6(終)
バッドエンド、登場人物の死、妊娠描写注意です。
不快に感じそうな方は閲覧を控えてください。
※妊娠月数についてご指摘をいただいたので訂正しました。
「え……? もう一度、言ってもらえるかしら?」
「はい。王太子妃様のここ最近の体調不良は、お腹に御子が宿っているのが原因にございます。ご懐妊でございますぞ。おめでとうございます」
懐妊。誰が? ……自分が?
アウローラは頭が真っ白になった。自然と鼓動が早くなる。心当たりがあるとしたら、あの夜しかなかった。アウローラは未だに、エレーナ嬢の懐妊が発覚した日の夜のことが忘れられない。今までで一番乱暴な行為だった。今も夢にまで見て苛まれているのだ。
あの夜以来王太子は完全にアウローラの元を訪れなくなった。公式の場にも妊娠しているエレーナ嬢か、後宮で一番位の高い侯爵令嬢のアデイル・ラングロード嬢を指名して出席している。既にエレーナ嬢が出産をする前に、アウローラが王太子妃の座を下ろされるのではないかという噂もしきりに囁かれている。外を歩けば人の不躾な視線が鬱陶しいし、あの夜に受けた行為は一生忘れられそうにないけれど、この場所から解放されるなら構わないとアウローラは思っていた。今回の体調不良だって、季節の変わり目で少し身体が弱っているだけだと思っていたのに、それなのに……。
「なんてことなの……」
「王太子妃様、これは喜ばしいことではないですか。王太子様もお喜びになることでしょう。なに、少々後宮が騒がしくなるやもしれませんが、これで不謹慎なことを噂している輩も口をつぐむでしょう。王太子妃様は元気な御子を産みまいらすことを考えていれば良いのですよ」
柔和な顔をした老医師がアウローラを励まそうとしたのか、全くもって検討違いのことを言ってきた。それにろくに反応を返せず、アウローラは「下がりなさい」と呟く。
老医師が退室して、室内にサラと二人きりになったアウローラはため息をつき、ベッドの上で顔を手で覆った。サラはなんとも言えない硬い表情をしている。流石に何ヵ月も王太子妃の側にいれば、アウローラが如何に王太子妃として努力しているか、そして如何に王太子に振り回され、それを我慢しているかが分かってくる。最後に王太子の渡りがあったあの夜は、サラにとっても嫌な記憶だった。
午前中は王太子妃であるアウローラよりも先に、エレーナ嬢が妊娠したことが発覚し、夜、突然訪れた王太子にアウローラが真っ当な意見を述べると、逆上した王太子にアウローラを連れていかれ。
近衛騎士を部屋から追い出し、眠れぬ夜を明かした後、現れたのは手酷く抱かれた痕が身体のそこかしこに痛々しく残るアウローラだったのだから、その姿を見たときはショックが強すぎて、思わず主人を気遣うよりも先に泣いてしまった。
薄々、サラにも分かってきている。アウローラが王太子の寵愛など少しも望んでいないこと、むしろ出来れば……王太子妃の座を下りたいと思っていること。
アウローラは自分の母親のことを考えていた。辺境伯領の屋敷に勤めていた、美しいメイド。彼女は妻帯している身で自分を孕ませた主のことを、一体どう思っていたのだろうか。少しでも愛しいと思っていた? それとも、体の関係を持ったことも子を孕んだことも、全て望まぬことだった? 彼女は自分の子どもをーー私のことを、育てたいと思っていたのだろうか。
考えても分からないことだった。アウローラは自分の母親がメイドだったことしか知らない。それ以外は何も聞かされなかったし、折檻や訓練や勉強で忙しかったアウローラが、顔も知らない母親のことなど気にしている暇は無かった。ただ一つ分かるのは、アウローラも彼女の母親も特権階級の男の子どもを妊娠したということだけだ。
アウローラは顔を覆っていた手を外して、自分の薄い腹を見下ろした。ここに宿っているのだ。あの王太子の子どもが。実感は湧かなかった。
その日、後宮をアウローラが懐妊したという情報が駆けめぐった。ある者は悔しがり歯噛みし、ある者は関わりたくないと傍観を決め込んだ。そして後宮の外では密かに、アウローラの殺害を決意した者たちがいたのだった。
その日の夜のことだった。渡りの知らせもなく、王太子がアウローラの部屋を訪れたのは。
夜、湯浴みを済ませて簡素な寝間着に着替えたアウローラは、寝る前に飲むためのお茶を用意しに行ったサラを待っていた。ソファに腰かけて手すさびに刺繍をしながら、今後の振る舞いをどうするか、悩んでもいた。
「……様! 本日は……取りくださ……!」
「かまわ……通せ……」
「お待ちくださいませ!」
ふいに部屋の外が騒がしくなったかと思うと、サラの切羽詰まった声が聞こえた。そして次の瞬間には王太子が部屋の中に入ってきた。その後ろから、泣きそうな顔をしたサラと近衛騎士が数人、部屋の中へ飛び込む。
王太子はソファに腰かけるアウローラを認めて、つかつかと歩み寄ると、その細い肩をつかんで言った。
「……妊娠したと聞いたぞ。どういうことだ?」
「……どういうこと、とは」
「誰の子かと聞いているんだ! この淫売が!」
間近でそんなことを叫ばれて、アウローラは頭を殴られたような衝撃を受けた。
あまりの発言にあっけにとられたアウローラよりも早く我に返ったのはサラだった。
サラはアウローラに詰め寄っていた王太子の腕を掴み、無理矢理にアウローラから引き剥がした。興奮して顔が真っ赤になっている。
「言うに事欠いて! 何を仰られるんですか!」
「サラ、落ち着いて」
アウローラは素早く口を挟んだ。
「エレーナ様の妊娠が分かった日に、アウローラ様にどんなことをしたのかお忘れですか!」
「サラ!」
「あんなに傷つけられて、女なら誰でも一刻も早く忘れたいような仕打ちを受けて、本当なら喜びと共にあるべき御子を、その行為で授かってしまったアウローラ様のお気持ちがお分かりですかッ!」
「サラッ!」
響いたアウローラの叫び声で、サラはやっと自分が過ぎた行動を取っていたことに気が付いたようだった。きつく掴んでいた王太子の腕を離し、後ろに下がった。その表情はまだ怒りと悔しさの滲むものだったが、部屋の中の人間は皆アウローラに注目していて、咎められはしなかった。
「王太子様は……」
そう切り出しながら、アウローラは少しだけサラに感謝した。サラが先に切れたおかげで、アウローラは手放しかけた冷静さを取り戻すことができたのだから。……でも、でもそれはアウローラがいつも我慢しなければならないということでもあった。
彼女は吐き出したかった。オラグルド辺境伯領にいたときから溜め込んできたものを、どこかで吐き出したいと、いつも思っていた。けれどアウローラの中で渦巻く感情はいつも、限界を超えて爆発する前に彼女を現実に引き戻してしまう。今回もアウローラが激情に駆られることはなかった。ただ、瞬きと共に目からこぼれ落ちた涙だけが、彼女の苦しみを示していた。
「もう少し、自分の言動が周りに与える影響を重要視するべきだと思いますわ。根も葉もない噂だとしても、王太子様が口にすればそれは立派な真実となってしまう。そのことを理解してくださいませ」
言い切って、アウローラはいったん目を伏せた。またこぼれ落ちた涙が、今度は自分の手の甲に落ちるのを見て、もう少しなじってやってもいいかな、と思ったアウローラは再び口を開いた。
「わたくしには、過去に通じた王太子様以外の男性も、今現在通じている男性もいません。この言葉を信じていただけないのでしたら、よくお考えの上で、わたくしを処分してくださっても構いません」
演じてやろう、とアウローラは思った。涙をこぼしながら少し上ずった声音で言葉を紡いでいるこのとき、彼女は復讐の方法を思いついたのだ。この男の子どもを産んだとしても、慈しんで育てられる自信は欠片も無かった。それならば、いっそのこと……。
「王太子様と相思相愛の仲になりたいなどと、そのような大それたことは望んでおりません。ただ、お互いを信頼しあえる、友好的な関係を築きたいのです」
王太子を見つめ、衝撃を受けているらしいその顔をじっくりと観察しながら、アウローラは片目からはらりと涙をこぼしてみせた。
アウローラの懐妊が発覚したその夜から、王太子のアウローラに対する態度は再び変化した。今までの冷淡さが嘘のように、何かと用事を見つけては彼女の部屋を訪れ、贈り物がし、公式の場にも出席を要請するようになった。アウローラはそういった場で、思いっきり愛想よく振る舞うようにした。先人に教えを請うため、と言って出産経験のある貴族夫人を招いてお茶会を開いたりもした。全ては復讐のためだ。
アウローラを王太子妃の座から下ろすべき、という噂や、王太子とアウローラの不仲説はいつの間にか全く聞かれなくなった。
アウローラが妊娠七ヶ月となり、お腹の膨らみも大分大きくなってきたある日のことだった。王太子が手づから贈り物を持ち、アウローラに会いに来たのだ。突然の訪問に驚きながらも、にっこり微笑んで王太子を迎え入れたアウローラは、サラがお茶を用意している間に、王太子の隣に腰掛けて贈り物を開ける。
「まあ……」
出てきたのは靴だった。妊婦でも歩きやすく安全な踵の低い靴は、見るからに柔らかそうな中敷きといい、外側の上質な艶を持った革といい、高価だと一目で分かるものだった。
「それを履いて、一緒に庭園を歩かないか。寒い今の季節でも咲いている花があると、庭師に聞いた」
「まあ、それでわざわざ靴を……。ありがとうございます。大切に履かせていただきますわ」
「あ、ああ、気に入ったなら良かった……」
ぎこちなく散歩に誘う王太子と、隣で穏やかに微笑む王太子妃。どこからどう見ても微笑ましい若夫婦の二人に、給仕をしているサラも口元を弛めた。そして気を使うつもりで、お茶を出した後にそっと部屋を出ていく。
その気配を感じ、王太子はアウローラを優しく抱き寄せた。アウローラは素直に王太子の胸板に頬を寄せた。恥じらっているのか、顔を伏せているので表情は窺えない。
「……お前には、悪いことをしたと思っている。どうしてもオラグルド伯の印象が強くて、お前本人と触れ合う前に決めつけてしまったんだ。ろくでもない女に違いない、と。……すまない」
王太子からは見えない顔の位置を保ったまま、アウローラは口を引き結んだ。
「どうか許してほしいと思っている。これからはお前のことを、誰よりも大切にする。もちろんお前との子もだ」
「それは……ありがとうございます。けれど、王太子様に謝られるようなことはございませんわ。わたくしもこれから、努力を重ねていきたいと思っております」
どこかズレたアウローラの言葉に、王太子は何故か焦りを感じて言い募った。
「俺はお前の許しがほしい。頼む、アウローラ。俺の名前を呼んでくれないか」
伏せていた頬に手をあてられ、上を向かされたアウローラの瞳は若干潤んでいて、儚さと色気を感じさせた。彼女は恥ずかしそうにまばたきをし、つぶやいた。
「……わたくし、従者や近衛騎士以外の男性の名前を呼んだことが無いのです。だから恥ずかしくて……」
「……そうか。それなら無理強いはしない」
だが、少しだけ欲張らせてくれ。王太子はそう囁いて、アウローラの細い首筋に唇を寄せた。驚いたのか強張っているアウローラの肩を優しく撫でながら、薄いそこに柔らかく吸い付く。何度か吸って、ついた痕を満足気に眺めていた王太子が、アウローラの凍りついた瞳に気が付くことはなかった。
そして、アウローラが初めて王太子に散歩に誘われてから、一ヶ月ほど経ったある日のことだった。
あれ以来毎日のように王太子に散歩に誘われるアウローラは、具合が悪い日以外はその誘いに応じた。アウローラは散歩に出るとき、必ず白いケープを着けていて、まるで可憐な雪の精のようなアウローラが、仲睦まじく王太子と腕を組み散歩している様は、とても微笑ましいと評判になりつつあった。
そして、今日もいつものように散歩のお誘いを受けたアウローラは、王太子に贈られた靴を履き、白いケープを着け、白い手袋も着けて出掛けた。いよいよ臨月が近づいて来たので、ついていくサラは不安そうだ。
「アウローラ様ぁ、そろそろお散歩をするのも危なくないですか?」
「サラ、大丈夫よ。庭園に出たら王太子様もいらっしゃるし騎士もたくさんいるのだから」
アウローラは明るく答えて、庭園へ向かう。
先について待っていた王太子に向かって微笑み、腕を組んだところで、それに気がついた。
……どうやら、復讐を実行するときが来たようだった。アウローラは一瞬口元を引き締めて、足を踏み出す。いざ直前になると、少し決心が鈍る気がした。
いつものように他愛のない話をしながら、王太子と腕を組んで歩いていたアウローラは、庭園のちょうど真ん中辺りの、少し開けた場所に来たところで王太子の腕をそっと外した。王太子が止める間もなく、すたすたと十数歩前に出て振り返る。
アウローラが美しく微笑む。
「王太子様、」
一瞬その表情に見惚れた王太子は次の瞬間凍りつく。
アウローラの胸を、膨らんだ腹を、折れそうなくらい細い首筋を、何本もの細い針のような暗器が貫いていた。
誰も咄嗟に反応できなかった。王太子の数歩後ろにいたサラも近衛騎士も、王太子さえも。
ただアウローラだけが驚愕に固まる面々を見て、楽しそうに微笑みを深くした。
「ざまあみろ」
そう、よく通る声で言って、アウローラは倒れた。
「っあ、いやああああああああ!」
「アウローラッ!」
王太子とサラは叫んで倒れたアウローラに駆け寄った。一瞬遅れて近衛騎士たちが、暗器が飛んできた方向へ散らばっていく。
「アウローラさま、アウローラさま、嘘でしょ、アウローラさまッ」
「アウローラ、目を開けてくれ、アウローラ……」
二人は血を流して倒れているアウローラの肩を揺さぶり声を掛けたが、アウローラはぴくりとも動かなかった。サラは涙で視界がぼやけてしまい、何が何だか分からなくなった。赤い色だけ、はっきりと見えている。白いケープに染みた血の赤が、二人の冷静さを失わせた。
アウローラはもちろん分かっていた。王太子が自分に愛情を寄せ始めていることも、突然立場が逆転してしまったエレーナ嬢とその父親のハーフィモニー男爵が、アウローラの排除を狙っていることも。アウローラは最高のタイミングで復讐をするつもりだったから、彼らは随分と焦っただろう。エレーナ嬢の出産がいよいよ間近になってしまったから、こんなに大胆な手段に出たのだ。
庭園に足を踏み入れたときから、こちらを窺う駄々もれの殺意にも気がついていた。あまり腕の良くなさそうな暗殺者だったので、確実に殺してもらえるように、自分から開けた所へ行ったのだ。
きっとこれで、自分が身籠ったと聞いて一度は喜んだオラグルド伯も、心底落胆するだろう。彼ならきっとアウローラがわざと殺されたのを理解して、自分を口汚く罵るだろう。それでいい。アウローラは清々しい気持ちだった。やっと、自由になれるのだ。そう思ったら、生まれて初めて、心から楽しい気分になれたのだ。そして、間抜け面を晒す王太子に向かって心から言うことが出来た。ざまあみろ、と。
こうして彼女は、復讐をもって、人生を終えることとなったのだ。二度と過ちを取り戻せない人々を、後に残して。