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文芸部プロファイル。~東条学園文芸部の事件記録~  作者: あけちさん
File,1:プロバビリティー的恋愛宣言。~柑橘系芳香剤は恋と嫉妬の危険な匂い~
3/5

計画実行編


 次の日。

 昨日の晴天が嘘のように、朝から雨が降っていた。ぽたぽたと緩く降る時もあれば、突然くしゃみのように雨足を強める事もあった。午後に入ると雲がどんどん厚くなり、放課後には校内の電気が煌々と灯された。

 僕は渡り廊下を歩いていた。例によって雨漏りが激しく、バケツで受け止めきれなかった雨水が床を濡らしていた。気を付けないと、頭の上に水滴が落ちてきそうだ。

 渡り廊下を越え、特別教室棟に入る。自ずと件の下り階段が──ルリさんが芳香剤で罠を張った、あの階段が見えてくる。溢した芳香剤はムスビ先輩によって完全に片付けられたが、柑橘系の匂いはまだ床や壁に染み込んでいるらしく、オレンジの良い香りが今も漂っていた。何も知らない者がここに来たら、なぜ芳香剤の匂いがするのか疑問に思うだろう。そして、自分の生活には関係ない事柄であるがゆえに、沸いた疑問もすぐに忘れてしまうに違いない。それが、果たして恋愛と嫉妬で彩られた匂いとも知らずに。

 僕はおっかなびっくり、下り階段に足をかけた。罠は解除されたとは言え、つい恐る恐るの歩行になってしまう。滑らない事を確認し、僕は階段を下っていった。

 一階に着くと、丁字路に突き当たる。直線の廊下に直交して、僕が下りてきたばかりの階段がある。僕は丁字路を右折すると、廊下を窓側に寄って歩いた。

 僕が向かおうとしているのは図書室だ。右手にハードカバーの小説を三冊抱えて、今日もムスビ先輩のお使いを僕はこなすのである。今日は三冊だけの返却だが、たまに十冊近くの本を持たされる事がある。短期間でよくもまあ、これだけ読書できるものだ。きっと彼女が卒業する頃には、図書室にある本を全て読破しているのではないだろうか。

 そんな事を考えていると背後から、廊下を走る足音が聞こえてきた。振り向けば、ジャージ姿の男子生徒がこちらに向かって走ってくる。

 彼は気さくに僕に話しかけてきた。


「よっ、ケイ。今日もお使いか?」


 僕と彼──松重くんは同級生である。友人という間柄ではないが何度か話をした事があり、誰に対しても友好的で、加えてイケメンでもあるため女子から人気が高い。


「まあね」僕は右手に持った本を見せた。「また部長のパシリだよ」


「お前も物好きだな。文芸部に残ってそんな事させられて」


「住めば都ってものだよ。都というよりは何もない田舎って感じだけど」


「文芸部らしい表現だな。ま、俺は本を読むより体を動かしてた方が楽しいわ。しかし雨の日だと外で運動できないからつまんねぇな」


 松重くんは窓の外を見る。時を見計らったように雷が光った。数秒の後に、雷鳴が窓ガラスを揺らす。


「この天気じゃ難しいね」


「まったく、体がウズウズしてしょうがねぇ」


「あまり無理しないようにね。怪我とか多いでしょ、君の部活」


「今んトコ骨折ったとかの重症は出してないけど、お前の言うとおり擦り傷、打撲は日常茶飯事だな。まっ、パルクール部の宿命さ」


 松重くんは、けろっとした顔で言った。


 そう、彼はパルクール部に所属していた。


 そしてルリさんの想い人でもあった。


 高い身長に甘い顔の松重くんを好きになったルリさんは、意外と面食いなのかもしれない。


「今日は一人で練習?」


 僕が訊くと、松重くんは苦い顔をして頷いた。


「他はみんな帰ったよ。雨じゃつまんねぇ、って言ってさ」


「ふうん、そうなんだぁ」


 廊下を見渡してみる。確かに松重くんの言った通り、僕と彼以外の人気は無かった。ムスビ先輩の言っていたSなる人物も、今日はいないらしい。


「みんな弛んでるんだ。こういう日にこそ体力作りすべきなのによ。そう思わね?」


「うーん、文芸部の僕にはちょっとよく分かんないかな」


 松重くんは呆れるように肩をすくめた。


「おいおい、お前も若いうちに体鍛えとかないと、年とった時つらいぞ」


「オジサンみたいな事を、若いうちから言わないでよ」


「そうだ。今度、部活に遊びに来いよ。けっこう爽快だぜ、パルクールは」


「うん、気が向いたらいくよ」


 気が向く事は一生ないと思うけど。


「ははは、それじゃ、約束な! ──さて、老後も健康であるために、ここいらで俺は運動に戻るわ」


 そう言って松重くんは僕の背中を叩くと、廊下を往復する運動に戻っていった。僕と松重くんの距離がどんどん開いていく。彼の背中は、バイタリティーで溢れていた。

 松重くんがまもなく図書室の入り口に差し掛かろうとした時。

 ──僕は、


「へっくしょん!」


 大きなクシャミをした。

 その拍子に持っていた本をがらがらと床に落としてしまう。僕は慌てて本を広い集める。

 前を走っていた松重くんが振り返った。


「なにやってんだよ、ケイ!」


 彼は振り向き、足のスピードを緩めた。僕が照れ隠しに頭を掻きながら、どんな返事をしようか迷っている時だった。

 松重くんの前方、図書室の入り口から、段ボール箱を持った女子生徒が飛び出してきた。いや、状況的には女子生徒が図書室を出ようとしたら、そっぽを向いた松重くんが飛び出してきたと言った方が正しいか。段ボールを三箱重ねて持っていたため視界が狭まっているらしく、松重くんの存在に気付いていないようだ。

 って、そんな事を悠長に考えている場合しゃない!

 僕は叫んだ。


「松重くん、前!」


「えっ?」


 松重くんが顔を前に向ける。しかし一歩遅かった。図書室から出てきた女子生徒に、助走をつける形で松重くんはぶつかってしまった。


「うわっ!」

「きゃあっ!」


 二人の悲鳴が同時に上がる。

 少女の抱えていた段ボール箱が宙を舞い、床に転がった。空箱のようだが、ぶつかったショックで、僅かにひしゃげていた。


「だ、大丈夫?」


 僕は松重くんと女子生徒に近寄った。

 見ると、松重くんは女子生徒を抱き締めるようにして倒れていた。押し潰してしまわないよう女の子を上にして、松重くんは彼女を衝撃から庇っていた。


「うぅぅ……」


 松重くんの胸元に顔を埋めていた女の子が、唸りを上げる。

 綺麗な黒髪をおさげにした、眼鏡の女の子……。


「あれ、君は」


 僕は彼女に見覚えがあった。

 昨日、文芸部の部室でムスビ先輩に犯行を見破られた、あのルリさんだった。確かにルリさんは図書委員だから、図書室から出てきたって何もおかしな点はない。二人の傍らに転がった段ボール箱を確かめると、そこには有名な本屋の店名がプリントされていた。そう言えば、今日は新刊が入る日だったっけ。


「ご、ごめん! 怪我はないかい?」


 松重くんはルリさんを立ち上がらせる。


「だ、大丈夫、です……いたっ!」


 松重くんに支えられたルリさんは、右足を少し引きずった。松重くんがより心配そうに顔をしかめた。


「足をくじいたのか?」


「た、たぶん、きっと、そう」


 顔を真っ赤にしながら、ルリさんは要領を得ない返答をした。


「それはいけない!」ここぞとばかりに、僕は二人の会話に割って入った。「早く保健室に連れていかないと」


 僕の発言に、松重くんが頷いた。


「ケイの言うとおりだ。俺が保健室に連れていってやる」


「え? ……いやいやいや! そんな、わたしみたいな庶民で図書室な人間が、あ、ああ、あなたに保健室に連れていってもらおうなんて、おそれ多いです!」


 ルリさんがあたふたし始める。その姿に松重くんが訝しむ。


「おそれ多い?」


 ……まずい。僕は松重くんを急かした。


「早く保健室に! 頭を打ったのかも!」


「そ、そうだな。よし!」


 松重くんはルリさんの腰に片手をやると、俗に言う、お姫様だっこでルリさんを持ち上げた。


「……はへ?」


 ルリさんからすっとんきょうな声が漏れる。口がわなわなと震えだし、瞳が泳ぐ。


「あわわわわ!」


 彼女は僕に視線を向けてきた。


(本当にこのまま計画を押し通すんですか?)


 そう言いたげな目に、僕は小さく頷く。


(せっかく〝計画通り〟に進んでいるんだから、今は我慢して!)


 そう念じながら彼女の目を見る。ルリさんに僕の思考が伝わる事を願って。

 恥ずかしさのあまり爆発寸前と言った状態のルリさんは、松重くんの腕の中で体をダンゴ虫のように丸めた。そんな風に足を上げては、僕の立ち位置からだと彼女のスカートの中が見えてしまう。白い太ももに、白い……。

 僕が目の置き場に困っていると、松重くんが走り出した。女の子を抱えているとは思えない早さで、廊下を疾走する。


「きゃああああ!」


 ルリさんの悲鳴が聞こえる。

 それは、愛しの彼に抱かれて出てきた黄色い声か。或いはあまりの早さに純粋に怖かったのか。

 とにかく、僕が呆気にとられているうちに松重くんはルリさんを持って、一階の玄関扉を蹴り開けるや否や、外へと飛び出して行った。二階にある渡り廊下と違って、一階の特別教室棟と通常教室棟とを結ぶ廊下はなく、一度外へ出なくてはならないのだ。コンクリートの舗道があるとは言え、地面から跳ねた雨と泥の配合水で汚れており、運動部以外の生徒は普段あまり使わない。ムスビ先輩のように靴を汚したくないタイプの人は、多少遠回りでも二階の渡り廊下を使用する。

 ──さて。


「は、はは、ははは……」


 一人廊下に置き去りにされた僕は、想像以上に〝計画通り〟に事が運びすぎて、思わず乾いた笑いを溢してしまった。

 松重くんがルリさんとぶつかるのは、全てムスビ先輩が考えた計画だった。

 松重くんが図書室付近に近付いたら、僕が大きくクシャミをする。タイミングよくクシャミなんて出るわけないから僕はわざとらしく、それらしい声を発したわけだ。

 次に、同時に持っていた本をがらがらと床に落とす。端から見れば『何やってんだアイツ』と笑われそうな行動を僕は意図的にとった。

 まんまと松重くんは釣れた。振り向く松重くん。

 僕のクシャミを合図に、ルリさんが段ボール箱を重ねて持って、図書室からそろっと出てくる。そして上手いこと松重くんとぶつかった後は、足を挫いたと言って保健室に連れていってもらう画策だった。

 ようするに、回りくどい当たり屋である。

 廊下で人が走れば〝起こりうる〟事故を装った、単なる自演である。

 昨日、ムスビ先輩はこう言った。


『せっかくルリちゃんがプロバビリティーの犯罪を実践したのだから、私たちもプロバビリティーの犯罪を使ってルリちゃんの恋を叶えて差し上げましょう!』


 僕はムスビ先輩に反論した。


『いや、松重くんは僕のクラスメイトだし、そんな面倒な事しなくても僕が彼女を紹介すればいい話じゃないですか?』


『ダメダメよ!』


 僕のやろうとしたキューピッド作戦はダメダメらしい。


『いい、ケイくん。恋ってのはね、ドラマチックであればあるほど仲は深まるの。誰かの紹介なんて、そんな味気ない出会いはつまらないわ。そうよね、ルリちゃん』


 ムスビ先輩が狂気の目で、ルリさんを見つめた。ルリさんは目を反らしながら言った。


『わ、わたしは紹介して頂けるのであれは、そちらの方が──』


『さっすが、ムスビ先輩っス!』


 ルリさんの主張は、チビッ子ハーフの扇動でかき消された。


『初恋という、人生でたった一回のトキメキだからこそ全力を傾ける、その姿勢にあたしはマジで感動したっス! あたしもムスビ先輩と同じ文芸部っスから、一肌もフタハダも脱ぐつもりっスよ!』


 ……フタハダって何だろう。というか、初恋であるとルリさんは言っていない。何を語っているのだ、雛崎さんは? 眉を潜める僕に相反して、おだてられてご満悦のムスビ先輩は、うんうんと頷いていた。


『やっぱりヒナちゃんは分かる子ね』


 ムスビ先輩の事は分かっても、ルリさんの事は何一つ理解していない気がする。



『何たって、ムスビ先輩の後輩っスから。先輩のためなら例え火の中、水の中、スカートの中っスよ!』


『良い後輩を持てて私は幸せ者よ。それに比べて──』


 ムスビ先輩が、悪い方の後輩こと僕を、じーっと凝視してきた。


『なんですか、僕を睨んで』


 こんなやり取り、さっきもやったなぁと思いながら、僕はムスビ先輩を横目で見た。


『ケイくんは答えを早く出そうとするイケナイ癖があるわ。恋っていうのは繊細なの。あなたのやり方では、恋は長続きしないわ』


 僕は少しむきになって、彼女に突っかかった。


『どうして言いきれるんですか? 経験でもあるんですか?』


『恋愛小説ではそうだったのよ。ドラマ性があってこそヒロインはヒーローと繋がれるのよ』


 僕は呆れ果てた。目の前の文学少女──否、妄想乙女に辟易する。


『じゃあ、もうそれで良いですよ。今回のキューピッド作戦はドラマ性を重視しましょう』


『物わかりが良くて助かるわ』


『どうしてこんな事に……』


 ルリさんは小さく嘆くが、僕以外の人間には聴こえていないだろう。

 ムスビ先輩が僕に言った。


『ケイくんには是非とも物語の大切さを知って貰うために、今回、あなたには重要な役割を与えるわ』


『重要な役割?』


 僕は聞き返した。嫌な予感がしてならない。


『ええ、貴方には表舞台に立って、恋のキューピッドになってもらうわ!』



 ……以上の顛末があり、僕は恋のキューピッド──もとい、プロバビリティーの犯罪の実行役を命じられたのだった。

 すなわち、ルリさんと松重くんをぶつけるのだ、物理的に。


「なんで、僕がこんな事をしなきゃならないんだよ……」


 誰もいない廊下で独り呟いた。

 まあ、ここにいても仕方がない。僕は松重くんを追うため、保健室に向かった。まだ僕にはやるべき事があるのだ──まあ、後は消火試合みたいなものだけど。

 窓の外で雷がパッと光る。計画に反しているのは、せいぜいこの雷くらいだ。



  ☆



 保健室の引き戸は開け放たれていた。


「──と言う事があったんです」


 中を覗くと、松重くんが保健室の和泉先生に、怪我の事情をちょうど話し終わった所だった。和泉先生はソックスを脱いだルリさんの細い足首に、湿布を貼っていた。


「腫れはないみたいだから、そんなに大きな怪我ではないわ。安心しなさい」


「ほ、本当ですか! 良かったぁ!」


 松重くんが肩を撫で下ろす。その姿に先生の雷が落ちた。


「良くないわよ!」


 ぴしゃっと実際に外で雷が落ちた。


「確かに学園は雨天に限り、校内での運動を認めているわ。筋トレとかね。だけど廊下を走るのは原則として禁止しているはずよ」


「そ、それは。うちの部活は走ってナンボですから、その」


「言い訳は聞きたくありません。今度あなたの部員が廊下を走っていたら、パルクール部には謹慎してもらいますから」


「す、すみませんでしたー!」


 手厳しい和泉先生に、松重くんはただ平謝りしていた。そのやりとりを見てルリさんは壊れた人形のように震えていた……何というか、松重くんとルリさんには悪いことをした。この報いは全てムスビ先輩に償ってもらうとしよう。彼女はいつか地獄に堕ちるはずだから、その時は僕と一緒に、盛大に笑い飛ばしてやろうしゃないか。

 先生が白衣のポケットに手を突っ込みながら首を回す。アウトローな印象を受ける人だ。偏見だが、きっとタバコが似合う。


「……あら」と先生が僕の存在に気が付いた。「あなた、そんな所で何をしているの?」


 逃げるわけにも行かず、僕は頭をペコペコ下げながら保健室に入った。


「ええっと、二人の様子が気になって。目の前で〝事故〟があったものですから」


「事故ってものじゃないわ。でもまあ、起こるべくして起こったのは確かだけど」


 そう、表向きは起こるべくして起こった出来事なのだ。みんなに真相がバレないか心配で、僕はさっきから嫌な汗を流しっぱなしだ。

 松重くんが僕に頭を下げた。


「ケイもすまん。巻き込んじまって」


「い、いや、巻き込んだ何てそんな……こっちも本当にごめん」


 逆である。僕たちが松重くんを巻き込んだのだ。純粋に自分の責任と信じ込んでいる彼を見ていると、良心の呵責を覚える。本当にごめんなさい、松重くん。


「なんでお前が謝るんだ?」


「あ、いや、僕がクシャミして君の注意を引いちゃったから──」


 僕らがこのような会話をしていると、何やら廊下からドタドタと足音が聞こえてきた。保健室内の人間が廊下に目を向けるのと同時に、一人の生徒が駆け込んできた。


「きゅうかーん! 急患っスよ!」


 聞き覚えのある、独特な口調の幼い声。

 ふわふわの金色の髪が目立つ、青い瞳の女子生徒が、肩で息をしながら入室したのだ。


「今度は何事よ……」


 先生が呆れるように言った。

 申し訳ありませんが、まだまだ終わらないのですよ、先生。


「ヤバいッスよ、ヤバいっス!」


 文芸部のヤバい奴二号こと雛崎さんは、荒い口調でこう言った。


「ムスビ先輩が、本棚に潰されたっス!」


 プロバビリティー的恋愛作戦のフィナーレを飾るのは、我が文芸部のヤ元祖バい奴、ムスビ部長の体を張った演技である。



  ☆



 雛崎さんの断片的で的を得ない発言を纏めると、こうなる。

 文芸部の部室で本を整理していたムスビ先輩と雛崎さん。天井まで届く本棚の上部に書籍を納めていたところ、誤ってムスビ先輩が本棚を倒してしまった。そのまま倒れた本棚の下敷きになったムスビ先輩。気絶した先輩をどうにかするべく、雛崎さんが保健室に応援を呼びに行った。


「──で、これはどういう事なの?」


 保健室とは正反対の位置──通常教室棟一階から特別教室棟四階へ、大の大人でも急げはかなり疲れる道のりを辿ってきた和泉先生は、文芸部の部室の床に正座をする三人に、冷めた声をぶつけた。

 三人……すなわちムスビ先輩と雛崎さん、そして僕だ。散らかった室内。本棚が倒れ、中の本がバラバラになっている。

 ムスビ先輩が冷や汗を流しながら解説する。


「で、ですから、そこの本棚を片付けていたとき、つい三脚から足を踏み外してしまって。本棚を掴んだせいで、棚が倒れてしまいまして。それに、私は、潰された……のです」


「うん、そこは解ってるわ」和泉先生は雛崎さんを指差した。「そこのチビッ子一年生から事情は聞いていたから」


「チビじゃなくて、成長期をまだ二回残してるだけッス」


 などと、ぶつくさ言う雛咲さんを和泉先生は案の定、無視する。そして、先生はギロリとムスビ先輩を睨み付けた。


「何で貴女は本棚に押し潰されながら、悠然と読書をしていたわけ? 私は、貴女が気絶していると聞いて此処にきたんだけど」


 作戦では、ムスビ先輩は本棚に挟まれて気絶している〝ふう〟を装う手筈だった。

 和泉先生の手当ての甲斐あって意識を取り戻す先輩。助けて頂きありがとうございますと、茶と菓子でも出して和泉先生にゆっくりしてもらう……そういう流れだった。

 しかし部長のせいで段取りは破綻した。

 僕と雛崎さんが和泉先生を連れて部室に入った時、本来ならば意識のないフリをしていなくてはならないムスビ先輩が、事もあろうに、本棚に潰されながら、リラックスモードで本を読んでいたのだ。おそらく和泉先生を待っている時間が暇すぎて、手頃な本でも読んで待っていようと考えたのだろう。

 さながら布団をかけつつ俯けに読書するような格好のムスビ先輩を見て、和泉先生は眉間に皺を寄せた。部室に和泉先生が入ってきた事に気が付かないほど読書に集中していたムスビ先輩は、そのタイミングでようやく僕たちや当の和泉先生がいる事を知ったのである。

 そして、


「うー、ばたんきゅー」


 アホみたいな事をぬかしながら、和泉先生の目の前で気絶の姿勢に入ったのであった。

 当然、和泉先生は激怒した。

 それはもう、鬼のように。

 かくして、僕らは正座をさせられたのだ。

 和泉先生が頭を抱えながら問うた。


「それで、なんでこんなバカな事をしたの?」


「ほ、ホントにさっきは気絶してたんすよ、ムスビ先輩」


 雛崎さんが答えた。和泉先生の睨みを受けて雛崎さんは「うひっ」と小さな悲鳴を上げた。


「じゃあ、うーばたんきゅーってのは何なの? あたしをバカにしているとしか思えない発言なんだけど」


 正論である。まごうことなき。

 もはや逃れられそうにない剣幕だった。このままでは、僕まで面倒事に巻き込まれかねない。

 ……仕方がない。僕はかねてより用意していた戦法をここで解禁する事にした。


「先輩、そう言えばこの間、小説のネタにしたいから、救急車に一度でも乗ってみたいと言ってましたよね? ま、まさかそのために、わざと気絶が続いているフリをしたんじゃ」


「な、何を言ってるの、ケイくん!」


 トカゲは捕食種から逃れるために自らの尻尾を切り落とす。つまり、僕はムスビ先輩を犠牲にする事にした。文芸部敵には頭を切り落とした形だが、まあ、すぐに生えてくる。


「あ、ああ、そう言えばソンナコト言ッテタッスネー、ムスビ先輩」


 片言で僕に同調したのは、ムスビ先輩ラブの雛崎さんだった。彼女はそっぽを向きながら、先輩を売った。


「ひ、ヒナちゃんまで何を言ってるの! 私はそんな事一度も言った覚えは……一度くらいはあるかもだけど……でも、でも」


 うるうると涙目で僕や雛崎さんを見つめるムスビ先輩。目が合わないように、僕たちは部室の壁の染みに気を集中させた。

 和泉先生は大きな溜息をついた。


「……まあ、いいわ。今日のところは、文芸部は許してあげる」


 ムスビ先輩の顔がぱーっと明るくなる。


「私たち、許されたのね!」


「いや、お前の事は担任に伝えておく。いろいろと前科があるからな」


「……へ?」


 ムスビ先輩の目が点になる。ころころと表情がよく変わる。百面相という言葉はこの人のためにあるのではないだろうか。


「ゴールデンウィークの出来事で懲りたと思ったんだがな」


 どうやら例の事件は、生徒の間だけではなく教師陣でも有名らしい。


「そんなぁ~!」


 狭い部室内で、先輩は叫んだ。


「また反省文を書かなきゃいけないのぉ!」


 僕はムスビ先輩に同情こそしないが、まあ、応援はしよう。ほら、そこは文芸部、作文は得意な科目ではないか。

 そんな事より。

 僕は窓から曇り空を仰いだ。

 今日は、カーテンは全開にされていた。太陽は真っ黒な雲で覆われ、電気の線が空に走っている。ひときわ眩い雷が光ったと同時に、大地を揺らす大きな音が鳴り響いた。どうやら近くに落ちたらしい。

 保健室で、ルリさんは上手くやっているだろうか。

 和泉先生を保健室から引っ張り出して、二人きりの空間を作る事で、ムードを演出する。

 そしてルリさんは自分の本音を打ち明けるのだ──想いを寄せる松重くんに。

 ムスビ先輩が狙っていたのは、まさしく、この展開だった。プロバビリティー的恋愛作戦のシメは、割りとゴリ押しであった。まあ、後はルリさん次第だろう。

 存外、計画は上手くいっている。約一名、ミスした者がいるが、まあ、誤差の範囲だ。

 ただ。一つ気がかりがある。


 今日の雲行きは、著しく悪い。


 

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