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自分はこの瞬間のために生きてきたのだと、薄れゆく意識の中でアウローラは思った。
ーーこの瞬間。自分の命が消えていく、この瞬間のために。
◇ ◇ ◇
アウローラはある貴族の庶子として生まれた。
そこまでなら、よくある話だと言われるかもしれない。
貴族の庶子なんてものは大抵は父親が貴族の婚外子であって、生まれても手切れ金をやって放置されたり、秘密裏に処理(この場合は処分だろうか)されたり、はたまた存在自体を知られていなかったり、稀に腹違いということを公表して引き取られたりと扱われ方は様々だ。
そんな中でアウローラは少し……いや、かなり特別であったかもしれない。アウローラは母親がただのメイドであったにも関わらず、血縁上の父であるオラグルド辺境伯の家に、長女として引き取られたのだから。しかも、庶子であることを隠したまま。
オラグルド辺境伯は国境沿いに広大な領地を持ち、遠く離れた王都にある王宮とほとんど拮抗する力を持つ、国内きっての有力貴族であった。
そんな家の、対外的には庶子であることを隠した実子という微妙な生まれであるからか(もちろん辺境伯領内の本邸の中では公然の秘密であったが)、アウローラの立場は良くないものだった。良くないなどという生易しい表現では足りないかもしれないが。
アウローラの父であるオラグルド辺境伯には当然本妻である夫人がいた。しかし夫人との間に、アウローラが生まれる前にできた子はいなかったのだ。
本妻のオラグルド辺境伯夫人は、夫がメイドに生ませた子を自分の子として引き取ることをしぶしぶ了承はしたものの、その子を大事に育てようなどという寛大な心を持ち合わせてはいなかった。
実際そんなものは必要なかったのである。
オラグルド辺境伯がアウローラを引き取ったのは、単純に自分の手駒として扱うため。
自分の血を分けた子として愛していたからとか、決してそんな甘ったるい理由ではなかった。
そんなわけでアウローラは、その教育を任されたオラグルド辺境伯夫人や夫人が雇った家庭教師らに、小さな頃から言われ続けてきたのだ。
すなわち、自分が存在するのは家のためであり、そこにはアウローラ自身の意思など関係がない。アウローラに求められるのは家の繁栄のためにより良い縁を結ぶことーー政略結婚の駒となることであり、そのために全力で努力すること。それ以外のものは必要ないのである、と。
アウローラが三歳になる少し前のときに、初めて本妻である夫人に子供が生まれた。男の子だった。
夫人は狂喜し、普段はそんなに妻を省みない辺境伯も、跡継ぎとなるだろう男児の誕生を喜んだ。
大変になったのは、アウローラだった。それまでは大切にされることもなかったが、特に害されることもなく幼年期を送っていたアウローラは、このときから厳しい教育を受けることになったのだ。淑女の教養であるものは一通り習わされたが、わずか三歳の子供だったアウローラに全てがこなせるはずはもちろんなく。失敗したり間違えたりするたびに背中を鞭で打たれ、手酷く折檻される日々に、アウローラの心は固く閉ざされていった。
しかしアウローラは優秀だった。その後も夫人は女の子を三人と男の子を一人生み、夫人の子供が増えるたびにアウローラはないがしろにされ、折檻が酷くなっていったが、九歳になる頃には彼女は完璧な淑女となっていた。
礼儀作法やマナーは教本のように、刺繍にダンスに楽器に歌、紅茶を飲んだだけで産地を特定してミルクが合うか否か、どう淹れるのが美味しいのかなど、およそ淑女らしいことは全て叩き込んだ。
もっともアウローラが紅茶を飲むことができたのは、種類を覚えるためとその試験をするときのみだったが。
その次に始まったのが武術の訓練である。それまで自分に与えられた部屋に引きこもり、運動など大してしてこなかったアウローラに、この訓練は地獄のようだった。
吐くまで厳しくしごかれて、倒れて動けなくなっても家の敷地内の訓練場の床に放置され。さすがに厳しくされ過ぎて体調を崩してしまったときも、申し訳程度の薬を飲まされて、熱が下がったらすぐに訓練を再開され。
家にいた期間で一番辛かったのは、訓練が始められてからの半年間ではないかと、アウローラは今も思っている。
そう、そんなに厳しい訓練もアウローラは半年で慣れてしまった。元々彼女は人の気配にとても敏感で(夫人や家庭教師に折檻され続け、それに怯え続けたことの成果と言えるかもしれない)、相手から加えられる攻撃を察知して回避する能力がとても高かった。
なにしろアウローラが習っていたのは普通の武術ではない。騎士や兵士なんかが扱う剣術ではなく、暗器と言われるような武器を使い、相手を殺すことだけを目的とした影の者が扱うような武術だった。
これはアウローラが後で知ったことだが、辺境伯はアウローラが政略結婚に使えるような令嬢に育たなければ、病で死んだことにして影の者として使うつもりだったのだという。
計画に無駄がなくて素晴らしいことだ、ともはや麻痺したような頭でアウローラは思った。
アウローラが十歳になった頃、それまで全く顔を合わせることがなかった辺境伯が、アウローラに会いに来たことがあった。アウローラは辺境伯やその夫人、夫人の子供たちとは隔離された場所で育てられ、行動範囲も制限されてきた。そのため、彼らが会いに来なければアウローラが家の者に会うことはなかった。
辺境伯はそのとき、アウローラを本格的に令嬢として育て上げることを決めたらしく、元々身に付いていた礼儀作法や淑女のたしなみに加えて、歴史や経済なども学ぶことになった。
その日から、目に見える場所に派手に折檻されることはなくなった。
身体に傷を付けないためにだろうか、とアウローラはぼんやり思った。小さな頃から言い聞かされていた通り、そのうち政略結婚をさせられるのだろうな、とも思った。
食事と入浴もまともにさせてもらえるようになり、アウローラは生まれて初めてとも言える穏やかな時間を過ごすことができた。食事がまともになるのと同時に、毒に身体を慣れさせる訓練が始まったことを除けば、だが。
しかしそれでも、勉強の課題をこなし、かなり熟達した武術の訓練を終えた後の自由時間に、家の図書館に入り本を読むことができるのは嬉しかった。自分で用意しなければいけなかったが、好きなときにお茶を飲むこともできた。
きっと、これが最後の楽しみなのだろう。アウローラはそう思っていた。
政略結婚とは愛のないものである。というか、大抵の場合がそうだろう。もしかしたら初対面の相手と結婚することになっても、お互いの努力や擦り合わせがあれば、愛を育むことができるかもしれない。
しかしアウローラは、普通の育てられ方をせず、愛されたことも愛したこともない自分にそれができるとは欠片も思わなかった。
貴族の女が結婚したら、求められる至上のことは一つ。跡継ぎを生むことだ。アウローラは淑女教育の一環として教えられるよりも先に、子供をどのようにして作るのかを知っていた。
家の中ではとても軽い存在のアウローラなど気にすることもなく、メイドと庭師が睦みあっているのを見たことがあるのだ。
それはアウローラの目にはとても下品で汚らわしいものに写った。
あんなことを知らない男とするなんていや。アウローラはそう思ってきた。
それが義務であることは理解している。貴族の女は働くこともなく、食べるものに困ることもなく、綺麗に着飾って生きるものだ。平民の家族が一年間暮らせそうな程価値のある宝飾品を、一度も身に付けずに仕舞い込んでいることもある。しかしその代わりに、自分の意思とは関係なく結婚し、自分の意思とは関係なく子供を生むのだ。
でもそれは普通の貴族令嬢の場合。アウローラはおよそ令嬢らしく育てられたことなどない。教育は受けさせてもらったが、自分が望んだわけではないし、今まで散々な目に合ったことしかない。
そんな自分が、家のために義務を全うしなければいけないなんてーーまっぴらごめんだ。そんなこと、死んでもしたくない。
アウローラは、脱出を決意した。
アウローラはそのために、準備を重ね計画を練ってきた。それは、脱出計画。
アウローラのデビュタントは王都で行われる王太子の十九の誕生日を祝う舞踏会でと決まっていた。王都から馬車で六日もかかる辺境伯領から出席するのはとても難儀なものだったけれど、それはアウローラにとっては好都合だった。
辺境伯領内では、どうしたって逃げ出すことは叶わないだろう。家の敷地内から出ることすら難しそうだから、家の者が自分から目を離すときがある舞踏会はチャンスなのだ。
アウローラの計画は簡単なものだった。
初めて出る舞踏会で粗相のないようにと、実際に舞踏会の会場となる広間の見取り図を見せられていたので、まずはそれを見てテラスから庭園に抜け出せることを確認した。
もちろんその先をどうやって逃げるかは分からない。けれど、暗殺者として身を立てることもできそうなほど訓練されたアウローラは、宮廷を警護している近衛兵とやらには負けない自信があった。当日着ているのは豪奢なドレスだろうが、アウローラは幼い頃から放置されて育ったので、自分で下着を身につけることもできないような令嬢とは違った。ドレスは庭園に抜けたら真っ先に脱いで捨ててしまうか、運べたら後で売ろうとアウローラは考えていた。
ーーこんな杜撰な計画で、警備の厳しい王宮から逃げることができるはずはなかったけれど、アウローラは賢いわりに世間知らずだった。そしてそれ以外にも……計画の成功を信じていないと、不安で押し潰されそうだったのだ。近い将来、自分が望まない結婚をさせられるかもしれないことが、このまま何一つ抵抗しないで、人に強制された人生を送るのかもしれないことが怖くてたまらなかった。
だが一つ、アウローラには誤算があった。
それは自分の容姿が……特に顔が、予想以上に整っていることだった。アウローラがそれに気がついたのは、いよいよデビューの準備が始まりドレスを仕立てるために仕立屋を呼び、着替えているときだった。
普通の令嬢では有り得ないことだろうが、アウローラはそれまで鏡で自分の顔をじっくりと見たことがなかったのだ。何しろお風呂にまともに入れるようになったのもここ二、三年のことである。
アウローラが外に出る機会など辺境伯たちは作ろうとしなかった。それまでの王太子の誕生祝いの舞踏会も、病気を理由にアウローラだけ出席をしなかった。
そのおかげで、辺境伯の長女は病弱でとても儚い美人なのだという噂が立っていたのだが。
何にせよ、初めて自分の容姿をしっかりと眺めたアウローラは、なぜ辺境伯がアウローラを政略結婚に使うことを決めたのか、理解できる気がした。
この容姿なら、きっと政治的な思惑抜きでも欲しがる者はいるだろう。
ゆるやかに波打つ、艶のある深い茶色の髪の毛に、武術の訓練のためにしなやかな筋肉のついたほっそりとした肢体。小さなあごに、ほんのりと色付いている、薄いが柔らかそうな唇。
そして一番印象的なのが目だ。血縁上の父であるオラグルド辺境伯と同じ、真夏の空のような濃い青の瞳。その周りを扇のように濃い茶色の睫毛がおおい、瞬きをするたびに何とも言えない色香がただよう。
アウローラは鏡を凝視した。こちらを見つめ返しているのは、ほとんど会ったことのないが血は繋がっている辺境伯と同じ瞳。
だが顔立ちは? この、少しつり目がちの、賢そうな顔立ちは? 血の繋がっていない夫人はもちろん、辺境伯とも似ていない眉毛の形は? 鼻の形は? 唇の形は?
ーー母親譲り、なのだろうか。
ただのメイドで、周りよりも美しかったが故に目をつけられ、今は生死も分からない母親の顔立ちなのだろうか。
アウローラは不思議な気分だった。彼女は、小さな頃は食事もまともに食べさせてもらえず、折檻されていたので、自分はガリガリで目付きの悪い、魅力などない子供だと思っていたのだ。
だがそれは思い違いだった。アウローラは自分でも気づかぬ内に、可愛らしさと色っぽさと、歳にそぐわぬ鋭い瞳を持つ美少女に成長していたのだった。
何回かの試着と、メイドと仕立屋の試行錯誤(アウローラにはドレスの良し悪しなど分からなかった)の後、アウローラのデビュタントのドレスは青に決まった。辺境伯と同じ、濃い青の瞳に合わせたものだ。
ほっそりした首すじや腕をクリーム色のレースで覆い、首と手首に青いリボンをあしらってあり、胴体の部分は青地に、同じ色の糸で複雑な刺繍をし、裾にはカットしたガラスを縫いつけてある。ワルツを踊れば、照明に反射してきらきらと光を撒き散らすだろう。
派手さはないが、アウローラの美しさを十分に引き立てる綺麗なドレスだった。
アウローラは王都に向かう行きの馬車で、ほとんど初対面の兄弟たちと顔を合わせた。どの子もアウローラと仲良くしようなどとは思っていないようだった。そして少し以外なことに、かなり容姿が整っている辺境伯とは違い、どちらかというと平凡な顔立ちの夫人に似ている子が多かった。
舞踏会で不審がられないようにと、王都につく前から辺境伯を『お父さま』、夫人を『お母さま』と呼ぶように言われたが、違和感が強すぎてアウローラは余り上手く言えなかった。それに、辺境伯は『お父さま』と呼んでも何も変わらないが、夫人 を『お母さま』と呼ぶと、とても忌々しそうにされるのだ。アウローラはとても居心地の悪い思いをした。
そしてアウローラは今、夜の舞踏会に向けて色々と準備をしているところだった。
座っているだけの自分が、侍女たちの手によってどんどん飾られていくのを、アウローラは鏡越しにじっと見ていた。そしてふと、つぶやく。
「わたくしは、もしかして美しいのかしら」
間髪を入れずに侍女が答える。
「もしかしなくともお美しいですわ。特にこの、辺境伯さまそっくりの青い瞳……。今夜デビューする令嬢の誰よりも、お嬢さまが一番お美しいですわ」
「きっとそうですわ」
侍女たちは皆、辺境伯領で洗脳とも言えるような教育を受け、主人である辺境伯に心酔しているような者ばかりだ。
真っ先に誉めるのが辺境伯と同じ瞳というところが笑える、とアウローラは思った。
しばらくして鏡の中には、髪を複雑な形に結い上げてガラスの髪飾りを飾り、ほんのりと頬を紅潮させたような薄化粧を施した、青いドレスの少女が写っていた。
「お嬢さま。完璧な仕上がりですわ」
「そうね。皆ありがとう」
アウローラは侍女に礼を言って、腰かけていた椅子から立ち上がった。元々背が高めのアウローラは、今日もあまり踵の高くない靴を履いていた。
これなら、いざというときにも走りやすいだろう、とアウローラは考える。今日のチャンスを逃がしてはいけない、とも。
舞踏会まで、後少しだった。




