今宵、感情に彩りを。
どうしても会いたかったわけじゃない。期待なんて、これっぽっちもしていない。していなかったはず。
そう考えてた。それでも意識が、足が、ここへ向いたのは紛れもない事実。
……そう。私はもう一度、彼に会ってみたかったんだと思う。
確かに馨はあの公園にいた。あの日の記憶は鮮明に記憶に残っている。
腕を掴まれた時の彼の異様な手の冷たさ。鼓膜に心地よく響く透明感のある声音。
前回はいたけれど……今度はいないかもしれないという可能性もある。そう考えたけど、うだうだ考えてばかりだと前に進まない。
──だから、やって来た。
今夜は月が雲で隠れている。それでも公園の中ははっきり見えた。一つしかないけど、視界を十分に助けてくれるくらいには明かりを放つ電灯のおかげで。
馨は以前と同様ブランコに、今回は座って、にっこりと輝かんばかりの笑顔を浮かべている。
……猫に腕を噛まれながら。
甘噛みなんて生半可なものじゃない。見るからに、ガブガブ噛まれている。いや、そう見えるだけかもしれない。
もし猫が本気で噛んでいたら血が出てるはず。だけど当の本人は血を流してはいないし、むしろ涼しい顔をしている。
「こんばんは、茉莉花」
「……っ!」
こんな夜中に、前と同じこの場所で、してもいないのに待ち合わせしたかのようにはち合ったのに。彼は何の疑問も持たないの…?
……ううん、別に持ってほしい訳じゃない。むしろ触れずにいてくれてありがたいんだけど。
本当は、何を考えているんだろう。
「……なに、してるの」
「猫とじゃれてる」
自身の腕から猫を優しく引き剥がし、そのしなやかな体躯をくるりと回転させ、かわいらしい小さな前足を掴んで手招きする。
そこで猫はグッドタイミングとばかりに、馨の手にがぶりと噛みついた。それでもやっぱり痛くないのか、馨はにっこり笑っている。
「もう、会えないのかと思った。僕は嫌われて、茉莉花はもう二度とここへ来ないのかと」
「……」
私は何も答えず黙り込んだまま、馨と目を合わせないようにして空いているブランコに座った。馨を見ず、猫だけを見つめる。
初めて馨に会ったあの日から、丸四日が経っていた。馨に会いたかったのもあるけど、本当のところは……この目で確かめたかったのだ。
日が経つにつれ、実在していたのかと疑いたくなるほど綺麗な馨の姿を。
そこで堪えきれずに、ちらりと馨を盗み見た。
四日ぶりに見たその横顔は文字通り目を奪われるほどに整っていて、すぐに顔を背けるつもりだったのに、私の意思はそれを嫌がった。
ゆるいウェーブがかった漆黒の髪は耳の後ろに掛けられ、おかげで横顔がよく見える。
膝の上で仰向けになり、綺麗な顔を引っ掻いてやろうと繰り出される猫の前足を、馨は笑みを溢して楽しげにかわす。
その様子を見ていて──思わず、小さく声を出して笑ってしまった。
私の笑い声を聞いた馨が、途端にはっとした様子で顔をこちらへ向けてくる。
まずい、と思った時にはもう遅く、馨は嬉しそうに破顔していた。
彼とは対称的に、私の顔からは一瞬にして笑みが消える。無愛想この上ない表情に取って変わって。
だって……馨がこれ見よがしに、じーっと見つめてくるから。
「……なに」
「今日は、話をしてもいいのかな?」
また前と同じく、友好的な微笑みを浮かべている。口調も前と変わらず柔らかく、透明感のある声に聞き惚れてしまいそうになる。
だからって、すぐに態度を変えられるってわけじゃないけど。
「前にも話したじゃない……」
「そうだね、ほんのちょっぴりだけど。できれば今日はもう一度でも茉莉花の笑顔を見られるまでは話したいな」
「……なんか、ナンパされてる気分なんですけど」
されたことないけど、と心の中で呟く。
馨はおかしそうにクスクス笑っていた。なにがおかしいのよ……。
「そういう捉え方もありだね。僕は何とかして茉莉花の気を引こうとしてるから、間違いではないよ」
それを聞いて、思わずすっと目を細めた。無邪気な笑顔の馨を睨みつける。
「からかわないで」
「からかってなんか……」
とんでもないとでも言うように目を見開いて首を横に振った馨は、真剣な表情で私を見つめて。
「茉莉花のことが気になって仕方がないんだ、僕は」
「っ……」
すかさず反論しようと待ち構えていたのに、言葉が詰まる。
気のせいではない、僅かに鼓動が早くなる。顔も火照っている気が、する。
「私の……匂いが、でしょ」
思わず目を逸らして、やっと冗談混じりに言い返す。四日前に馨が言っていた事を思い出して、とっさに。
すると微かに笑い声が聞こえた。それはすぐにやみ、次に大きなため息。
その様子に興味をそそられ、再び馨を見た。綺麗な顔には……なぜか奇妙な表情が浮かんでいる。
いろんな感情が混ざり合ったような……なんとも言えない、憂鬱そうな顔。
「そうだね……。だけど、それが根本的な要因じゃない。茉莉花の香りにそそられるのは、僕自身がきみに惹かれているからだ」
そこで急に、ぱっと表情が変わった。明るく振る舞ってはいるけど、何か隠しているような、いわくありげな微笑みが浮かぶ。
「“きっかけ”では、あるけどね」
そう一言付け加えると、私から視線を逸らさず流れるような動作ですっと立ち上がった。
いつの間にか落ち着いた様子でまどろみ膝に伏せていた猫は、驚いて地面に降り去っていく。
その後ろ姿を目で追っていると──ふいに冷たい何かが、労るようにそっと頬を撫でた。
氷みたいに冷たい指に身震いしてしまう。嫌悪感はないけど……鳥肌が立った。
この感触には覚えがある。見上げると案の定、いつの間にか馨が傍にいて、笑みは完全に消えていた。
私をじっと見つめ、触れられたくない場所──薄紫に色付くアザを、冷たい指でそっとなぞっていく。
「アザ、薄くなったね」
「っ、触らないで」
馨の手を振り払うこともできたけど、しなかった。ただ睨み付け、唇を噛む。
涙が溢れそうになった。
そう、ここへ来るまでに四日も間を空けたのは、顔のアザが……少なくとも暗がりで見えなくなるくらい、薄くなるのを待っていたから。
完全には消えなかったけど、だからって、わざわざ話に持ち出さなくてもいいじゃない……!
そう思うと、頭にどんどん血がのぼってくる。
「どうして放っておいてくれないのよ、私を怒らせて楽しい!? 心の中で笑ってるんでしょ……! わ、私だって、好きでこうなってるわけじゃ、ないのに…っ」
とうとう涙が溢れ落ちた。嗚咽が漏れ、息が詰まる。冷静さを失ったせいで、自分でも何を言っているのか分からない。
以前聞いた馨の話が嘘じゃなかったことを知って、少しは信用してたのに。
どうして触れてほしくない事に目を向けるの? さっきは違うって言ってたけど、やっぱり私をからかっているとしか思えない。
とにかく馨から離れたい一心で、勢いよく立ち上がった──その瞬間。
私は、馨の腕の中にいた。
唐突な状況変化に驚愕し、それでも泣きながらすぐに必死でもがいた。
馨を罵り、拳で殴り付ける。
細身なのに意外に力があるのか、私の抵抗にびくともしない。ただ男だからって理由ではない気がする。
振り下ろされた私の拳による痛みなど一切感じないかのように、呻き声一つ漏らさない。それどころか。
「落ち着いて、茉莉花」
耳元で囁かれた、透き通るような声。同時に背中を優しくさすり、髪をすくように撫でられて。
不意に気付いた。冷たいのは……馨の手だけじゃない。全身が冷たい。
私を抱き締める腕が、広い胸板が、触れている部分全てが、とても冷たい。服越しにでも分かるくらい。
その事に気付いたのもつかの間、私は気が抜けたようにへたりこんだ。
身体中を駆け巡っていた怒りの炎が、まるで馨の冷えた身体に冷まされたみたいに、完全に消え失せてしまって。
「落ち着いた…?」
気が抜けて馨に身体を預けていると、そっと声をかけられて。馨から溢れ出る安らぎに包み込まれるような感覚に陥る。
おかげで再び怒りが込み上げてくることはなく、ただ涙だけが溢れ落ちていく。
馨のTシャツの肩の部分が濡れていくけど、それを今気にする余裕はなかった。
そこで馨は、おとなしくなった私に語り掛ける。
「茉莉花を怒らせたいわけじゃない。ただ、きみが心配なだけなんだ。きみの苦しむ姿から、事実から目を背けるなんてことできない」
まるで何もかも知っているような言いぐさだ。それでもイラッとしないのは、馨の傍にいるからだろうか。
そんなことをぼんやり思いながら、小さく鼻を啜った。
「もし何かあれば、いつでも僕のところにおいで。いつも茉莉花を待ってる」
微笑む馨を濡れた目で力なく睨み付けた。またわけの分からない事を言ってる……と、半信半疑になりながら。
こんな状況でも強がる私を見た馨は、クスクスと綺麗な表情で笑った。
思わず見とれていると、冷たい指で鼻先をツンとつつかれる。
「そんなふうに僕を睨んでも、可愛いだけだよ」
唐突な甘い言葉に、心臓が大きく跳ね上がった。頬がカッと熱くなる。
頭おかしいんじゃないの!? と叫びながら、馨を殴ってやりたい気分だ。
けど……なんとか気持ちと拳をぐっと押さえ込んだ。
多分、嬉しいんだと思う。けれど歪みまくった性格のせいで、素直に喜ぶことが出来ない。
だから代わりに、思いきり抱きついた。冷たい首筋に頬を押し付け、小さくため息をつく。
同時に、馨の身体がぎくりと硬直した。
背中にあった彼の腕の感触が消え、驚いて顔を上げる。
馨は困ったように微笑み、顎の辺りをぴんとこわばらせ、私から顔をほんの少し背けている。
何かに必死に耐えているような……そんな表情で。
「……どうしたの?」
「なんでもないよ」
表情からして明らかに“なんでもない”って感じじゃない。
じっと黙って睨み付けていると、馨は降参したように両手を上げた。
「そうだね……。できれば一度、離れてもらえるといいな……」
意味が分からないながらも何も言わずに、大きく一歩後ろに下がった。そこで馨は、困った様子で一言。
「ほんと、頭がくらくらするよ」
また変なこと言って……。
馨へ訝しげな視線を送りながらブランコへ戻る。座らずに立ったままでいると、彼が目の前にやって来た。
「また例の“匂い”のせい?」
「そう、茉莉花の“香り”だよ」
ブランコの上に立つと、やっと馨と同じ目線になっていることに気付く。しかも……どんどん近付いてくる。
降りて後ろへ下がろうとしたけど、先に鎖を掴む手を上からやんわりと握り込まれ、動けなくなる。
なんだろう……。さっきの出来事の影響か、鼓動が異様な早さで高鳴る。
私を見つめる馨の瞳は穏やかで、それでいて逃れることを許さないような力を感じた。その黒いはずの瞳は、赤みをおびていて──
……、赤…?
赤い瞳をした人なんているの? 仮にも、馨は日本人でしょ?
多分、見た目では。とんでもなく綺麗な顔立ちだけど。
そういえば、私は馨のこと何も知らない。聞きたいと思わなかったから。だけど今は違う、興味がある。
瞳の色を確かめるために顔を近付けようとした。けれど目を伏せられ、長い睫毛が邪魔をして見えなくなる。
そこで馨の片手が私の手を離れていく。そこですぐさま鎖から手を放そうとすると、またやんわりと手を握り込まれた。
「動かないで。じっとして……」
すると再び手を放した馨は、私の顔にかかったショート丈の明るい茶髪を、そっと耳の後ろにかけた。
馨の言葉通りじっとしてると、綺麗な顔が、じれったくなるほどゆっくりと近付いてくる。さらけ出された──首筋に。
ふと気付いた時には、首筋に柔らかく冷たい感触。これは……もしかして、馨の唇?
夏のうだるような暑さと、馨の唇が触れている事実にぶわりと熱くなった肌が、氷のように冷たい馨の体温を感じて身を甘く震わせる。
押し当てられた唇はゆっくりと首筋を下り、鎖骨の窪みへ辿り着く。
そこで馨は、長いため息をついた。その吐息は信じられないほど冷たくて……肌が粟立つ。
「僕を恐いとは思わない…?」
私の首筋に顔を埋めたまま、唐突に問いかけてくる。冷たい息がかかってくすぐったい。
それに気を取られて、質問の意図も、意味さえも深く考えずに答えてしまった。
「ん……思わない」
「良かった」
すると途端にぱっと顔を離した馨は、思わず顔を背けたくなるくらい、眩しいほどの満面の笑顔だった。
馨から顔を背けようとしたところで、はっとする。不意に浮かんだ疑問を口にした。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「忘れた? 僕より危険なものは無いんだよ。特に──茉莉花にとっては」
そういえば前に、別れ際にそんな事を言われた……。一体、本当は何が言いたいのか。
「自分が殺人鬼だとでも言いたいの?」
「当たらずも遠からず、って感じだね」
「意味が分かるように言ってよ」
「大丈夫。茉莉花を傷付けるようなことは絶対にしないから」
馨は私の求める答えをくれない。ふらりふらりとかわしてくる。まるで解けないなぞなぞだ。
「私、なぞなぞって大嫌いなの」
何の根拠もないけど、馨が殺人鬼というのは絶対に違う。でも、とにかく間違いだってことに確信があるだけで、答えが分かったわけじゃない。
だから余計にむっとした。
ブランコを降りて、馨の横をさっさと通りすぎようとした。もちろん、帰るために。
けれどやっぱり、手を握られて引き止められた。馨の冷たい指が私の指に絡み、伺うように私の顔を覗き込んでくる。
「また、会ってくれる…?」
長い睫毛越しに私を見つめる馨の瞳は、すでに赤みを帯びてはいなかった。
一度、あの綺麗な瞳を明るい場所で見てみたい。
「……気が向いたら、来てあげる」
プライドが高い私の、精一杯の答え。プライドを捨てられれば“また必ず会いに来る”と言っているはず。
それでも馨は、私の素っ気ない返事に完璧な笑顔を返してくれた。
私にはもったいないくらい、美しい笑顔を。
* * *
その後も、何度か会った。
適当に日を空けて公園へ訪れる私に合わせているんじゃないかと思っうほど、私が行くと必ず馨はあの公園にいた。
学校はいつの間にか夏休みに入っていたけど、私には無関係に等しい。
もちろん、ほとんど学校へ行っていないから。きっともう出席日数が足りなくて三年には上がれない。
約一年半の高校生活での思い出も思い入れも、無いに等しい。クラスメイトは私のことなんて忘れているだろう。
おまけにあらぬ噂までたっていそう。
そう考えに至ったところで悲しくはなかった。理由は明確だ。
隣に、私の心を癒してくれる人がいるから。
特に会話もせず不思議と心地よい沈黙の中で、私は自虐的な笑みを浮かべた。
そんな私に気付いた馨が、不思議そうに顔を覗いてくる。そしていつも通り、断りもなく頬に触れて。
「今日は暑いね」
「当たり前でしょ、夏なんだから」
今夜は特に暑くムシムシする。おかげで全身、汗でベタつく。だからこそ触られたくないのに……。
「私と違って、馨は涼しそうでなによりね」
馨の手を軽く払い、額に滲む汗を掌でぱっと拭う。常に涼しげな馨へ見せつけるように、嫌味を込めて。
すると何を思ったのか、ブランコから立ち上がった馨が、私に向かって腕を大きく広げた。綺麗な笑顔を浮かべる彼を横目で睨む。
内心、鼓動を高鳴らせながら。
「……なに」
「抱きしめてもいい?」
突然、何を言い出すのかと思えば……!
その唐突な提案に、さすがに顔を赤らめてしまった。バレてないといいけど。
「どうして」
「暑そうだから」
「理由になってない」
「僕は体温が低いから」
「……じゃあ、ほっぺただけ、なら」
確かに、馨は冷たい。“低い”どころじゃない。氷みたいな彼の肌を、私は心地良いと感じてる。
私の前に来た馨は、両手で優しく顔を包んだ。有り得ないくらい冷たい体温だけど、すごく……気持ちいい。
その状態で馨をただ見ているだけなのが気まずくて、綺麗な顔から目を逸らした。
そこでふと、思い出した。この機会に訊いてみよう。
「前から聞きたかったんだけど……どうしてジャスミンに詳しいの?」
私の唐突な質問に、ほんの一瞬間間が空いてから澄んだ透明感のある声が返ってきた。
「特別ジャスミンに詳しいってわけじゃないよ。以前、花屋で働いてたことがあるからその時に色々覚えたんだ」
「ふーん……」
さも興味なさげな私の反応に、自分でも呆れてしまう。本当はすごくそそられているのに。
素直になりたいのは山々だ。本当に。
「この辺に住んでるの?」
「僕に家はないよ」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
意味深な返答をされると、どうしても素直になれない。私の中の反抗心が無性に掻き立てられるから。
馨に対する謎が深まるたび、どうしようもなくイライラした。
同時に、自分が馨に惹かれていることに気付かずには……いられなかった。
第二章 終
今宵、感情に彩りを。