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かいだん

作者: 氷澄 渓

練習用の約1万字小説第2弾

今回は特に意識したものはありません。

 僕は足を持ち上げて前に出し、一段上に乗せる。そして、その足を重心に、からだを少し前傾してからだを持ち上げる。その段とからだが垂直になる頃には、すでにもう一方の足を次の段に乗せて先ほどと同じ手順を踏んで、また一段。


 一段一段。だんだんと。

 僕はより高く上っていく。


 僕がこの終わりの見えない階段を上り始めたのは、聞くところによると、僕が産まれたときかららしかった。物心がついたときには、今よりは段差の少ない段を上っていて、その当時は両親とともに上っていた。


 両親は当時からよく言っていた。この階段を上り続けなくてはならないと。僕はその意味がよく分からなかったが、幼心に、そういうものなのだろうと結論付け、でこぼこした階段を上った。



 まだ10歳にも満たない頃は疲れ果てて進めなくなることがよくあった。今ほど自分のペースを知らなかったその頃は、代わりばんこに両親に背負われたものだ。


 両親の背中で僕は後ろを見ていた。下が見えない永遠の階段は、ここから落ちてしまえばどれだけ転がってしまうのだろうかと不安を覚えた。


 そのことを両親に聞くと、両親は笑って言った。


「もしそうなったら、昔に戻れちゃうじゃないか?」


 歩いてばかりではなく、ときには休憩を入れた。ぼこぼこの階段は座り心地が悪かったが、3人で下に続く階段を眺めた。そこを歩いているときは気づかなかったが、遠目で見ると、階段はほんの少しだけ色が違っていた。


 僕たちは光景をを見下ろしながら、思い出話を語った。両親は、あのあたりで結婚したんだ、とか、お前があそこで産まれたんだ、あそこで転んでケガして泣いてたんだぞ、あのときはひどい熱を出してたんだ。そんなことを言った。階段を見ていると、その一段一段から、アルバムを見ているように昔のことを思い出した。



 僕が13歳にもなると、両親とは少し距離を置いて歩くようになった。一度しか見えない景色や一度しか味わえない感触。もっとゆっくりと進みたかったからだ。


 そのときは同時に周りが気になる年頃だった。上に限りなく続くその階段は、横にも無限に続いていた。階段には、その進行方向に対して平行に白い線が等間隔に引かれていて、僕と両親はその限られた幅の中を歩いていたのだ。


 隣の空間には、もっとずっと下に豆粒ぐらいの小さな人影が動いていた。僕よりも後ろにいる人たちは、同じく上方に見える小さな豆粒を見て、僕と同じように、あの位置からはこの階段の終わりが見えるのだろうかと考えているに違いない。けっきょく、その豆粒と同じ位置に立ってみても、終わりという言葉はなかった。その人たちはそのことを知っているのだろうか。


 右側には、白い線を2つまたいだ先、つまり、ひとつ空間を隔てた先に、僕と背丈が同じくらいの女の子が平行するように歩いていた。


「君はこの階段の先に何があると思う」


 僕は長らくの疑問をぶつけてみた。

 反応は返ってこなかった。知らない人に突然話しかけられて、それが自分に向けての言葉だとは思わないのだろう。僕はもう一度、同じ質問を言ってみた。すると、その女の子はこちらを見た。


 人が同じ言葉を繰り返すときは、その相手の反応がなかったときだ。そして他者は、その相手というのが先ほど反応を示さなかった自分なのではないか、そう思って振り向くのだ。


 こちらを向くまでの短い時間の中で、そんなことを考えた。それと同時に、同い年の異性に話しかける恥ずかしさやら、見知らぬ相手にいきなり話しかけてしまった申し訳なさやらが入り混ざって、胸の中でお好み焼きのタネのようにごっちゃごっちゃになって、前を向いてしまった。


 首を少しだけ横にズラして横目でその少女を見ると、こちらを向いたあとに、下を向いてしまった。その顔はほんのりと赤い。


「あっ、いや、ごめん。深い意味はないんだ。ただ何となく聞きたくなったんだ」


 たまにあることだ、勘違い。自分を呼んでいると思って反応するとまったく別の人で、少し気まずい雰囲気を作ってしまうことだ。それが赤の他人であればなおさら。今の僕の行動は、勘違いであると勘違いさせるには申し分のないことだった。


 勘違いからくる恥じらいはごまかすのが難しい。誰だってそうだ。だから僕は、そのまま話しかけた。相手が意見を出しづらいならば、まずはこちらから言うべきだろう。


「僕は何もないと思う。いや、そもそも終わりがないんじゃないかな。周りを見れば分かるけど、ご老人だっている。そのご老人にだって若い頃があったわけで、その頃から当然歩いているわけだ。そしてその傍らには両親がいて、その両親も昔は子供で、やっぱりこの階段を上ってる。そう考えると終わりがないんじゃないかって思えてくるんだ」


「私も終わりはないと思う。この階段は新しそうに見えて、実は使い回しなんじゃないかって思ってるの。改装に改装を重ねて、同じところをグルグルと回っているんじゃないかなって」


 僕が言うと、彼女は言った。とても穏やかな声だった。改装。その考えはなかった。でも確かにそうなのかもしれない。永遠に真っ直ぐに、そして上に歩くことなんかできないのだから。だからどこかで原点に戻ってきているのかもしれない。


 彼女の言葉は何かと僕の耳に響くものがあった。それ以来、僕たちは、近所であることも相まって、何かと話し合うようになった。


 いつか名前を尋ねると、彼女は空と名乗った。男っぽい名前だなと答えると、空はふくれっ面になって怒った。距離があるから手は出されなかった。


 空からはいろんな体験を聞いた。彼女は活発で挑戦的なところがあるようで、どうにも危なっかしい。耳を塞ぎたくなるような、それでいて耳を傾けたくなる話をたくさんしてくれた。


 空は一度だけ、後ろにジャンプしたことがあるらしい。よくもそんなことができるな、と思いながら聞いた。どうやらジャンプをしても落ちることはなく、柔らかいものにぶつかるような感覚があるらしい。そのときの話はいつものような元気な顔を見せてくれなかった。


 人にはそれぞれ経験があり、体験することだって、視界だって違う。それぞれが違う道を歩くからだ。だから無理に深追いしてはいけない。それ以上話を聞かなかった。



 それから3年後、16歳のことだ。僕たちは同じルートを同じ速さで平行に進んでいた。どちらも似たり寄ったりな頭だったからだ。ひとつ空間を挟んで歩いていると、僕の階段には両親が座っていた。


 最初は昔のように休憩しているのだろうと思ったが、どうもそうではないらしい。階段に座って、2人とも自分が座っている段だけを見るように顔を伏せていた。待っていたという感じはしなかった。


 とても物々しい雰囲気だった。13歳になってからは、両親と接する機会が少なくなっていた。だから、両親が肩を並べて座っているところに立って初めて、両親の頭髪が白みがかっていることに気付いた。


 それは、一段をゆっくり上るご老人と同じ色だった。ほんの少し前までは生い茂っているような黒だったのに、今では黒と白の混ざった、濃い灰色をしていた。その自身の驚きは、僕が何も見ていなくて、自分勝手に歩いていたことを悟らせた。


 確かに順風満帆としていた。最近はぼこぼこした階段がなくて、歩きやすかった。しかし、今理解した。僕が進んでいた空間以外の階段はすべてぼこぼことしていた。空の空間でさえもだ。僕の通っていたところだけが綺麗だった。そして、両親の座る段の先は他と同じように、雑把な造りをしていた。


 我が物顔で歩いていた当たり前の階段は、今目の前にいる白髪交じりの両親によって整えられていたことを知った。


 さっきまで一緒に歩いていた空は、少し高い位置に座って、プライベートな話に割り込まないようにと階下を見下ろしていた。


 僕には言わなければならない言葉があった。今すぐにでも言いたい言葉を伝えるために、僕は両親を揺らし起こした。


 肩を揺らしても、垂れた首が左右に揺れただけだった。もっと強く揺らしても起きる気配はなかった。僕は仕方なく、自然に起きてくれるのを待つことにして、肩から手を離した。


 両親は流れるようにそこに倒れこんだ。


 鈍い音が聞こえたが、一向に起きる気配はなかった。僕の頭から何かがしびしびと流れ落ちる感覚がして、背中がぞわりとした。そのまま後ろに魂を引っ張られて、自分が自分のからだから遠のいていく絶望を感じた。


「ねえ……その真ん中にあるの……」


 空の声に僕は正気に戻って、彼女の言う真ん中を見た。母親と父親の中央に一枚の封筒が置いてあった。


『何があっても前を向いて、進みなさい』


 封筒にはそう書かれていた。震えておぼつかない手つきで封を切ると、手紙が入っていた。


『あなたがこれを読む頃には私たちは物言わぬ抜け殻となっているでしょう。』

『そんな、よくある文面から始めます。』

『書き始め、というのはなかなか迷うもののようです。』

『書こうにも、紙面にはタイミングを見計らうように鉛筆を叩いて、黒い点々が増えていくばかりでした。』

『だからこの言葉で始めるのを許してください。』

『別れの言葉です。』


『あなたがひとりで上るようになったとき、少しさみしさを感じました。』

『親離れが来たのですね。』

『昨日まではすぐに背負われてばかりだったように思います。』

『とても懐かしいですね。』

『そんなことを書いていたら恥ずかしがるでしょうか。」

『少しずつあなたの態度が変わっていきました。』

『お年頃なら誰にでもあることです。』

『だから私たちは邪魔にならないようにおとなしく引きました。』

『でも、何度かこっそりあなたを見ていました。』

『上から見ていることに気づかなかったでしょう。隣の女の子と座って話しているときです。』

『親離れの合点がいって、なるほどと思いました。』

『とても仲が良くてよろしいことです。』

『縁を大事にしてください。』


『さて、疑問に思うことが少なくともひとつはあるでしょう。』

『私たちがなぜこんなところにいるかです。』

『それは一言で解決してしまう、とても簡単なことです。』

『階段を上っていれば起きる可能性が十分にある事故です。』

『事故はいつでも、そしてどこでも起きるものです。』

『それは悪意によって発生する場合だけでなく、ただの偶然ということもあります。』

『奇蹟というのが幸福だけではありませんから。』

『奇蹟は滅多に起きないだけです。』

『ときには不幸を招く奇蹟もあります。』


『ここまで来たあなたは今まで進んできた道と、進むべき道を見比べているでしょう。』

『真実を知ったあなたは後悔しているかもしれません。』

『後悔なんてやめてください。』

『するだけ無駄ですから、』

『それに、あなたが思っていることが全てではありません。』

『むしろ、まったく違うこともあるかもしれません。』

『あなたが辛いだろうと思っていることは、誰かにとってはどうってことないことかもしれないし、簡単なことほど、苦しむことだってあるのです。』

『あなたは13になって変わりました。』

『心身ともに大きくなりました。』

『それでも、まだまだ子どもであることには変わりません。』

『私たちの子どもであることには一生変わりません。』

『場所が変わっただけで、立ち位置が動いただけで、今までとやってることは同じです。』

『だから私たちは幸せでした。』

『後悔はしていません。』

『最後まで息子に尽くせて良かったと思います。』

『天国で自慢ができそうです。』


『ここまで読んだあなたが、どんな顔をしているのかが私たちにはもう分かりません。』

『怒っているのかもしれません。』

『ですが、私たちはこの手紙を安心して書くことができています。』

『きっと大丈夫だと信じています。』

『手が震えて、うまく書けなくなってきました。』

『最初に変なことを書かなければよかったですかね。』

『まだまだ、書きたいことがたくさんあります。』

『書く以上に、言いたいことだってたくさんありますが、それは叶わないでしょう。』

『どこで限界になるか分かりません。』

『思いつくことを書いていきます。』

『あなたには、これから先、嫌というほどの苦難が待ち受けているはずです。』

『本当はこんな形で教えるつもりはありませんでしたし、少しずつ教えていくはずでした。』

『あなたに伝えることはこれで最後になると思います。』


『この階段は知っての通り、ずっとずっと先まで続いています。』

『私たちも親に言われました。』

『本当のところは分かりません。』

『この階段は人の数だけルートがありますが、その全ては繋がっています。』

『人が人に伝えて、その人も誰かに伝えていき、そうして長く大きく歴史を作る階段なのです。』

『そうやって昔から繰り返されてきたのです。』

『それが人生というものです。』

『幸せになってください。』

『嫌なことは忘れてください。』

『良いことだけを思い出せばいいのです。』

『ありがとう』

『歩いても走っても終わりに近付かなくて嫌になりますが、そのたびに休憩をしてください。』

『頑張ってください。』

『私たちはもう上にはいけません。』

『ここで交代をする時間です。上を作っていくのはあなたです。』

『その道中で──


『何を書こうとしたのか分からんが、もう眠ってしまったようだ』

『俺は途中の言葉を続けられるほどの頭はないからな。』

『敵当にお前が組み立てておけ。』

『それにしてもあれだな。』

『書きたいことがまったくない。』

『俺が書こうと思ってたことを7割ぐらい割り増しされて書かれてるからな。』

『父親にだって面子があるんだから、やめてほしいもんだ。』

『まったく。』

『だから俺はこいつが書かなさそうなことを書くぞ。』

『ところどころ漢字が間違ってるかもしれんが、だいたいで読め。』

『まずお前はあれだ。俺と好みが似てる。』

『隣の娘をいつか紹介しろよ。』

『今後、お前がどうするかは自由で、自分で決めることだから、俺はあまり言わんがな。』

『隣のやつを悲しませるなよ。』

『幸いことがあったときは笑ってろ。』

『ぜったいに八つ当たりとかすんな。』

『お前は俺に似てバカなんだからな。』

『自慢できるような人生を送ったらこっちに来い。』

『それまで来んなよ。』

『ぜったいだからな。』

『まだ書けそうだな。』

『それじゃあもっといくか。』

『女ってのはめんどくさいもんだ。』

『こいつと25年近く一緒にいたが、本心でそう思う。』

『毎回、何を考えてるのか分からん。』

『仕事と私のどっちが好きなのか、なんて質問されて、どう答えればいいか全然分からん。』

『誕生日プレゼントとか、毎年何あげればいいか分からん。』

『サバは読むくせに誕生日は祝われたいのかよ。』

『お前も注意しろよ。』

『女ってのはいつも本心を隠してるからな。』

『猫系は猫かぶりであざといとか言うが、犬系もなかなかだからな。』

『あいつらと一緒に歩くと棒にあたるからな。』

『ほんとやばいぞ。』

『あとあれだ。一人暮らし。』

『するなら、買いだめとかしないほうがいいからな。』

『たいてい、食べずに冷凍庫に突っ込まれることになるぞ。』

『底から賞味期限が4ヶ月ぐらいすぎた魚とか出てくるからな。』

『毎回買いに行け。それとゴミ出しとかも気をつけろ。』

『地方によって色々変わってるからな。』



 僕は手紙を封筒に入れなおして、ポケットの中にそっと入れた。うつむいて一段上った。両親が座っている段。足を運びたいのに、その一歩がなかなか踏み出せなかった。


 この一歩を進んでしまったら、二度とこの場所に戻ってこれない。人生はすごろくなんかじゃないのだ。いくらでも休めるが、マス目を戻ることはできない。どうしても思いとどまってしまう。足がすくむ。後戻りはできない。たたらを踏む。気おくれする。帰れない。停まる。滞る。


『幸せだった」


 何が幸せだったんだ。ただ辛かっただけじゃないか。人のために自分を犠牲にして。僕のために先を歩いてさえいなければ事故になんて遭わなかった。それでどうして幸せなんて書くんだ。犠牲になることがそんなに楽しかったのか。有終の美を飾れたとでも思っているのかよ。


『前に進め』


 前に何があるんだよ。階段があるだけじゃないか。母さんだって、父さんだって、そう言われて、歩き続けて、でも、終着点に行けなかったじゃないか。ここでこうして座り込んじゃったじゃないか。目的地に到着しない旅をする必要が、どこにあるんだよ。


 そもそも目的地ってなんだ。階段の先か? 今まで惰性で歩き続けてきただけで、道があったから進んでいただけで、僕は別にそんなところに行きたいとは思っていない。何代も、何世代にも渡ってさえ達しないところ。ただそれだけの場所に行き着いて何がしたいんだ。


 僕は、今の僕がしたいのは、ただ──。


 僕のしたいことが脳裏をよぎり、結論がかすめた。僕のしたいこと。目的? これが? 歩くことじゃなくて、歩くことで見つけた答え──目的、夢? 進むことが目的じゃないのか? やりたいことを見つけるために進んでいた?


『その道中で──

『その道中でやりたいことを見つけなさい。』


 僕は上を見た。視界から濃い灰色が消えて、そこには空が見えた。とても眩しく感じた。空を見上げていると、ここには僕と空しかいないような気持ちになった。不安や葛藤も階段さえも霧消したふたりだけの空間。落ち着いた。そして、そのうち落ち着かなくなった。いつも一緒に歩いていた空は、自分より上に座っていたからだ。座ってこちらを見ていたからだ。


 横を向けばいつもいた人が、上を向かなければいなかった。それがもどかしくて、いつの間にか僕は、重かったはずの足を動かして、ぼこぼこの階段を上っていた。もう戻れない。


「これたんだね。どうしてここまで進めたの?」


 空が座っている段まで来て、腰をおろした。いくつか下の段に、両親のもう届かない背中が見えた。


「晴れていたからさ」


「ふーん」


 空が見えたからなんて、本当のことを言うのはどうにもはばかられた。だから、当たらずしも遠からずな答えを言うと、空は首を傾げていた。


「私もね、昔、両親を亡くしたんだ」


 空はそう言いだした。


「私のときも同じように置き手紙があって読んだんだ。読み終わった私は両親をその場に置いて、ひとりで黙々と歩いた。そうしなさいって書いてあったから。しばらくして、置いていく必要はなかったんじゃないかなって思うようになって、戻ることにしたの」


 僕は彼女の境遇を黙って聞いた。


「でもね、戻れなかった。階段を下りて戻ろうとしたけど、壁にぶつかった。ジャンプして飛び降りようとしたけど、同じようにぶつかった。壁は叩いても蹴っても壊れなくて、途方に暮れた。助走をつけようとしてさらに上に行けば、壁はさっきよりも近くにあって、両親とさらに離れてしまった」


 それが以前言っていた、ジャンプして戻ろうとしたことなのだろう。あのときの悲しそうな顔は、そのことを思い出してしまったから。あのとき、僕は彼女になんて言ったのだろう。励ましの言葉のひとつでもかけれていただろうか。


「策を練るほど、距離はどんどん遠くなっていった。だから私は、戻ることを諦めた。戻れるならばそれに越したことはないけど、戻れないなら、先に進むしかないって思った」


 彼女に初めて出会ったとき、彼女は同じところを回っているかもしれないと言っていた。それは彼女自身、そう思いたかったからなのかもしれない。歩き続ければ、いつかは同じ場所に戻ってきて、両親のもとに戻れると信じ続けることで、彼女は自らを奮い立たせて前に進んでいた。そう確信した。


「僕もね、歩き進めていれば、いつかはあそこに戻ってこれる気がするんだ。だから、今は進みたい。もう大丈夫。行こっか」


「強いんだね。とっても」


 僕は立ち上がり、最後に両親の背中を見た。いつか帰ってきます。そう心の中で呟いて、もう前を向いた。隣を見ると空も立ち上がっていた。


「ありがと」


「そんな小さな声じゃ、一周後のご両親には聞こえないよ」


「そうだな」


 気の利いた言葉を言う空に思わず笑ってしまった。そんなことも言えるんだな。でもそれは、いつかのように勘違いだ。小さな声でもちゃんと相手には伝わったのだから。



 6年後のこと、僕たちは22歳になった。正確には僕が22歳で、空は21歳だ。


「あそこ?」


「うん、形は違うけどあそこだよ。私の両親が眠ってる場所。私が呼ぶまでここで少し待っててね」


 あれからも僕たちは歩き続けた。空の両親が病気で亡くなったのは、僕の両親が事故で亡くなる5年ほど前のことらしい。僕たちが初めて出会った頃には、既に彼女はひとりだった。


 そんな彼女と僕は歩いた。依然として、ひとつ空間を隔てて歩幅を合わせて歩いていった。少し早歩きで、それぞれ形の違う階段を上っていきながら、昔以上に話しをした。嫌なことは考えず、楽しい将来を語り合った。今日は空と出会ってから9年、空の両親が亡くなって11年目になる日だ。


 僕たちは空の思い出の場所へ戻ってきた。階段は当時の形を失い、見る影も失ってしまっているが、空には両親が眠っている場所だと、ここがお墓であると直感しているらしい。


 その昔、そこでどんなドラマがあったのか僕は知らない。さすがに古傷をえぐるような真似はしなかった。もし、彼女が自身の口から教えてくれる気になったら、そのとき聞こうと思う。


 11年の時を経て再会を果たした空には、両親に報告したいことがたくさんあるようで、手を合わせて、目をつぶって、段に向けて何事かを呟いていた。


 僕はそれを少し下の場所から見ていた。いつか、プライベートに踏み込まないために、空がそうしていたように、階下に座って下を眺めていた。


 今こうして見ていると、時代の流れを感じる。僕たちはあの頃と比べるとずいぶん変わった。子どもからおとなになるとはこういうものなのだろうか。歩いてきた階段の数だけ僕たちは成長したのだろう。


「来て!」


 長い時間をかけて、溜まっていたものを全て伝えたらしく、空は僕を呼んだ。立ち上がって上を見上げると空がいる。あのときのようだった。


 今までの中で一番の緊張を持って、僕は階段を上がる。相変わらずでこぼこした階段ではあるが、そのときばかりは気にも留めなかった。空と同じ高さの段まで上がった。


 この6年で変わったことがひとつだけあった。それは僕と空の距離だ。最初はわずかな変化で気付くことはなかったが、少しずつ縮まってくるとそれが錯覚でないことを認識させた。声がよく聞こえるようになったし、一挙一動もよく見える。ふたりが手を伸ばせば、その手が届く距離まで縮まっていた。


「早く、手を掴んでよ」


 空は既に手を伸ばしていた。差し出された手を僕は握った。そして僕は空に引っ張られながら、立っていた段を蹴って、空とその両親が眠る段に飛び乗った。


 昔の僕では、それは考えられないことだった。ずっと自分の道だけを進むものだと思っていた。なのに、こうして簡単に人が歩く道に一緒に立つことができる。


 誰かと一緒の段に立つのは久しぶりだった。両親が亡くなって以来だ。思えば、両親が一緒に過ごしていたのもこういうことなのだろう。そう考えると空と真横に立っていることが急に恥ずかしくなってきた。


「お母さんとお父さんに紹介したい人がいます。辛いときも悲しいときも、いつも一緒にいてくれた人です。何度も話に出した、私の大好きな人です」


 晴れた空のもとで、僕は彼女のご両親に挨拶を交わした。




「大人の階段を登る」という言葉から思いついたお話です。

サブタイトルがあったら、「人生」とか入れますかねえ。

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