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今宵、あなたに逢いにゆく。  作者: リラ
第五章
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今宵、決断を下す時。


 空が徐々に白んで辺りが明るくなってきた。夜が明け始めている。

 目を細めて空を仰ぐ馨をしばらく見つめてから、私も空を仰ぎ見た。不意に澄んだ声が鼓膜を優しく擽る。


「いつかは、ここを離れなければと考えていたんだ、ずっと。でも……茉莉花、きみはとても魅力的だった。血の香りより遥かに勝る、その人柄に惹かれた」

「わ、たし……」

「だからこそ、きみを置いてここから去ることが出来なかった。いつか取り返しのつかないところまで傷付けられるんじゃないかと思うと……心配で堪らなかったんだ」

「馨……」


 穏やかな細波のように静かに胸の内を語る馨の声に耳を傾けていると、彼の一言一言にぎゅっと心を締め付けられる。

 胸の奥が震えて、じんと温かくなる。淡い光を灯してくれるみたいに。思わず呼んだ彼の名に、胸の内を吐露する馨がふっと微笑んでくれた。


「変わらずに僕を呼んでくれて、嬉しいよ」


 でも、その笑みはどこか遠慮がちで。それがすごく悲しく思えた。


「だって……馨は、馨でしょ…?」


 お願いだから悲しい顔しないで、また笑ってよ。

 思いを込めて告げると、彼は驚いた様子で目を見張った。私に視線を移して、またふっと笑む。


「明らかに不自然な事が多かった僕に、きみは気付いていたはずだ。僕が普通ではない事を。それでも……会いに来てくれた。きみにとっては些細な事だろうけど、僕にとっては本当に嬉しい事だったんだ」


 そこで言葉通り、綺麗な笑顔が浮かぶ。でもすぐに哀しみの影が落ちた。

 視線も落とされ、更に暗い影が射す。もう夜明けだというのに、まるで馨は無理矢理に暗闇のベールを纏おうとしているみたいだ。


「僕を恐れないでほしい、なんて無理な話なんだろうね……。きみを怖がらせてしまったから。自業自得だ」


 ほとんど泣きそうな声音で言い終えた馨は、片手に顔を埋めてしまった。その何もかも諦めたような口調に、私まで悲しくなってくる。

 でも、今きちんと自分の想いは伝えなきゃ。伝えなければ全てが終わってしまう気がする。

 それだけは……絶対に嫌だ。

 顔を隠すその手に触れてみる。ヒヤリとした冷たい肌に、底知れない安心感を得た。

 やっと顔を上げてくれた馨は案の定、驚いていて。けれどすぐに笑みを溢してくれた。


「茉莉花から触れてもらえると、心が踊るほど嬉しいよ」


 こんな些細な事で喜んでくれるなら、いくらでもするよ。

 そう思いはしても、口には出来ない。さすがにいきなりそこまでは素直になりきれない。

 頬に熱が集まり、赤くなる。これで私の気持ちが伝わればいいのに……。でも自分の言葉で出来うる限り精一杯、今の気持ちを伝えたい。

 その一心で馨の手をぎゅっと握りしめ、かなり赤みの引いた褐色の瞳を見つめた。


「馨のこと怖くない、って言っても……信じてもらえないのかな」


 私の言葉に、馨が唖然とする。握りしめる自身の手に視線を落とすと、彼は哀しげに呟いた。


「茉莉花、僕はバケモノなんだよ。人間じゃないんだ」


 まるで私を諭そうとしているみたい。それとも、自分を諭そうとしてる…?

 そんなの、悲しすぎる。確かに馨は人間じゃなかったけど、バケモノなんて言い方……酷すぎる。

 冷たい手を更に強く繋ぎ止めた。私の想いを分かってもらいたい。ただその一心で語りかけた。


「うん、人間じゃないのは分かった。でも……バケモノっていうのは間違ってるよ」

「っ、……茉莉花」

「嘘は吐きたくないから……言っておくね。傷を治してもらって──その後の事は、少し怖いと思ったよ。でも、馨を怖いなんて思いたくないとも考えた」

「そんな……」

「馨は、独りぼっちでいる私を見つけてくれた。見守ってくれて、傍に居てくれた」


 こちらを窺うように顔を上げた馨は、今にも泣くんじゃないかと思うような表情をしていて。

 私まで、涙が込み上げてきた。


「私、意地っ張りだから……口では本当の事なんてろくに言えなかったけど、ここに──馨の元に来たのがその証拠。本当は馨に会いたかった。あなたに惹かれたのは、私も同じなのよ……」


 最後の方なんて、顔が真っ赤になってるんじゃないかと思った。

 すごく恥ずかしい。だけど馨に私の気持ちを知ってもらいたくて、今を逃したら……馨は私の前からいなくなる。

 そんな気がして、怖くなった。

 しばらく沈黙が続いてから、初めて胸の内を晒した恥ずかしさに逸らした私の顔を見つめる馨の熱い視線を感じた。

 壊れ物を扱うように頬に触れられ、顎のラインを滑り、うなじにかけて髪をそっと撫でられる。肌を掠める馨の指が冷たくて気持ち良い。


「本当のことを言ってくれてありがとう。でも、今は僕のこと……怖くないんだよね」


 馨の方を見ずに小さく、だけどはっきりと頷く。ここは曖昧にしちゃいけないとこだから。


「それに、僕に会いたいと思ってくれてたんだね」

「──っ」

「すごく嬉しいよ」


 改めて想いを確かめられると、ますます恥ずかしい。でも、馨の気持ちが聞けるのは私も嬉しくて……何も言えない。


「今も、僕に惹かれてる…? 僕が人間じゃない……吸血鬼だと分かっても」


 先ほどの和やかな声音から一転、それは張りつめた口調で訊ねられた。その意図に、私ははっきりと気付いてる。

 確認してるんだ。私が本当に“事実”を受け入れているかどうか。

 ──もちろん、受け入れてる。

 事実を知っても冷静でいられたのは、馨のおかげだ。馨が自分の異質な部分を少しずつ私に教えてくれたから、恐れることはなかった。

 私は再度、こくりと頷いた。そこでふと思う。馨はまだ、不安なのかな……。


「か、おる…?」


 どうしようもなく馨の様子が気になって、そっと顔を上げてみた。

 すると癖のある黒髪が、綺麗な横顔が、ふわりと浮かぶ微笑みが視界に映る。落ち着いた色の瞳と目が合って、思わず鼓動が跳ね上がった。

 馨は再度私の頬に触れ、心底嬉しそうな笑みを浮かべる。


「顔が真っ赤だ、すごくかわいい」

「──っ!? こんな時にからかわないでよ…っ」


 どうしてこのタイミングで、そんなこと。

 そう思いはしたけど、怒るに怒りきれない。こんな事で馨はからかったりしないから。


「あぁ、いつもの茉莉花に戻った。ごめんね。でも、本当にかわいくて」


 そう言った馨は、本心から嬉しそうに笑ってるように思えた。私が見たかった、本当の笑顔で。

 続けて胸を鷲掴みするような事を言ってくる。


「茉莉花は、確かに生きてる。僕の傍で、僕と話してる。それが何より──嬉しい」


 ……でも、安心した。いつもの馨に戻ってくれて。

 もう随分と陽が昇ってきた。辺りはもう充分すぎるくらい明るい。あと数十分で太陽が顔を覗かせるんじゃないかと思った所で、ふと気付く。


「ねぇ……馨」


 馨に何かあったらと思うと……聞かずにはいられない。だって、馨は。


「あの、聞いてもいい…?」

「いいよ、遠慮しないで何でも聞いて」


 そうは言ってくれたけど、やっぱり躊躇ってしまって口を閉じてしまう。でも──思いきって訊ねてみた。


「馨は、陽に当たっても……大丈夫なの?」


 すると馨は、私の気にしている事をすぐに察してくれた。明るい笑顔をぱっと浮かべてくれる。


「うん、平気だよ」

「な、ならいいの…っ」


 ほっと胸を撫で下ろした。

 良かった。私に合わせて無理してるんじゃないかと思ったけど……そうじゃないのは馨を見れば明らかだ。


「僕のこと心配してくれたんだね」

「私そういうの疎いから、他はよく分からないけど……」


 あと知ってるのは、ニンニクとか十字架くらいだ。今この場に無い物ばかりだから心配いらないけど。

 知識の無い自らに少なからず不甲斐なさを感じていると、それを消してくれるようなとても穏やかな表情を浮かべる馨が、私の手をそっと握った。


「それでも、ありがとう。動きや反応が少し鈍るくらいで、本当に平気だよ」

「それって、つらいの?」

「それほどでもないよ」


 そこで馨はもうすぐにでも顔を覗かせそうな朝陽に眼差しを向けて、眩しそうに目を細める。

 そういえば初めて、明るい中で薫の姿を見た。肌は日本人とは思えないほどの色白で、赤みがまるでない。いっそ嘘みたいに白すぎる。

 手を伸ばして、馨の頬にそっと触れた。冷たくて白くて……まるで、血が通っていないみたい。

 吸血鬼だから、なのだろうか。


「茉莉花は温かいね」


 そう言って馨が私の手を自身の頬に強く宛がう。口元に穏やかな笑みを浮かべて。

 馨は……冷たい。でも心は、言葉は、いつも温かい。いつも私を温めてくれる。

 ずっとこうしていられたらいいのに。

 私の手を握ったまま、風に煽られて顔にかかった髪を掻き上げる馨を眺めながら、さっきからずっと考えてた事を言ってみた。


「……うちに、来る?」

「茉莉──えっ?」


 思わず口をついて出た言葉だったけど、驚いて目を見張る馨を見た途端、急に恥ずかしさが襲って顔を俯けた。

 それらしい理由を咄嗟に考えて、馨の様子をうかがいながら小さく呟く。


「陽が当たらない方が、いいかと思って……」

「いや、えーっと……まぁ」


 なんだか少し気まずそうにする馨に、思わぬところで新鮮さを感じつつ、私もさりげなさを装いながら本音を打ち明けた。


「私もね、すごく久しぶりに陽が出てる時に外にいるから……正直、落ち着かなくて。それに……服に血も付いたままだし」


 最後の一言は、未だに残る恥ずかしさが尾を引いて、正直後付けのようなものだったけど。

 そこで馨は切なそうに顔を歪めて、そしてそっと微笑んだ。


「……そうだね。服は変えた方がいい。僕のためにも……特に、きみのためにも」


 その言葉にどんな意味が含まれているのか……私達は敢えて触れずに、立ち上がった。




 * * *




「──伝承される生き物の弱点というのは、大抵は人が作った話なんだよ」

「なんのために?」

「自分達にも対抗策があると思い込ませるため、というのが一般的だけど」


 そんな話をし始めたのは、私が馨に、日の光に当たっても本当に大丈夫なのか心配になって再度訊いたからだった。

 けれど本当に心配ない、ありがとうとお礼まで言われて、それからは気にしないようにしたけれど。

 公園を出る前から私の手を優しく握って、繋がれた馨の手から冷たい肌の心地良い感触に気を取られつつ、気恥ずかしさに顔が赤くなってるのを悟られないようにしながら彼の話に耳を傾けた。


「例えば、狼人間は満月を恐れるとか、銀の銃弾で殺せるとか。そういう伝承はたいてい人が創ってる。吸血鬼の場合は、確かに日の光で消滅する事はないけど、感覚や動きが鈍ってしまうからね。例えば夜行性の生き物のようなものだと考えるとわかりやすいかな。それであまり日向に出たがらないから、そこから陽に当たれないっていう伝承が生まれたんじゃないかな」

「詳しいね」


 なんだかそういう事に関する専門家みたい。思わず呟くと、朝陽に照らされた白い顔に眩しいくらいの綺麗な笑みが浮かんだ。


「兄さんがそういった事に詳しくて」


 馨がそういう事に詳しい理由に、考えもしなかった情報をさらりと述べられてびっくりしてしまう。


「お兄さんがいるの?」

「うん。あと、双子の弟もいる」

「双子……!?」


 驚きがさらに重なって、声が裏返ってしまった。馨をもっと知りたいとは思っていたけど、これは予想の斜め上をいってる。

 どう反応を返せばいいのか分からなくて、戸惑いながらも、最初に思い付いた事を言ってみた。


「えっと……双子って事は、やっぱりよく似てる…?」

「ううん、全然。二卵性だし、性格も似てない」

「そう……」


 そこでふと違和感を覚えた。

 何でもないような口調で話してるけど、馨は……吸血鬼だ。だったら、お兄さんは? 弟さんは?

 そこまで踏み込むのは、まだ早いだろうか。聞いたら答えてくれるかな……。

 この数時間の内に馨に対して貪欲になっている事に、気付かずにはいられない。そう思うと、彼と繋いだままの手が急に恥ずかしくなってきて。

 突然馨が歩きながら器用に私の顔を覗き込むと、頬を指先でそっと撫でた。


「その方がいいな」

「えっ…?」

「表情がころころ変わって」

「──っ! ……そんな、こと…っ」


 気付かれた。絶対今、顔が赤い。

 考えてる事までバレるはずはないだろうけど、こんな時に、こんなにも真っ直ぐ見つめられたら……なんだか、どぎまぎする。


「茉莉花、もっと色んな表情を見せて。もっともっと、笑ってみせて」


 重ねて優しい言葉を掛けられて。……泣きそうになった。

 今は、これ以上は踏み込まないでおこう。

 いつか家族の事を、色んな事を話してもらえたら……それでいいと思うから。


 隣に馨がいたからだろうか。なんだかあっという間に家の前に着いた気がする。まだ夜が明けたばかりで人もいないから、そこで少し待ってもらう事にした。

 お母さんが起きていて鉢合わせしたら、まずい事になりかねない。

 馨は心底不安げな顔をしたけど、何か言われないうちに振り切って外門を開けて中に入った。

 家のドアを開けて様子を見ようとしたけど、玄関を確認した瞬間、ほっとする。──お母さんの靴がない。出掛けたんだ。


「よかった、いないみたい」


 閉まりかけていたドアから外を覗くと、馨は家を囲う塀の外でこちらを見つめたまじまじっと佇んでいた。

 色んな感情がない交ぜになったような、複雑な表情で。

 異様な緊張感が伝わってくるものだから不安に思いつつ名前を呼ぶと、彼は躊躇いがちに口を開いた。


「なぜ楽に、夜中に寝静まった家へ忍び込まないと思う…? どうしてわざわざ見られるかもしれない危険を犯してまで、外で人を襲わなければならないと思う…?」

「──?」


 突然どうしたの? なんで今そんな話をするんだろう。

 ただ純粋にそう思うけど、笑顔の消えたどこか鬱とした面持ちの馨に掛ける言葉が見つからない。

 私が答えを求める前に、馨は全てを答えてくれた。


「聞いた事はないかな……。吸血鬼は、その家の住人に“招かれる”必要がある。でなければ、中に入ることは絶対に出来ない」


 知らなかった。本当に、聞いた事もない。

 さっき馨が話してくれた伝承のように、今の話も、なんだか伝承めいたもののように思えたけど。

 でも、馨は家の敷地のすぐ外から入ってこようとしない。本当に、入れないから…?


「招けば、いいの…?」

「そうして。でないと、茉莉花の傍に行けない」


 胸がしめつけられるくらい切ない表情を浮かべた馨は、まるでそこに見えない壁でもあるかのように、手をかざす。

 見ていられない、見たくない。苦しそうに顔を歪める彼に“招く”という言葉の意味をろくに考えもせず、口にした。


「入って、馨」


 そうして手を伸ばした瞬間、あっという間にこちらへやって来て私の手を取った馨は、そのまま自身とともに玄関へと引き込んでしまう。ドアが閉まると同時に、私を抱きしめた。

 加減してくれてるだろうことがわかる。ひんやりとした腕が微かに震えてる。それでもあまりにきつく抱きしめられて、切なさと嬉しさがせめぎ合って心まで苦しくなった。

 目にも留まらぬ素早さに思わず驚いてしまったけど、低い馨の体温を感じて、それはすぐに安心感へとすり代わる。


「私、知らなくて……ごめんなさい」

「僕が悪いんだ、先に言っておくべきだった」


 電気も付いてない暗い玄関で私をそっと離すと、うっすらと痣の残る肌を優しく撫でながら、馨は固い口調で話し始めた。


「この家に招かれるべきじゃなかった。そう思うのに、同時に招かれておくべきだとも考えた」

「どういう意味…?」

「一度招かれた家なら、あとは自由に出入り出来てしまう。だからもし、今度きみが母親に暴力を受けていたら……その時は、僕はこの家に入れる」

「──!」


 言われて気付いて、はっと息を呑んだ。


「思い出してしまう。茉莉花が母親に傷付けられているのを、何も出来ずにただじっと聞いている事しか出来なかった自分を」

「っ、馨……」

「次こそは、きっと自分を抑えられない。怒りに任せて、きみの母親を……手にかけるかもしれない」


 そこで馨は口を閉じた。

 そうか。招かれなければ他人の家に入れないから……馨は自分を責めてるんだ。

 そんな事はない、馨の気にする事じゃない。すかさず反論しようとしたけど、私の唇に指先をふわりと当てた馨は、首を横に振って先手を打った。


「先に、着替えて」

「……うん、そうする」


 馨の気持ちはすごく嬉しい。……でも、誰にだってどうにも出来ない事は、いくらでもある。

 それは誰より分かってるつもり、それが……現実だ。


 二人で二階の私の部屋へ向かい、馨には一旦部屋の外で待ってもらってから、私一人中へ入った。

 母親との一件で慌てて外へ逃げ出したせいで、クーラーを付けっぱなしたままだった。おかげですごく涼しい。

 カーテンは閉めたまま、タンスから薄いライトグリーンのノースリーブを出して服を着替えた。


「馨、着替えたよ」


 ベッドの端で膝を抱えながら呼ぶと、馨は部屋に入る前になぜか苦しげに顔を歪めていた。

 その理由が当然気になって前のめりになったところで、こちらに手を掲げて待ったを掛けた馨は、閉めたドアに背を預けてうずくまってしまった。

 驚いて慌てて駆け寄ろうとしたけど、掲げられた手に再び止められてしまう。


「どうしたの…っ」

「さっきからまずいとは思っていたんだけど……ますます、危険だ」


 膝に顔を埋めているせいで声がくぐもっている。意味が分かる説明を求めると、そこで顔を上げた彼の瞳が──ほのかに赤く、底光りしていた。

 赤い瞳に反射的に身をすくめてしまった。でも……怖くはない。びっくりしただけ。


「きみの身が危険なんだ、茉莉花。きみの香りがするこの部屋で……頭がくらくらする。気が変になりそうだ」

「私は、どうすればいい…?」

「そこにいて、僕から離れてて」


 まだ驚いてはいたけど、理由が分かってほっとしながら頷いた。また膝を抱えて座り込む。

 しばらく二人とも口を開かず、部屋には沈黙が流れた。


 再び膝に顔を埋めてじっと動かない馨を見つめながら、カーテン越しに日が昇るのを感じた。どれくらい経ったんだろう……。

 ふと声を掛けようと口を開いたけど、その前に馨が顔を上げた。瞳には僅かに赤みが残ってるけど、気にはならない。


「大丈夫…?」

「ほんと、ごめん。きみを……どうにかしたいなんて、考えたくもないのに」

「そんなの気にしてない」

「僕は嫌だ。茉莉花は、僕の大切な人なのに」

「──っ!」


 そういう事に免疫があるはずもなく、当然のように顔を赤くしてしまった。

 “大切な人”って……。


「僕の言葉でそうして顔を赤くしてくれるなら、いくらでも言いたいよ」


 そこでようやく笑顔を見せてくれたのに、それはすぐに消え去ってしまった。代わりに険しい表情を浮かべる馨に反射的に身構える。


「これから、どうすればいいのか……どうすべきなのか、分からない」


 馨が同じ事を考えてくれてたのが分かって、すごく嬉しい。だけど……現実を見なきゃ。馨はどう考えてるのか……私も考えなくちゃ。


「いつかは、ここから離れるんでしょ…? ずっと同じ所にはいられないって、言ってた」

「確かにそうだ。でも茉莉花をここに置いたまま、この町を出ることは出来ない。そんな事をした日には後悔するのが目に見えてる。絶対に自分を許せない」

「……っ」


 馨の言葉が胸を突く。彼の想いに応えられるだけの、返すべき言葉が見つからない。

 でも、これだけは言いたい。言っておかないと。


「そんな風に思わないで。なにも、馨の責任じゃないんだから……」


 まるで他人事のような言いぐさだと、自分でも思った。けれどこういう言い方でもしないと馨はきっと自分を責め続ける。

 私の説得に馨は困惑した様子で、けれど無理矢理に微笑んでみせる。


「茉莉花は強いね……。でも、これは“責任”どうこうの話じゃない。どうか分かってほしい」

「分かりたいから、言ってみて」


 どこか躊躇いがちに話す馨に、その先を促す。あなたの考えを、思いを……分かりたい。


「こうして気にかけるのは、茉莉花を好きだから。それが全ての理由だよ」


 言葉を、声を、失った。

 胸がきゅうっと締め付けられるような心地がして、一瞬、息の仕方を忘れてしまう。


「こんな時に不謹慎だとは思うけど……かわいいね」

「──っ!? そういうこと言うのやめてよ…っ」


 真っ赤に染まった私を見て、馨はまた率直な想いを口にしてくる。照れくさくてつい意地を張ってしまうけど、馨はいたって真剣だった。


「言葉で気持ちを伝えるのは、大切な事だよ」


 真面目な顔でそう言われて、気付かざるを得ない。

 馨からすれば、私はまだまだ言葉が足りない。けれどそんな私を指摘する事もなく、彼は更に想いを紡いだ。


「だからこそ、もうここを動かないかもしれない。茉莉花を置いていくくらいなら、ここできみを守りたい。悲しませる事になったとしても……きみの母親が手を上げるなら、僕は何も躊躇わない」


 “何を”躊躇わないのかは、具体的に言われなくても分かった。彼は自分の手を汚す事も厭わないと言ってるんだ。

 そんなの、絶対だめ。


「馨は自分で決めてるんでしょ…? 言ってたじゃない、人殺しにはなりたくないって。私は馨に、手を汚してほしくない」


 途端に馨は切なげに顔を歪めた。それには何も答えずに複雑な眼差しで、ただじっと私を見つめる。

 どうすればいいのか、どうすべきなのか。答えが出ない。

 考えを巡らせてくれたけど……そういえば、馨が自身がどうしたいのかは、訊いてない。


「馨は、どうしたいと思ってるの?」

「……言えない。僕のためでしかない……僕のエゴでしかない事だから、言いたくない」

「馨のため…? 馨のためになるなら、教えて。聞きたい」


 馨は首を左右に振って、頑なな私に言い聞かせようと切実に訴えてくる。


「違う、きみは分かってない。僕のためでしかないんだよ、茉莉花。きみのためにならない事なんだ」

「それは馨の考えでしょう? 私は違う受け取り方をするかもしれない。だから……教えて」


 しばらくの間、沈黙が流れた。

 ほのかに赤い瞳が揺れ、迷いが顔を覗かせる。片時も逸らさない私の視線に、馨は漸く決断を下した。


「きみを……変える」

「私を変える…?」

「僕と同じにする。変えるんだよ、きみを」


 刹那、馨の赤い瞳が一際強く煌めいた。


「茉莉花を、吸血鬼に」


 私を、吸血鬼に……。

 時間をかけて、馨の言葉を受け入れようとした。馨はじっと待ってくれている。

 不思議と恐怖を覚えることはなかった。

 ただ、馨の想いを聞いて思ったのは……そういう生き方もあるのか、そういう選択肢もあるのか、と。


「茉莉花をここには置いていけない。かといって、人間のままの茉莉花の傍にはいられない。……危険だから。何かの拍子に、きみが血を流したりしたら……僕は、自分を完璧に抑えられる自信がない」

「かおる……」

「わがままでごめんね。でも、きみを変えれば……そうすれば、危険はほぼゼロになるし、好きな子を守ることが出来る。好きな子の傍にいられる」


 ひとえに馨のひたむきな想いが伝わってきて。心の奥に、深く響く。謝られる必要なんてどこにもない。

 ……それなのに。


「ね…? この案は、僕のためにしかならない、僕のエゴの塊だ」


 どうしてそんなふうに思うの? 自分が望む事なのに、どうしてそうも否定的なの。

 やけに自虐的な笑みを浮かべる馨に、納得がいかない。


「……ねぇ、もう近付いてもいい? 大丈夫…?」


 唐突なお願いに一瞬驚いたようだったけど。目を閉じてゆっくりと深呼吸した馨は、それから私に注意深い眼差しを向けて、そっと頷いた。


「ゆっくり、そっと近付いて」


 その言葉通り、ゆっくりと近くに寄って、そっと馨の傍に腰を降ろす。

 近くなった距離に胸を高鳴らせながら、今度は私が自分の想いを伝える。真っ直ぐに、彼の瞳を見つめて。


「……そんなことない。って、言ったら…?」


 再び、馨の顔に驚愕の表情が浮かぶ。同時に何か言おうと口を開きかけたのを無視して、私は話を続けた。


「嫌だと思ってる私に馨の考えを無理に押し付けようとするなら、それは立派なエゴなんだろうけど……実際、不思議とそうでもないの」

「茉莉花……」


 どこか切なげに名を呼んだ馨に、尚も話を続ける。これが一番、訊いておきたい事だから。


「でも、そうしたとして……私は現実から逃げて、嫌な事から目を逸らした弱虫だって、思わない? もしも今、馨の考えを受け入れたら、あなたは私のこと……幻滅、しない…?」


 馨が自分の考えをエゴだと言うなら、あなたの考えを受け入れる私は、どうなるの?

 私は……馨と一緒にいたいだけなの。

 馨の指先が、ひどく慎重に私の頬に触れる。壊れ物に触れるみたいに。じれったいほどに。

 絶対的な優しさを孕んだ赤みの残る瞳が、私の目を覗く。


「茉莉花は、僕と一緒にいたいと思ってくれてる…?」


 まるで私の心を読んだかのような質問に、一瞬、照れくささを覚えてしまう。けれどそれをぐっと堪えて、彼の問い掛けにはっきりと肯定した。


「うん……思ってる」


 すると目の前の綺麗な相貌に、さっきまでの緊張感を吹き飛ばすような笑顔が、ぱっと浮かんだ。


「じゃあ、答えなんて決まってる。もちろん、しないよ。すごく嬉しい」


 そう言って私の顔を両手で包み込んだ馨は、熱っぽい眼差しで、赤くなっている私の頬を親指でするりと撫でる。


「それでも気になるなら……僕にさらわれたんだと思って」

「……えっ」


 さらわれる……って。どういう意味?

 表情にわかりやすく出ていただろう疑問を分かりやすく顔に浮かべた私に、今度は私の手を引くように取った馨が真摯な口調で説明する。


「きみは僕のお姫さまだ。そんなきみをさらった僕は、好きな子の傍にいられる、世界一の幸せ者だ。そう考えて」

「っ、けほ…っ」


 とんでもない言葉を耳にしてたまらず噎せた。お姫さま? 世界一の幸せ者って……。

 反応に困る。何を言えばいいのか分からない。動揺するあまり、思わず顔を俯けた。

 どんなに心のこもった言葉でも、真面目に語りかけられても……ここまで歯の浮くような台詞、聞いたことすらないから。

 なんてメルヘンチックな例えなの。それに私は明らかに“お姫様”って柄じゃないのに、とどうしても言い訳じみた事を頭の中で誰にともなくしてしまって。

 ぐるぐると思考を巡らせていると、不意に馨の手で顔を上げさせられる。そこには真面目な面持ちの彼がいて。


「茉莉花。僕は嬉しいんだ、本当に。だけど……分かってるよね。変わってしまったら当然、人の血を飲まなきゃならない」

「うん、分かってる。でも……人は殺さなくてもいいんでしょう?」

「そうだね。それについてはどうすべきかきちんと教える。あと……」

「もしかして、年を取らなくなる、とか…?」

「そう……そこは迷信じゃない、事実だ。永遠に等しい命を得る」


 ふと思いついた吸血鬼についての迷信が事実と知らされ、私の少なすぎる知識に新たな事実が加わった。

 一般的な迷信と知っておくべき事実との違いを、今知っておくべき事は訊いておかなければ。

 でも……その前に。当然、浮かび上がる疑問が一つ。


「馨は……何歳なの?」


 途端に苦虫を噛み潰したような顔をした馨は、一瞬の間を置いてから、それでも教えてくれようとした。


「隠し事は嫌だから言うけど……聞いても、嫌わないでほしいな」

「知らないともやもやするから、そっちの方が嫌よ」


 正直に答えたつもりだ。これ以上どんな衝撃的な事を言われても、どんと構えられる自信がある。

 馨は私の様子をうんと時間をとって躊躇いがちにたっぷりと窺ってから、そっと口を開いた。


「十八歳、と……あと」

「……あと?」

「……あと、五十年はプラスされる。一応、身体の成長は十八で止まってるけど」


 そこで口を閉じた馨は、再度こちらの様子を窺ってくる。なんだろう……こんな事で嫌われるなんて、本当に思ってるの?

 馨は少しずれた所で弱気になる傾向があるみたいだ。私は何でもないように笑って見せた。


「それじゃあ、一応、私より一つ歳上なのね」


 それでも尚、馨は不安げに私の反応を窺っている。たまりかねて考えるより先に言葉がついて出た。


「言っておくけど、別に気にしないわよ。私だってそうなるんでしょ? だったら、気にするような事じゃないと思うけど」


 まともな事を言っただけなのに、馨は虚を突かれたような、心底驚いた様子で私をまじまじと見つめる。

 けれど表情は徐々に変わっていった。私の言葉をすんなりと受け入れてくれたようで、終いには綺麗な笑顔が浮かべられて。


「……うん、そうだね。これだから、茉莉花のことが好きなんだ」


 弛く弧を描いた唇から信じられない言葉が発せられた。

 なんでそういう話になるのよ……!

 どんな衝撃的な話よりも、そういう突拍子もない告白の方が断然、心臓に悪いというのに。




* * *




 それからは、時間を忘れて色んな話をした。

 もちろん、主にこれからの事についてを真剣に話し合った。


「きみに心変わりさせたいわけじゃないんだ。でも……いつか茉莉花に後悔してほしくないから、言っておくね」


 そう前置きして訊ねられたのは、学校や友人、両親の事だった。

 学校に行きたい。友達に会いたい。両親……父親が恋しい。

 そう思う事はないか、と私を気遣って訊いてくれた。

 馨に言うには少し躊躇われたけど……隠さずに、正直に話した。

 お母さんは、あんな状態だ。もうどうしようもない。お父さんは……仕事で余り家に居ないから、ほとんど話す事もなくて。

それに元々、この人が友達だといえるような人もいない。

 中学には半分以上行けていない。人付き合いの苦手な自身の性格もあって、今まで誰とも親しい間柄にはなれなくて。

 だから、学校自体に未練はない。会いたいと思える友達も、いない。

 こんな事、出来れば知られたくなかった。でも、これもあっての私だ。これで馨に幻滅されてしまったら……悲しいけど、仕方ない。

 けれど馨は、私を真っ直ぐ見つめて。優しく微笑んでくれた。


「僕も性格がひねくれてるからね、友達は出来にくいんだ。友達作りって案外難しいんだよ」

「うそ。馨って、友達が多そうよ」

「きみはまだまだ僕をわかってないよ、茉莉花。僕、性格がかなり悪いから」


 茶目っ気たっぷりに笑う馨を訝しむ。馨は自分を卑下しすぎだ。こんなにも優しい人はいないのに。

 どこをどう見れば性格が悪いと言えるんだろう。私にはさっぱりだ。


「それもうそよ。私に比べたら、全然……」

「茉莉花にだけ、優しいんだよ。僕が優しくするのはきみにだけ。好きな人には優しいものだよ、誰だってそうじゃないかな」

「だったら尚更、あなたの性格が悪いとは言えないわよ」

「当然、きみに僕の黒い部分を見せたりはしていないからね」

「そこまで言わなくたって……」

「そう言ってくれる茉莉花が、本当に優しいってことだよ」


 ……納得いかない。

 私を想って言ってくれたんだろうと考えたけど。彼を見極めていくにはこれから沢山の時間があるんだから、長い目でみよう。

 優しい微笑みで私を見つめてくれる彼を。


「……あっ、そういえば」


 もう一つ気になっていた事があった。

 私が馨と同じになれば傍にいられる、危険はなくなるって言ってたけど……それでも皮膚を裂かれれば血は出るんじゃないかと訊ねると、馨はあの時の言葉の意味を証明してくれた。


「これ借りるね」

「いいけど……どうするの?」


 机に置いてある文房具入れからカッターを取った馨に、首を傾げる。その刃を出すとおもむろに切っ先を掌に押しつけた。ぎょっとしてさぁっと血の気が引いてしまう。

 そんな私に、馨は穏やかに微笑んで首を振る。


「大丈夫だから怖がらないで、ね? 血は出ないから」


 そう言った馨は次の一瞬で、自分の掌に押し付けていた刃を勢いよく引いた。


「傷の治りが早すぎるんだ。出血する前に傷口が塞がってしまう」


 思わず目を丸くする。掌に傷は出来ていた、確かに。だけど血は出なくて。肌が裂けていたのはほんの数秒だった。


「怖くない?」

「うん……大丈夫。ちょっとびっくりしたけど。私の匂いのせいで馨がつらい思いをしないなら、それでいいの。でも、手は痛くない…?」


 正直なところ数秒で傷が治る吸血鬼としての驚異的な身体能力より、悪意はなくとも私に説明するために自身に傷をつけさせてしまったことの方が気になって、すでに完治した掌に視線を落とした。馨はぱっと笑みを浮かべて、頷いてくれる。

 肝が冷えた心地がしたけれど、彼の笑顔でほっとする。

 あなたが笑顔でいてくれたら、私はそれでいい。




「ここを出る前にね、しておきたい事があるの」


 馨と色んな話をした後、私はこの家を出る決めてからずっと考えていた事を告げた。


「それって、僕が聞いてもいいのかな」

「うん。ただ、お父さんに手紙を書いておこうと思って」

「お父さんに…?」


 馨が僅かに険しい表情を浮かべる。その理由に、すぐに気付いた。

 怒ってるんだ。その感情が私にではない人に向けられている事も、すぐに分かった。


「きみをここに放っておいたようなお父さんだよ、それでも……」

「うん、それでも。一応、会えば心配はしてくれたから」


 私のために怒ってくれてありがとう。そう想いを込めて、ぎこちなく微笑んでみせた。

 そんな私の頬にそっと手を添え、気遣わしげに覗き込んでくる馨は、やがて長い睫毛を伏せて訊ねてくる。


「他にしておきたい事はある?」

「今、考えてるところ」

「……そっか」


 頬から額、また頬を滑って顎のラインを撫でる馨の、冷たい指先を心地良く思った。

 こうしていると、ますます馨の傍にいたいという想いが強くなる。馨に触れられて騒がしい鼓動を恥ずかしく感じながら、やっぱりそれでもこうしていたいと考えてしまう。

 あなたの傍に、馨の傍にいたい。いさせてほしい。

 だから、後にも先にも絶対に後悔なんてしない。

 不安が全く無いと言えば嘘になるけど、馨が一緒なら……やっぱり大丈夫だと思うんだ。







第五章 終

 今宵、決断を下す時。

   


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