後日談編
翌朝。
空はねずみ色の雲で覆われ、しくしくと泣くような雨が降っていた。
「た、大変っスよ、ケイ先輩!」
学園の玄関ホールに入ると、雛崎さんが待ち構えていて、何やら焦ったような、困ったような、普段あまり見せない表情を僕に向けてきた。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも無いっすよ。とにかく来て欲しいッス」
そう言って雛崎さんは僕の手を引っ張り、早足で歩き出した。
「な、何があったのさ」
「自分、ルリっちが心配でいつもより早く学校に来たんスけど……」
雛崎さんは階段を上りながら話し始めた。
「ルリっちのいる三組を覗いてみたんスよ。そしたら──と、とにかく見て欲しいッス」
二階に上がり、一年三組の教室まで移動する。一年生の階層に、二年の僕が、しかも金髪で青い瞳の女子に腕を引かれていれば、まあ目立たないわけがなく……おまけに僕らは、退部者を一度に四人も出した、かの悪名高き文芸部だ。周りの一年生は数人のグループを組むや否や、ヒソヒソと囁き始めた。
いたたまれない気持ちになっていると、前を歩く雛崎さんが止まった。
「あれッス、見てほしいっス」
雛崎さんが三組の後ろの出入り口から、内部を指差す。
細い指の先に視線を這わせれば、ルリっちこと石橋ルリさんが窓側の席に座っていた。
椅子にだらしなく凭れかかり、心ここにあらずと言った顔を天井に向け、まるで魂の無い人形のようにじっとしていた。漫画ならば色とかトーンとか一切を省いて、ようするに真っ白で描かれそうな姿をしていた。
彼女は完全に燃え尽きていた。
「フラレたんスかねぇ」
「うん。フラレたんだろうねぇ」
灰と化したルリさんを見ながら、僕らはそう結論付けた。
哀れかな、ムスビ先輩に弄ばれ、しかも好意を寄せていた人物にふられてしまうとは。僕と雛崎さんは揃って、祈るように手を合わせた。南無。
「うちのクラスに何か用ですか?」
突然話しかけられ、僕は少し驚いた。名札を見るに、声をかけてきたのは三組の女子生徒だった。溌剌としたショートカットの女の子は更に続ける。
「あれ、もしかして石橋さんに用ですか? いま呼んできますね! おーい、石橋さーん!」
僕らの有無も聞かず、短髪の少女はルリさんの元へと駆け寄った。別に用なんて無い。彼女の姿を見ただけで結果が分かってしまったのだから。
しかしながら、少女は善かれと思ってルリさんに僕らの存在を伝えてしまった。かくんとルリの首が動き、じわじわと廊下側──つまりは僕たちのいる方向に顔を向ける。
眼鏡の奥の瞳はどんよりと濁っていた。椅子から立ち上がり、ゾンビのように上体を揺らしながら、こちらへにじり寄ってくる。
「な、なんか、ホラーって感じッスね。そうだ。ウチ、ちょっとお花を摘みに行ってくるッス!」
「君も共犯だろ! 逃げるな!」
退散しようとする雛崎さんの襟元を、僕は掴んだ。
「は、離して下さい。ウチはここで殺されていい人間じゃないッス!」
「殺されると決まったわけじゃないから、ここで逃げるのは失礼だから!」
「……たのしそうですね、文芸部のみなさん」
掠れた声が僕らにかけられる。生気を感じられない言葉に、僕たち文芸部二人組は体を硬直させた。
「や、やあ、ルリさん。おはよう」
「こ、こんな所で会うなんて奇遇っスねぇ、ルリっち」
「おはようございます、高城ケイ先輩」
淀んだ目で、僕のフルネームを呼んだ……あれ、僕の名字、ルリさんに教えたっけ?
「えっと。その調子じゃ、松重くんとは、そのー、アレになった?」
フワッと要点を濁らせた僕に、ルリさんはあっけらかんと答えた。
「ふられましたよ、ええ。すでに、すきなひとがいるんだそうです、カレ」
ふと僕は松重くんの事を思い出した。彼は確か、彼女とかいなかったはずだ。友達という関係でもないので、僕の知らない所で、彼は女性と付き合っているのだろうか。
「だから、わたしとは、つきあえないそうです。わらっちゃいますよね。あんなに〝おぜんだて〟していただいたのに。あははははは」
もはや壊れる寸前と言った調子で、ルリさんは不器用に笑った。
「好きな人って、誰の事っスか? だれなんっスか!」
不躾かつ野暮に言及する文芸部の後輩の口を、僕は手で抑えた。
「君は黙ってなさい!」
「むきゅ!」と可愛らしい声を上げて、雛崎さんは黙ってくれた。僕はルリさんに弁解する。
「ごめんね、ルリさん。変な事訊いちゃって。僕たち邪魔だったよね。すぐに消えるか、ら……」
ルリさんがじっと僕の顔を見ている事に気が付いた。黒い瞳で瞬きもせずに。
あの〝はにかみ屋〟だった昨日までのルリさんとは、別人のように思えた。
「松重先輩のすきなひと、しりたくないんですか、高城ケイ先輩」
また僕を、名字付けで呼ぶ。死んだ魚のような目のまま、彼女は薄い唇の両端を不気味に吊り上げた。
「誰ッスか! 誰なんスか!」
僕の抑制を無視して、雛崎さんが目を輝かせながら訊いた。本当にこの子は、女子か! いや、女子だけども。好奇心が旺盛すぎる。頭にゲンコツでも一発入れてやろうか考えていると、意外にもルリさんは雛崎さんの申し出に答えてくれた。
「松重先輩のすきなひと、それは……」
「そ、それは?」
ごくりと雛崎さんが唾を飲み込む。
何やかんや僕も気になっている事柄だったので、僕は黙ってルリさんの言葉を待った。
「松重先輩のすきなひと、それは……松重先輩のプライバシーなのでおしえませ~ん。うへへへへ! きひはひひひふひへは!」
突如、壊れたように笑いだすルリさん。
呆然と発狂するルリさんを見つめる僕。
雛崎さんも口をあんぐりと開けていた。
廊下にいた一年生たちも、突如として狂い出したルリさんを、何事かと注目していた。
一頻り笑った後、ルリさんは吐き出すように言った。
「ふふふふふふ、でも、いずれ、わかるとおもいますよ。ただ、ひとつヒントをいうと、オンナとしてうまれてしまったわたしは、もういっしょう、カレをふりむかせるコトはできないという事です」
「……それって、どういう意味ッスか?」
「さあ、どういうコトなのか、わたしもワケがわからないです。カレのこころなんて、もう、わたしじゃわかりません──ねえ、先輩。高城ケイ先輩」
ルリさんは僕を呼んだ。
「……な、なに?」
「あなたは、すきなひととかいますか?」
ねっとりとした質問だった。友達同士が修学旅行の夜に語り合うような問いだが、そんな青春的な色めきのある口調ではなかった。どろりと鼻に付く異臭でも伴っていそうな、昼ドラ的な雰囲気を持っていた。
「す、好きな人とかはいないけど?」
僕は正直に答えた。
何か、とてつもなく嫌な予感がする。
こんな会話はさっさと終わらせて、早急に逃げ出したかった。
ルリさんはニヒルに笑った。
「そうですか。できるといいですねぇ、コイビト。そう、コイビトですよ、コイビト。ねえ、高城ケイ先輩」
そう言ってルリさんは顔を僕に近付けた。
ふわりと、あのオレンジの芳香剤の匂いが鼻を掠めた。
僕の目の十センチ先に、彼女の目がある。女の子にこんなに接近されたらドキッとするのが普通の男子高校生の心理であるが、僕は違う意味でドキッとした。黒く吸い込まれそうな瞳、壊れてしまったルリさん。懐から包丁でも取り出しそうな気迫、まさに命の危機を感じた。
ルリさんは、僕だけにしか聞こえない声で、こう囁いた。
「松重先輩のきもち、わかってあげられるといいですね。高城ケイ先輩」
☆
「なるほど、そんな事があったのね。つまり松重くんは同性愛者だったと。ふむ」
放課後。
朝方の恐怖体験をムスビ先輩に伝えると、彼女は原稿用紙にシャープペンを走らせながら、明け透けにそう言った。
「ふむ、じゃないですよ。僕、これからどう松重くんと接すればいいのか、さっぱりですよ」
「普段通りでいいんじゃないかしら? ケイくんが悩むような事ではないと思うけど?」
「いやいやいや、純度百パーセントで僕の悩むべき事柄だと思うんですが」
「とにかく!」
バンッと机を叩いて、ムスビ先輩は立ち上がった。今まで反省文を綴っていた原稿用紙をクシャクシャにして、部室の角に置かれたゴミ箱へ投げて、結局床にぽろりと外したにも関わらず、ガッツポーズを取って見せた。
「これにて『プロバビリティー的恋愛作戦』は無事、閉幕よ。みんな、お疲れ様!」
労いの言葉を叫ぶムスビ先輩に、やっぱりあの子は食い付いた。
「お疲れ様ッス、ムスビ先輩、ケイ先輩! 最後はマジで祟られるかと思ったッスけど、無事に終わって良かったッス。なかなか楽しかったッス!」
僕は、今度は雛崎さんに突っ込んだ。
「無事でも楽しくもない。雛崎さんは他人事かもしれないけど、今回の件で傷ついたのはルリさんだからね。しかも祟られるのは僕だからね」
ルリさんが好意を寄せる松重くん。
松重くんが好意を寄せるのは、この僕。
だからルリさんは僕を仇にしている。
まことに綺麗な三段論法──もとい三角関係である。しかし残念ながら、僕は、彼の気持ちを分かって上げられない。僕は同性愛をどう捉えて良いのか分からない。
「まあまあ、落ち着いてケイくん」
落ち着いてられないよ、普通。
僕の不安に対して、ムスビ先輩は憎たらしくも笑顔だった。
「これも人助けの一環よ。今回みたいに恋のキューピッドのボランティアをしていれば、いずれ必ず部員が増えるわ」
人助け?
この人は、何しれっと戯れ言を抜かしているのか。理解に苦しむ。
「何言ってるんですか、ムスビ先輩。今回の件では、誰も幸せになっていないじゃないですか。恋のキューピッドなんてよく自称できたもんですね。それに、また文芸部がやらかしたって学園中大騒ぎですよ」
ルリさんが発狂した時、その場所には僕ら文芸部がいた。外野で見ていた生徒たちは、あの文芸部がルリさんを狂わせたと捉えるだろう。まあ、事実なんだけど。噂が広がるのは早いもので、その後、僕の元に何人か学園の生徒が寄ってきた。一年のRの精神を追い詰めたのは本当か、と。本当である。
悪いのは、三年の緑野ムスビというヤツだ。あいつがいたいけな少女の心を、粉々に打ち壊したのだ。
とにかく、僕はある確信を持っていた。
「こんな部活、誰も入ろうとは思いませんよ。明日のお昼ご飯を賭けてもいいです」
「あら、言ったわね?」
ムスビ先輩は豊満な胸をぐっと張った。僕は今日で何度目になるか分からない、奇妙なざわめきを覚えた。
「それ、どういう意味ですか?」
「簡単な事よ。本日、文芸部に新たな部員が増えるのよ!」
「おおっ、マジッスか!」
雛崎さんが、何も考えてなさそうに喜んだ。
胸騒ぎが激しくなる。
嬉々とする文芸部の女二人に反して、僕は嫌な汗をたらたら流しながら、せめて、予想とは違ってほしいと念じながら、ムスビ先輩に恐る恐る尋ねた。
「誰ですか、その頭のおかしい新入部員って」
「もう、そんな言い方しちゃいけないでしょ。ケイくん、貴方は先輩になるんだから、その自覚をしっかり持ちなさい。そうね、そろそろ来る頃だけど──」
ムスビ先輩が部室の掛け時計を見た時。
まるでタイミングを見計らったように、部室の戸がノックされた。最高の笑顔でムスビ先輩は戸に近寄ると、
「いらっしゃい! 待ってたわ、ルリちゃん。ささっ、こちらへどうぞ!」
引き戸を一瞬で開け、廊下にいた少女を室内に通した。
僕は絶句した。さっきまであんなに新入部員にわくわくしていた雛崎も、それが果たしてルリさんである事を知り、朝の出来事を思い出したのか顔を青くしていた。
「お、お邪魔しますっ」
ルリさんは、昨日までの照れ屋な性格に戻っていた。小さな肩を縮こまらせ、ロボットのような歩き方をしている。
「もう、ルリちゃん。今日からここは貴女の部活なんだから。お邪魔します、なんて他人行儀はしちゃだめよ」
「は、はひ、すみません」
謝る彼女の姿はどこか懐かしい。初々しく、守ってあげたくなるキャラクターだ。しかし僕は彼女を、そんな甘い目では見れなくなっていた。
「へ、へえ。ルリっち……ぶ、文芸部に入ったんだ」
雛崎さんが怯える。彼女もまた、僕と一緒に壊れたルリさんを目撃していた。今のルリさんとのギャップに、思考が追い付かないようだ。
「ええ、よろしくおねがいします、雛崎さん」
恭しく頭を下げるルリさん。雛崎さんは、「ヒエッ」と露骨な悲鳴を上げた。
「そう言えば、自己紹介がまだだったわね」
この室内で浮いているムスビ先輩は、部長らしくあろうと健気に振る舞っている。
「私は文芸部の部長の緑野ムスビよ。みんなからは『えんムスビ』ってあだ名で呼ばれているわ」
呼ばれてない。多分、明日から『死神』って陰口を叩かれると思う。握手をかわすムスビ先輩とルリさん。
「次に、ヒナちゃんこと雛崎チイちゃん。同じ一年生だから仲良くしてあげてね」
「は、はい」
緊張しながらも、元気に返事をするルリさん。雛崎さんは脂汗を額に流しながらルリさんと手を握った。
「そして、最後に……」
ムスビ先輩は、僕を紹介した。
「紅一点ならぬ白一点の、高城ケイくんよ。彼は二年だから、ルリちゃんの先輩になるわね。でも先輩だからって謙遜せず、彼が悪い事をしていたらしっかり叱ってあげてね。出来の悪い部員だけど、根は良い子なのよ」
ムスビ先輩が言い終わるのを待って、ルリさんは僕に手を差し伸べた。
無視するわけにもいかず、僕はルリさんと握手をした。
心なしか、彼女は、僕の手を強く握った。
冷たい目線が僕に突き刺さる。
ルリさんは、抑揚のない言葉を、口から唱えた。
「これから、よろしくおねがいしますね、〝高城ケイ先輩〟」
柑橘類の、甘酸っぱい匂いがした。それはルリさんから漂う香りなのか、それとも僕の脳にこびりついた、存在しない匂いなのか。
とにかく、恋も嫉妬も、もうたくさんだ。
ああ。僕も、辞めてしまおう。この部活。