王太子・前
彼女の目からこぼれ落ちる涙を見て、王太子はやっと自覚したのだった。自分が、目の前の少女ーー自分の妻であるオラグルド辺境伯の長女アウローラに恋していることを。
王太子が彼女と出会ったのは、自分の19歳の誕生日を祝う舞踏会でのことだった。山のように紹介されるのであろう自分の正妃候補、側妃候補たちに引き合わされるのが嫌で、ギリギリまで顔を出さずに庭園をうろついていた王太子は、深い青のドレスを纏ったアウローラを見つけたのだ。こちらに背を向けていた彼女は何故か首の後ろのボタンに手をかけており、ほっそりとした胴体の柔らかなラインに目を奪われながらも、王太子は厳しい声をかけた。彼女がドレスをはだけて、どこかの男と不埒な行為に及ぼうとしているのかと思ったのだ。
振り返った彼女はまだ顔に幼さが残るような美しい少女で、庭園の木々の合間から差す月の光に照らされて深い青の瞳が鋭く光っていた。振り返るときの素早い身のこなしが普通の令嬢には思えなくて、思わず聞き出した少女の家名は、王太子に嫌悪感を抱かせるには十分なものだった。
ーーオラグルド辺境伯。その名前は嫌というほど知っている。会ったこともあるが、10代の王太子など欠片も敬っていないことが分かる、慇懃無礼という言葉がぴったりの態度の食えない男だった。しかし……夫人も見たことがあるが、この娘のように美しい女だっただろうか?
アウローラ、と名乗ったその少女は王太子が知っている貴族の令嬢とは全く違うように思えた。自分が微笑んでも、うっとりとこちらを見つめることのない令嬢など、初めてだった。あれほど嫌だった舞踏会の広間に戻って、この少女とダンスをしてみたい、とまで考えた。が、少女は広間に戻った途端に王太子の腕をすり抜け、父親のもとに戻ってしまった。
そして、その後。父親に続いてアウローラが述べた祝いの言葉は、父親にそっくりの慇懃無礼なものだった。口には貼り付けような美しい微笑みをたたえていたが、瞳にはなぜか怒りがこめられている。ーーなぜだろう。
年頃の令嬢からの嫉妬や羨望の混じった視線、そして若い貴族や、愛人を多く囲っていることで有名な中年貴族からの欲望を隠そうともしない好色な視線全てを無視してアウローラはすぐに広間から出ていった。すらりと背の高いその後ろ姿を視界の端に収めながら、王太子は集まってきた令嬢たちの相手をすることとなった。そのとき王太子は、ダンスをしてみたいなどと思ったのは気のせいだと思うことにしたのだ。
アウローラは確かにオラグルド伯の血を受け継いだ失礼でいけ好かない女だと、思うことにしたのだ。
だから王太子は、とうとう自分の正妃が決まったこと、その相手が庭園で会ったアウローラだということ、そして婚礼の儀式はすぐ四ヶ月後であることを父である国王、母である王妃に知らされたとき、抵抗したのだ。オラグルド伯の娘などと結婚するなんてどうかしてる、自分はあんな女を妻に迎えたくはない、と。
「お前は少し噂や偏見に囚われすぎているな。アウローラ嬢は美しいし、最近までずっと領地にいて、多くのことを学んだ才覚ある女性だ。確かにオラグルド伯は 少し扱いの難しい奴だが、その娘の彼女まで同じというわけではないだろう」
「ずっと領地に引き込もって、何をしていたのか分からないではないですか。より良い男をつかまえる技術でも学んでいたのかもしれませんよ」
「憶測でそんな失礼なことを言うものではないわ」
王妃から厳しい声が飛んだ。王太子は肩をすくめて立ち去った。口答えをしたところで、国王とオラグルド伯が決定したことを覆せるわけではないことぐらいは、彼にも分かっていた。
ただ、彼がもう少し、国王の「偏見に囚われすぎている」という言葉を気にしていたら……アウローラとの結婚生活は違ったものになったかもしれない。
それから婚礼の儀式まで、王太子はアウローラを徹底的に避けてきた。初めてアウローラと会った舞踏会での、慇懃無礼な祝いの言葉と怒りを宿す瞳が忘れられなくて、どうにも腹が立っていたからだ。
それに、こうも考えていた。自分がこうしてアウローラを避けていれば、アウローラも自分が立腹していることに気がつき、謝りにくるかもしれない。向こうから、自分に会いに来るかもしれない……と。
それがあまりにも自分勝手な考えだと、王太子は思わなかった。
とうとう1度もアウローラと会わずに、王太子は婚礼の日を迎えた。本当ならアウローラが王都に到着し、王太子妃の部屋に入った時点で挨拶をする予定が入っていたのだが、これさえも王太子は他の公務が忙しいと蹴ってしまった。そして夜は、今まであまり通っていなかった後宮へ向かったのだ。後宮にいる令嬢はアウローラとは大違いだった。自分が訪れると知ると、精一杯着飾り、一生懸命もてなして寵愛を願う姿は健気で、アウローラよりもよほど可愛らしく思えた。そんな風にアウローラを避ける王太子の様子に、これ幸いとアウローラに関する根も葉もない噂を吹き込んだ側妃たちのおかげで、彼はすっかり疑心暗鬼になってしまった。
そして婚礼の儀式の日、王太子はアウローラに宣言した。お前を愛することはない、と。その言葉に、自ら縛られるとは知らずに。
結婚してからのアウローラは王太子の予想とは全く違っていた。初めての夜、処女ではないだろうから良いだろうと思って乱暴に抱いた彼女の身体は、明らかに未通だった。シーツについた血を見たときは、てっきり動物の血などを用意して仕込んでおいたのかと思ったくらいだった。処女ではない令嬢はときとしてそうやって男を騙すらしいと聞いていたからだ。だが、行為に及んでいるときのアウローラの強ばる身体が、固く目を瞑り血がにじむほど唇を噛み締める様子が、そうではないと主張していた。
ことが終わってすぐに、アウローラは自分の部屋へ戻っていった。思わずこぼしてしまった王太子の言葉に気分を害していたのは明らかで、彼は反省した。これからは、アウローラにもう少し優しく接するようにしようと思った。
それから王太子は、何ヵ月かアウローラの元に通った。彼女は浪費もしなければ、隠れて男遊びをする様子もないし、公務をすっぽかしたりもしない。聞いていた噂とは全く違う様子に少し戸惑いながらも、そのうちに本性を見せたりするのではないかと警戒していた王太子は、そのうち別のことで頭を悩ませることになった。
それはアウローラの態度だった。王太子が部屋を訪れても、彼女は全く嬉しそうな顔をしない。かといって不快感を表すわけではないが、申し訳程度の微笑みを浮かべ、決まりきった歓迎の言葉を口にするだけ。宝石やドレスや自分のためのパーティをねだるわけでもなく、側妃より自分を愛してほしいと請うわけでもなく、王太子妃という立場から、義務感で自分に抱かれているのだと分かる態度。
どれだけ優しく彼女を抱いて、乱れさせ、快感を感じさせても、アウローラは王太子の名前を呼ばない。あまりにもアウローラが自分になびかないから、自分はムキになっているのだと王太子は思っていた。
だから、公務から帰ってきたアウローラが、馬車を降りるときに手を貸した近衛騎士の名前を呼び、微笑みながら『ありがとう』とお礼を言っているのを見たときも、自分にはしないことをたかが近衛騎士にしているから苛ついただけだと思っていた。それが紛れもない嫉妬であることに、今まで自分から愛を乞うことのなかった王太子は気がつかなかった。
アウローラの淡々とした態度に耐えられなくなった王太子は、アウローラの元に通うのをやめた。代わりにハーフィモニー男爵令嬢の、エレーナの元へ通うようになった。彼は自分が怖くなっていたのだ。先日は、アウローラが自分の名前を呼ばないことに苛立ってーーあろうことか、彼女の頬を殴ってしまったのだ。これ以上、思い通りにならない彼女の元へ通っていたら、自分が何を仕出かしてしまうか分からない。
エレーナは愛らしい女だった。王太子が部屋を訪れると、パッと顔を輝かせ、抱きつかんばかりに駆け寄ってきて笑う。仕事の話を聞きたがり、貧民街の視察をしたことを言うと『まあ、怖いわ。ああいう所って、まともに暮らせる子供がいないくらい、治安が悪いのでしょう?』と震えてみせる。手土産を渡すと、どんな物でも『すごいわ! ありがとう!』と喜ぶ。 公務が忙しすぎて行けなかった日の次の晩は、少しわざとらしくさびしかったと拗ねてみせる。
エレーナはよく王太子に甘え、贈り物をねだり、彼の名前を甘ったるく呼んだ。素直に感情を表し、分かりやすく愛を捧げる彼女はとても魅力的だった。
王太子はエレーナの素直な可愛らしさを見るたびに、心の中で二人を比べた。アウローラは部屋を訪れても駆け寄ってこない。仕事の話をねだったり、自分が今日どんなことをしたのか話したりしない。どんなに優しく抱いても、甘い吐息を漏らしたり切なそうに名前を呼ぶこともない。目を閉じて押し殺した息を洩らすだけだ。
ーーなんだ。アウローラはやはり、つまらない女ではないか。
比べるたびに、王太子はそう結論を下した。
けれどそうして抑えていた彼の気持ちは、エレーナの妊娠が発覚した日の夜に、アウローラにとってとても不本意な形で暴走してしまう。王太子はやはり、心のどこかで期待していたのだ。アウローラが側妃の妊娠を聞いて、動揺することを。彼女が側妃の妊娠によって、少しでも傷つくことを。
だが実際のアウローラは全く他人事のように側妃の妊娠を祝い、王太子をたしなめるようなことまで言ってのけた。
……その後のことを、王太子はあまり覚えていない。ただ酷く興奮していて、いささか乱暴にアウローラを抱いたことは覚えていたが、細かくどんなことをしたのか覚えていなかった。翌朝目覚めた王太子は、常にない下半身のだるさを感じた。どのくらい抱いたのだっけ、と思いながらシーツを捲り、掠れたように残っている血の染みを見つけて少し驚いた。なぜこんなものが付いているのだろう、とだけ思った。
アウローラは既に隣から消えていた。王太子は、自分が寝る少し前に、アウローラが気を失っていたことを思い出した。いつの間にかぐったりと瞼を下ろしたアウローラの身体から反応が消えて、王太子もそれ以上彼女の身体を苛むのをやめたのだ。
彼はこのとき、アウローラに酷いことをした自覚はあったけれど、深く考えはしなかった。シーツの血がどうしてついたものなのか、目覚めたときに寝台の上にいなかったアウローラがどこで何をしていたのか、何を考えていたのか。次の日に、アウローラの身体を診た医師に注意を受けたことも、彼女が大袈裟に不調を訴えたせいだと思っていた。
それ以降、アウローラの元へ行ったことをエレーナに泣きながらなじられ、医師からもしばらくアウローラの元へ渡らないように言われた王太子は、少し気まずいのもあって、アウローラの顔を見ることはなかった。彼はアウローラが復讐をする決意を固めつつあることに気がつかなかった。気がつかずに、決定的な行動を取ってしまったのだ。
アウローラが妊娠したと聞いた王太子は動揺した。ここ数ヵ月、アウローラを抱いたのはたった1回だ。それで身ごもるわけがない。そう思い込み、アウローラにあまりにも無神経な発言をしてしまったのだ。それは言ってはいけないことだった。王太子という立場からも、アウローラの夫という立場からも。今まで何をしても、文句ひとつ言わなかったアウローラが涙を流しながら訴えるのを見て、王太子はやっと気がついた。
なぜ自分になびかないアウローラに苛々するのか。なぜ自分の名前を呼ばせたかったのか。なぜエレーナの妊娠で、彼女が傷つけばいいと思ったのかーー。
涙で潤んだアウローラの瞳を見て、王太子は彼女と初めて出会った庭園での夜を思い出した。不本意だけれど彼は、アウローラの深く青くきらめく目を初めて見たときに、恋に落ちたのかもしれなかった。