今宵、危険と告げられて。
今日も学校へ行けなかった。昨日も、一昨日も、その前も行ってない。
いつから行ってないんだっけ……。
考えても思い出せないくらい、学校を休んでる。曜日感覚が狂ってしまいそう。
……ううん、もう、狂ってる。思えば今日が何曜日だったのか分からない。
憂鬱な気分で、夜の帳が降りた住宅地をあてもなくさ迷う。家には帰れない。
少なくとも──今のところは。
今が夏で良かった。ついでに、雨も降っていなくて。
街灯はあるし、雲一つ無い夜空にぽっかりと浮かぶ月が暗闇を明るく照らしてくれている。
だから零時をとっくに過ぎていても、外を出歩くのは怖くない。
まぁ……慣れてしまったせいもあるけど。
このままうろうろしていて知り合いにでも会ってしまったら……かなり面倒なことになるのは間違いない。
だから、いつものようにどこか座って休める場所を探そうと、なんとなく脇道へ入ってみた。
以前一晩をやり過ごしたのと同じ場所でもいいけど、今日は何も考えずに以前と全く別の道を通ってきたから……仕方ない。
今更引き返すのも億劫だし。
確かこの辺に公園があったはず。そう思って前方へ目をやると──やっぱりあった。一戸建ての家が何メートルか距離を置いて、公園を囲むようにして建っている。
前に一度来たことがあるそこは、木で出来た簡易的な屋根の下に四人掛けのベンチが二つ、砂場、遊具が滑り台とブランコのみという、簡素で少し古びた小さな公園。
丸い公園の敷地の周りは何かの木に囲まれ、電灯は一つだけ。
あまり見通しが良いとは言えないけど、それが私にとっては好都合だった。何しろこんな深夜に人目につくのは非常にまずい事だから。
小さな入り口へ足を進め、視線は足元へ落とした。
公園の中へ入ったところで適当な大きさの石を見つけ、小学生のように石ころを──勢い付けるほどの元気はなくて、力なく蹴って向こうへ飛ばす。
何も考えずぼんやりとした意識と視線は石ころへ、歩みはブランコへ向かいながら、ザクザクと砂利を踏む。
そこで不意に、ガチャン、という鎖が擦れるような音が耳に届いた。
はっと息をのみ、思わず勢いよく顔を上げた。
視線の先にいたのは、二つぶら下がっているうち一つのブランコの椅子に立っている、見知らぬ男の子。
高二である私と同世代くらいだろうか。
子供用の小さなブランコは、細身だけれどすらりと背の高い男の子が乗っていると、それはとても小さく見えた。
公園の中に入る前からずっと下を見ていたから、人がいるなんて気付かなかった。
それに、ブランコを漕ぐ音も聞こえなかったから。
一つしかない電灯は私達の真横にあるために半分は影になってよく見えないけど、相手は顎の辺りまで伸びた真っ黒な髪にはゆるくウェーブがかかっている。
すっと通った鼻梁に、形の良い薄い唇は弧を描き、アーモンド型の目は私を……確かに私を、ぶれることなくじっと見つめていて。
中性的な顔立ちは隅から隅まで整っていて。すごく、すごく綺麗。
それこそ、今まで見たことがないくらい。
「こんばんは」
高くも低くもない中性的な、よく響く透明感のある彼の声。
不意に微笑みを浮かべた彼は、挨拶もそこそこにブランコからひらりと降りた。
そして凍ったように固まって動かない私の目の前に来ると、ぴたりと立ち止まる。
私の頭の中は──言わずもがな、軽くパニック状態。それでも何もしないわけにはいかず、思っていたより背が高かった目の前の男の子をぐっと見上げた。
お互い見知らぬ相手だというのに、なんの警戒心もないようなふんわりした微笑みを浮かべて挨拶してきた彼を、威嚇するように睨み付ける。
どうするべき? 私の家の近所に住む人だったら……でも、こんなに綺麗な顔の人は見たことがない。
もし一目でも見ていれば、絶対に覚えているはず。
目の前の綺麗な顔からは、いつの間にか微笑みが消えていて。代わりに不思議そうに首を傾げて窺うようにこちらを見つめている。
男にしては長めの黒髪が夏特有のじっとりと汗をかきそうな生暖かい風に吹かれ、彼の顔をさらりと撫でた。
……決めた。
危ない人には見えないけど、今は一人でいたい気分だ。引き返そう。
決めたが早いか、何も言わずにさっと身を翻した。
瞬間、急に腕を掴まれ引っ張られ、反射的に後ろを向いた。放して、と強く言おうとしたところ……出来なかった。
声が詰まり、引っ張られたこととは別の方へ意識が向く。
視線を私の腕を掴んだ彼の手に移し、驚愕してしまう。
なんて冷たい手なの。
まるで、ついさっきまで氷水に手を突っ込んでいたみたいな冷たさだ。夏真っ盛りのこの季節には不似合いすぎる、その体温。
あまりにも冷たすぎる手に驚いて固まった私に気付いたのか、彼はさっと手を放した。その手は頭の後ろへ持っていかれ、くしゃくしゃと頭を掻く。
困ったように眉尻を下げて。
「えーっと……あの……ごめんね」
一瞬、いたずらっ子のような笑顔をぱっと見せた彼は、くるりと体を向こうに向けるとブランコの方へ歩いていく。
そして再びブランコに飛び乗り、立ち漕ぎをする。こちらを見据えたまま。
「お願い、帰らないで。話し相手がほしかったんだ、ずーっと」
にこにこと笑顔を浮かべ、楽しそうにブランコを漕ぐ彼をじと目で睨み付ける。
なに…? 一体なんなの、いきなり。
話し相手がほしい? ここで初めて出会った、真夜中に出歩く……自分で言うのもなんだけど、どう考えても不良的にか思えない私と?
その言動全てを疑いたくなるほどやけにフレンドリーな彼とは対照的に、私は無愛想に呟いた。
「……今、そんな気分じゃない」
「そっか。じゃあ話さなくていいよ。帰らないで、ここにいてくれるなら」
なにそれ……。話し相手がほしかったんじゃないの? さっき言ったことと、たった今言った言葉が、完全に正反対で矛盾している。
そう、思いはしたけれど。口には出さなかった。これ以上話すと疲れるだけだろうし。
その場でバカみたいに突っ立ったまま、数十秒どうするか迷った末……移動するのは、やめにした。
せっかくここまで来たんだもん。変な男の子のせいで、私が公園を出ていくのは癪だ。
話さなくていいって言ったんだし、黙っていよう。
そう結論に至り、今度は迷うことなくブランコへ向かう。私は普通にブランコに座り、揺らすこともせずただじっと地面を見つめた。
ギコギコと隣から響いてくるブランコの軋む音を聞きながら、男の子も私のように家出したのだろうかと、ぼんやり思う。
私の場合は家出というより、逃げ出してきたと言った方が正しいけど。
でも、それにしては彼の雰囲気が明るすぎる印象だ。私とは違うように思えてならない。
「……、……?」
そこでふと気付く。ブランコの軋む音が聞こえない。なんとなく横を見て──ぎょっとした。
視線の先に映った光景に、驚いて。
男の子はブランコではなく、それを吊るしている頭上の鉄の棒に座っていた。ふらふらすることなく、器用にバランスをとって。
私でもブランコに立って手を伸ばしたら、上の棒には手が届く。
私より背が高い彼なら、余裕で鉄の棒には届くんだろうけど……。
だからって、どうしたらそんな所に座れるの? 相当腕の力がないと、どうしたって……。
体操でもしてたのかな。そう思ってなんとなく見上げていると、彼がふと綺麗な顔を傾けたものだから視線が自然とぶつかった。
そこで思わず、口を開いた。別に心配して言ったわけじゃない。ただ、思ったことを口にしただけのことなんだけど。
「……そんなとこに座ってると落ちるよ」
「落ちないよ。ねぇ見て、今夜は月がとても綺麗に見えるよ」
最初の一声は、いい。けれど後半の話の流れを完全に無視した内容を紡ぐ彼に、私は呆れて言葉を失った。
同時に、落ちても知らないから、と冷たい視線を送って。
おかしな言動ばかりの彼を見ているのが、なんだか癪に思えてきて。
地面を見つめるよりは──と、彼の言った通り夜空にくっきりと浮かぶ綺麗な月を眺めていると、再びよく響く澄んだ声が降ってきた。
「ねぇ、きみの名前は?」
どうして名前なんか……。話さなくていいってそっちが言ったのに。
内心むっとしながら黙り込む。
「嫌なら……答えなくても、いいよ……」
なに、よ。
どうしてそんな、残念そうな、しょんぼりしたような声で言うの。
急激にトーンダウンした彼の声にまたもむっとし、自分でもよく分からないまま──それなりに正当だと思える理由を、ぼそっと呟く。
「……相手に名前を尋ねるときは、まず先に、自分が名乗ってからが礼儀でしょ」
「あっ、確かに。誰かと話すことに慣れていなくて」
あははっ、と私の気分に全く合わない笑い声がしたかと思えば、次の瞬間、彼は私のすぐ傍にいた。
ふわりと笑みを浮かべて、手には鉛筆ほどの大きさの枝を持っている。
いつの間に降りたの…!? 降りた音なんてしなかったのに。
どれだけ身軽なんだろう。まるで動きが猫みたいに静かだ。
驚いて目を丸くしている私なんて気付かずにすっとしゃがみこんだ彼は、枝で地面にカリカリと何かを書いていく。
その人懐っこそうな笑みを見ていると、どうしても嫌な態度をとりきれない。まぁ、口調はぶっきらぼうなままだけど。
愛想よくする義理もないし。
「これ、僕の名前」
地面には綺麗な字で大きく“馨”と書かれていた。これって確か……。
「かおる…?」
「うん、そう!」
唐突に浮かんだ満面の笑顔に、思わずドキッとした。
こんな綺麗な顔で笑顔を向けられたら、きっと誰でも心臓を跳ねさせてしまうはず。
そう自分に言い訳して、彼の顔から無理矢理に目を逸らした。
けれど馨は、私の顔を下から覗き込んできて。嫌でも視界に綺麗な顔が入ってくる。
そこで気付いた、馨が何を待っているかに。
「っ……、……まりか」
「まりか?」
かなり小さな声でぼそっと呟いたのに、馨は難なく聞き取り、透明感のある声で復唱までした。
どんな漢字? と私に枝を差し出してくる。それを渋々受け取り、ガリガリとやけくそ気味に地面へ殴り書いた。
「茉莉花……」
再び私の名を囁くように口にした馨を横目で見た。キラキラと輝くような、眩しいほどの笑顔が浮かんでいる。
「きみによく似合う名前だね」
「……? どういう意味よ、それ」
思わず突っかかるような口調でそう尋ねた。
嘘くさい口説き文句のようなその言葉に、からかわれたような気分になったから。
私の何を知ってるって言うの? 今日、初めて会ったばっかりなのに。
馨の目を見れば、私をからかっている様子は微塵もないことは明らかだけど……。
でも、そう思わずにはいられなかった。
私が地面に書いた名前を、馨はほっそりとした繊細そうな指先で撫でるようになぞっていく。
私のつんけんした態度なんて、まるで気にしていないみたい。
……変なの。
「茉莉花はね、“まつりか”とも読むんだ。茉莉花はジャスミンの一種で、とても良い香りがする。まるできみのようだ」
一番最後の部分の、意味不明な発言は……ひとまず置いておくとして。
私の名前が花の名前だなんて初めて知った。変わった名前だとは思っていたけど、両親に名前の由来を聞いたことはなかったから。
だけど……偏見かもしれないけど、男の子が花に詳しいなんて変わってる。
もしかして、でたらめ言ってる?
そうだとしたら口が上手いにも程がある。
疑り深い私の頭は、どうしても馨の話を真に受けることが出来ない。
そこで馨は、急にぱっと顔を上げて私を見た。なぜか困ったように眉尻を下げて微笑んでいる。
「きみの……茉莉花の傍にいると、くらくらするよ」
「……それって、私からなにか匂いがするってこと?」
疑り深い視線を馨に向けて尋ねる。
だって普段から香水なんて付けない。するとしたらシャンプーの香りくらいだ。
「そうだね……言葉では言い表せないほど芳しい、においが……」
そこで馨は目を閉じた。すぅっと息を吸い込み、ゆっくりと時間をかけて深呼吸する。
その間、ぴくりとも動かずに。
男の子にしては随分と長い睫毛が電灯の月明かりに照らされて、頬に黒い影を落とす。
サテンのような黒髪に縁取られた、きめ細やかな肌は相当なめらかなように見えて、たまらなく触りたくなった。
どんな感触だろう。さっき掴まれた時の手みたいに、冷たいのかな……。
「──っ!?」
そこで我に返り、はっとした。
無意識に自分の手が馨へ伸びていることに気付き、同時に驚いて勢いよく引っ込める。
無意識の行動に、恥ずかしさがじわじわと押し寄せてくる。
その時、馨の瞼がぱっと開いて視線がぶつかった。その目は全てを見透かすような鋭いもので、不意に向けられた厳しい視線に心臓が大きく跳ねる。
瞳の中では……なぜか、“怒り”の炎がちらりと揺れたような気がした。馨の形の良い魅惑的な唇が再び開く。
「そのアザはどうしたの…?」
「──っ!」
ここまできて、それを聞かれるなんて思わなかった。
もっと気を遣ってくれたっていいのに……!
途端、激情に駆られて弾かれたように立ち上がりながら馨をキッと睨んだ。
一瞬遅れて立ち上がった馨は悪びれず、怯むこともなく、冷静な態度で真っ直ぐに私を見つめ返す。
「放っておいて…っ、あなたには関係ないんだから!」
「……そうだね……」
「──っ」
真夜中に大声を出したことを気にするべきなのに、今はそんなこと気にしてられない。
冷静な様子から一変、私の投げ付けた言葉で哀しげに微笑む馨の美しい表情に、心がぎゅっと鷲掴みされたかのような気持ちになる。
いや、そんなの錯覚だ。私が彼の機微を気にすることなんてない。
馨からばっと顔を背けた。拳を掌に爪が食い込んでしまうくらい強く強く握り締める。
これで終わりだ。ここからさっさと出よう。
そう思って、体をくるりと出入り口へ向けた。
大半を怒りが占めた、ぐちゃぐちゃと混ざり合った様々な感情が、私の中を取り巻く。
そして、まさに足を踏み出そうとした──その時。
「夜は危険がいっぱいだ。僕より危険なものは無いかもしれないけど、帰り道には気を付けて……」
今ではすっかり笑顔が消え去ったであろう彼の表情でも、透明感のある惹き付けられるような声は変わらない。
その声に自分でも不思議なほど惹かれながら、それでも無理矢理に足を前へ進めた。
公園を出てすぐ、歩みは止めずに滲み出た涙を荒っぽく腕でぐっと拭い……後悔した。
ちょうどアザのある場所に腕が当たり、痛みに思い切り顔をしかめてしまう。
……そう、今の私の顔には隠しようが無いほど目立つ、痛々しいアザがある。
付けたのは……私の母親。
ギャンブルに負けると、それによるストレスの矛先をいつも私に向けてくる。
いつも仕事で忙しく、午前様でほとんど家にいることがないなく顔を合わせる数なんて一月にあるかないかの父親に暴力を振るわれたことは、一度も無い。
けれど私が虐待を受けていることは知っていて、なおかつ黙認している。理由は単純。
警察沙汰になるのが嫌だから。父も──私も。だから病院には行けない。
こんな顔じゃ、学校にも行けない。学校を休んでも両親は何も言わない。 非行少女まっしぐらだ。
もちろん、望んでこうなったわけじゃない。いつの間にか、こうなってた。
この絶望的な生活の中で身に付いたのは、母の怒りが爆発する前に家を出ること。
今日はその予感がして、母が帰ってくるだろう時間の前に家を出た。
そして、あの綺麗な顔の少年に会った。──馨に。
彼の姿が、やけにしっかりと記憶に焼き付いて離れない。輝くような笑顔が。艶やかな黒髪が。
ひんやりとした、冷たい手が……。
家に着くと、いつもと変わらず中は真っ暗だった。誰かいようがいまいがどうでもいい。
出来れば、いない方がいいけど。
玄関の鍵を閉めてすぐ、ふと思い出した事があって、真っ直ぐ二階の自分の部屋へと向かった。
自室に着いて早速パソコンを開く。インターネットに繋いでキーボードを打ち、マウスに手を移す。
真っ暗な部屋の中、ただ一つ明かりを放つ画面に目を細めながら、現れた文字を追った。
「あっ……本当、だったんだ……」
長いため息をつきながら、椅子の背にくったりと身体を預けるようにして凭れながら呟いた。
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もちろん──“茉莉花”について。
“茉莉花(まつりか/まりか)は、ジャスミンの一種。真夏の夜に咲く、小さな純白の可愛らしい花は、甘美にして奥深い芳香を放つ。”
ジャスミンって、紅茶にもあるよね。名前は聞いたことあるけど……どんな匂いなのかは知らない。
確か馨、言ってたっけ。とても良い香りがする花だって。
どうして花に詳しいのか知らないけど、嘘をついてはいなかった。
それが分かった瞬間、不思議な感覚が自身を支配するのを感じた。そして、思わずそっと微笑んだ。
それにしても、あれはどういう意味なんだろう。
馨の透明感のある声を思い出し、頭の中で再生する。
『夜は危険がいっぱいだ。僕より危険なものは無いかもしれないけど、帰り道には気を付けて』
“僕より危険なものは無いかもしれないけど”なんて……。馨は自分が“危険”だとでも言うのだろうか。
そうは見えないけど。変な男の子だなぁ、と思ったくらいで。
ほんと、さっぱり意味が分からない。
その夜は、なかなか眠ることが出来なかった。何度寝返りを打ったか分からない。
ぼんやりしながらも思考は馨の姿を、声を鮮明に思い出す。綺麗──あるいは美しいという言葉があれほど似合う人には、会ったことも見たこともない。
まるで、夢の中の住人みたい。
そう考えると、今が現実なのか夢の中なのか、境目が曖昧になってきて……だんだん分からなくなってくる。
それこそ、馨と会ったのが本当に現実にあったことなのか、確信が持てないほどに。
そうしているうちに夜が更け始め、私はいつの間にか眠りの底へと、ゆらゆら落ちていった。
第一章 終
今宵、危険と告げられて。