を吊り上げると手元にあった枕を掴んで投げ付けてきた。
避けることは容易だったけどしなかった。
その言葉にショックを受けたということも理由の一つ。でも一番大きな理由は、結羽をここまで追い込んだのは私の我が儘だと気付いたからだった。
流華が腐らないように、死なないように。
それだけ考えて動いた結果が、結羽をこんな遠くの地に連れてきて、独りにして、追い詰めた。
私の顔に当たり弾けて、すっかり薄くなった枕に視界を覆われた薄暗闇の中、プラスチックのパイプが辺りに飛び散る音が聞こえた。
枕がずれ落ちて見えたのは、怒り冷めやらぬといった表情の結羽。
何か言わなきゃ。
考えるより先に「出てけ!」という怒号が浴びせられた。
それでも何か言わなきゃいけないと思った。でもまた怒らせてしまうのではないかと思うと何も言えなかった。
部屋を出る前に小さく「ごめんね」と言ったのはどう考えても自分の中にある罪悪感を和らげたいがためのものだった。
午前中のうちに健に断りの連絡を入れておいてよかった、と廊下を歩きながら思った。結羽が大変な時に自分だけ楽しむのは、という思いからの行動だったけど、どちらにせよこんな気持ちのまま会っても気を遣わせてしまうだけだと思うから。
隊長室でこれからのことを少し話した。隊長は上の人と既に話をつけていて、結羽の休業の許可、そして再び二人になった戸舞班の処置まで決定していた。
「戸舞班には新たに三人目を入れる。その方が空木も気にすることなく休めるだろう」と隊長は言ったけど、私は首を横に振った。
「三人目は、いい」
「なに?」
隊長は眉をひそめて凝視してきた。三人目の加入を望んでいるのは私だと思っていたのかもしれない。間違いでもないけれど。提案したのは北詰大将だけど、それだって結局、私の我が儘を通すための条件なのだから。
短い沈黙の後、隊長は「ふむ」と短く息を吐きながら言った。
「実を言えば私も三人目の加入には反対していた。以前に流れた噂や、紋水寺と戸舞の個々の能力の高さが理由だ。本人達がそういうのであれば、それを踏まえてもう一度上の人間と話をしてみよう。それで構わないか?」
頷く。
「でも、今すぐ戸舞班を解散するのはやめてほしい」
「その要望は覚えておこう。だがな、私はお前や戸舞をいつまでも同じ班にしておくつもりはない。お前達は梅長と並んで新人の育成に当たってほしいと考えているからだ」
新人の育成。梅長さんがそういう立ち位置にあることは知っている。奈緒や沙良さんなんかも入隊当初は梅長班だったし、今も新人二人と組んでいる。そのうち一人は入隊から半年以上経っているから新人と言っていいのか微妙なところだけど。
私がそんな役に。
不安はあるけど嫌ではない。
でも私はーーーー。
電話の音が鳴り響いた。スマホではなく、机の上に置かれた固定電話だ。
隊長はすぐに手を伸ばして「私だ」と電話に出る。
「なに? 少し待て」
受話器を机の上に置いたまま、隊長は机の引き出しからタブレットPCを取り出した。
「空木が医務室からいなくなった。検問所に確認したところ少し前に一人で出ていったそうだ。大人しく家に帰るのならいいがーーーー」
画面を見ていた表情がしかめられる。
「反応なし? スマホを壊したか。高価なものだというのに……。だが反応が消えるまではマンションに向かっているようだな。紋水寺、これからの予定は?」
「特にない。マンションに帰るつもり」
「それなら空木が部屋にいるか確認して連絡をくれ」
そう言うであろうことは分かっていたからすぐに頷いた。




