第一話 戦の終わり
エデル王国では、厳しかった夏の暑さが葉色を従えて涼やかな秋へと移りゆくという、ちょうど季節の変わり目を迎えていた。幾分か気温も過ごしやすい域にまで下がってはいるが、やはり昼日中に甲冑をまとったまま全力で走ろうものなら汗をかいてしまう。
「くっ」
と、息を漏らしたゼロニウスは右目に入り込んだ汗を乱暴に拭い払いながらも、しかしその足を休めようとはしなかった。
二か月ほどの東方遠征の任を終え、王宮のあるここ首都アルーバに帰還した彼がその報せを知ったのはつい十分ほど前のことである。己の馬を厩舎に入れながら、青い顔をした若い兵の報告を聞いてから十分、である。
(なにかの間違いであってくれ)
そう心の中で念じてはみるが、走りながらでも街の様子が尋常でないことがうかがえる。時折、胃がねじ切れそうになるのは全力疾走のせいではない。悪夢以外の何ものでもないその単語が、ちらほらと民たちの会話からこぼれてはゼロニウスの耳に吸い込まれてくる。
奥歯を軋らせたゼロニウスが怒りに震えた声でつぶやく。
「結婚など……」
なにかを振り払うように頭を左右に振ったゼロニウスは警備兵の制止を押し切ると、勢いそのままに王宮へと駆け込み、長い回廊の突き当りにぽつんとたたずむ扉の前でようやくその足をとめた。
短く二度、拳でその扉を叩いてから、
「エデル国主要本隊第二分隊長ゼロニウス、東方遠征からただいま帰還いたしました!」
顔中を汗で濡らしていながら、しかし息一つ乱れることなく叫んだその声が、石造りの長い回廊を心地よく響き渡った。
そんなゼロニウスの声とは対照的に、どこか沈んだような覇気のない返答が中から聞こえてくる。
「入りなさい」
「は! 失礼します」
背筋をピンと張ったゼロニウスがゆっくりと扉を押し開けると、部屋の中には二人の男とひとりの少女がこちらに視線を送っていた。
白塗りの壁にさりげなく飾られた絵画や、中央に向かい合うように置かれたふたつのソファー、色とりどりの花を活ける花瓶、そのどれをとっても一般の家庭には置かれることのないほどの高級品である。
その部屋の奥、開かれた窓に背を向けて座る壮年の男が眉間のあたりを指でほぐしつつ、ため息交じりに口を開く。
「ゼロニウス、これはもう決定事項なのだ」
エデル王国第十一代国王テレンス・フェーレンシルトによる先制の一打が、ゼロニウスの悪夢を現実へと変換させる。
絶望が失望を呼び、失望が怒りを誘発し、知らずゼロニウスは拳を握りしめて声を荒げていた。
「正気の沙汰とは思えません! 国王! 今一度――」
「口を慎めゼロニウス!」
国王テレンスの脇に立つ初老の男がしゃがれた声で一喝し、ゼロニウスは言葉を詰まらせる。
「よいのだ、アドルフ。今のゼロニウスの言葉は民の声そのものであろう」
手のひらで男を制止し、テレンスは細めた目をゼロニウスに向けなおす。
「長きにわたり啀み合い、殺し合い、憎しみ合ってきた“彼ら”をすぐに受け入れろというのは酷な話かもしれぬ」
「ならば――」
先ほどアドルフと呼ばれた男にしたように、今度はゼロニウスを手のひらで黙らせたテレンスは視線を鋭いそれに変貌させて、
「だがの、ゼロニウスよ。このまま戦いを続けて貴様、あす死にゆく兵たちの家族になんと申す。わが子は、父親は、愛しき人は、いったい何のために戦い、死したのでしょうかと。お国のために、なにか役にたったのでありましょうかと、そう泣いて尋ねる者になんと答えられようか」
穏やかな口調にありながら、その声には、その言葉には威圧的ななにかが少なからず含まれていた。
きょう終わらせられる戦いをそうとはせず、忠実な兵たちを死地に向かわせ、挙句そこに残るのはさらに膨れ上がった憎悪の念と残された者の悲しみ。
エデル王国北の国境に面した大国、カリエス王朝。
戦いの発端は十二年前。危うくも百年近く保ってきた両国の不戦関係は、あるひとりの女性の死によってあっけなく崩壊することとなった。
もともと、不戦が続いていたとはいえこの二国間の関係はお世辞にも良好とは言い難いものがあった。国境付近の小競り合いは日常茶飯事で、それによる死者も少なくはなかったという。しかしそれでも大きな戦に発展しなかったのは、両国の王たる人物が断固としてそれを望まなかったためである。
国同士の戦とは率いるものが立ち上がらなければまず始まることはない。
逆に言えば、その率いるものがどちらか片方でも立ち上がりさえすればそれは容易に止めること叶わぬ流れとなって、大規模な渦を形成し双方もろとも呑み込んでゆくのである。
国王であるテレンスの言わんとすることは痛いほどに理解できていた。どれほどの数の命を背負って国王という立場に立っているのか、どれほどの想いで兵を戦場に送り続けていたのか、それはゼロニウスの想像をゆうに超えるものであろう。
しかし、理解はしてもまだ、納得するわけにはいかないことがゼロニウスには残っていた。
「……たしかに、戦など終わってしまうにこしたことはありません。それは承知しております。ですが――」
「わたしが望んだのです」
視線を落としていたゼロニウスの頭上に凛とした声が響き、はっと顔をあげた彼の視線の先で少女が微笑んでいた。
「ひ、姫様、なにを……」
「今回の件、わたしのほうから父上にお願いしたのです」
まだ幼さの残る少女の双眸は強い意思を含み、それが剣となりゼロニウスの胸を刺す。
「なぜです! そのような――」
「わたしには、わたしにしかできないことがあります。それが国のため、そして民のためとなるならば、わたしは喜んでこの身を“犠牲”にします」
それが強がりかどうかはわからなかったが、どうであれ少女のその力強い言葉にゼロニウスはただ力なく立ち尽くすこと以外出来なかった。
大陸歴八九四年、九月十七日。
この日、エデル王国からカリエス王朝宛に送られた書簡により、エデル王国第一王女カリーナ・フェーレンシルトとカリエス王朝第三皇子シーク・オルグレンの婚約が正式に承認された。