矛盾とヒイサマ
カミサマが、もしいるならば私はこう願う。
"私を普通の人間にしてください。"と。
「ぐふっ」
"鬼"の口から濃厚な血が垂れる。
フィアは"鬼"に放った小剣を静かに抜いた。フィアは歯噛みをする。始末しても始末しても、"鬼"の数は一向に減らない気がする。始めの追手は5人だったが、段々増えていくように感じた。
(ただ私達を始末するだけでこんなにも増援がくるものなの…?)
周囲を見渡しながらフィアは眉を寄せた。"鬼"は死んでいるか重傷で気を失っているかのどちらか二択だ。
本来なら、フィアの立場上"鬼"は全て殺さなくてはならない。しかし、フィアは"鬼"をどれほど憎んでいようとも、殺したいと思ったことは一度もない。その理由はわからない。
そのため、フィアはなるべく"鬼"を殺さないように意識している。先程不可抗力で殺してしまったが、それでも心が痛む。
(きっと私は…人とは違う感性を持っている。だから…血で穢れることを望んだのかもしれない)
ふとそう思うと、酷く納得がいく。女が"鬼"と戦うのを選ぶことは普通の選択ではないから。
「フィア」
「……副隊長」
背後からフォルモントに呼ばれ、振り向くと自分と同じように血塗れの姿で立っている上司がいた。
フォルモントは的確に"鬼"を仕留めているのでフィアより血を浴びている。その姿は、まるで"鬼"のように恐ろしく、そして美しかった。浴びた血の中にはきっと、彼自身の血はないのだろう。
それに比べると、フィアは血をそこまで浴びていないが、身体中ぼろぼろで傷だらけになっていた。これはフィアの矛盾のシルシだ。決して逃れる事が出来ない矛盾の。
「増えていないか、奴ら?狩っても狩ってもキリがねぇ」
「援軍がいつもよりか早い気がしますね…」
"鬼"の気配が濃い方向に目を向けるとまだまだ人数がいそうだ。
これ以上深いところまで行ってしまうと、ただでは済まないだろう。その前に。
「退くぞ」
「了解しました」
フォルモントの指示に従い、フィアは持っていた相棒を鞘に収めようとした。
その時__
「貴様らを逃してたまるものか」
「「っ⁉」」
二人はほぼ同時に後ろへと振り向く。そこにいたのは、一人の男。ヴォルムの民が纏うような温かさが主となるような服ではなく、動きやすさを重視した服装だった。
それは「オーガズ」という民族衣装で、それを纏うのはフィアが知っている中で一つの一族しか好んで使用していない。
「"鬼"共、随分早い御着きだな」
フォルモントは"鬼"に対して笑みを浮かべた。しかし、それは常時より引き攣った笑みで、瞳に鋭い光が灯っていた。
(副隊長…。どう切り抜けるおつもりか)
新たな"鬼"が現れたことによって、フィアとフォルモントの退路が断たれつつある。"鬼"の五感は人のそれとは桁外れに優れている。少しでも大騒ぎをすれば、大勢に囲まれるのは絶対だろう。
「副隊…」
「わかっている」
__状況次第によっては覚悟しろ。
フィアの言葉を遮ったフォルモントは、恐らくそう言いたかったのだろう。フィアは静かに頷いた。
「よくも我々の土地を穢してくれたな。これだから、人間共は嫌いなんだ」
「ぬかせ。 先に貴様らが俺ら人間の土地に入ってきたんだろうが」
「…何?」
フォルモントと対峙していた"鬼"は軽く眉を顰めた。フィアは一歩前へ出て、"鬼"を睨みつけた。
「今朝方、この森の近くで家畜が惨殺に殺されていた。その様は人がやったとは思えない」
「ほう、対した確証も得ずに犯人を決めるのか」
フィアは、"鬼"の言葉によって何も言えなくなってしまった。確かに"鬼"の言うことも一里ある。
それに対して何も言えないのは、とても悔しい。
フィアが小さく舌打ちをすると、フォルモントがチラッとフィアを見てから"鬼"へと向き直る。
「それだけじゃねぇ、家畜を飼っていた農夫が言ったんだ。『紅い瞳』とな」
"鬼"は今迄フォルモントに定めていた視線を、僅かに外した。
"鬼"の外見で特徴的なのは紅い瞳だ。その紅は紅花より濃く、まるで血のような色をしている。
これは、動かぬ証拠だ。フィアは、いつの間に証拠を持っていたフォルモントに内心舌を巻いた。
(私でも知らなかったのに…。いつ知ったのだろうか)
「なら、そいつは始末しても構わない。__見つけられたら、の話だがな」
"鬼"の言葉に意識を戻されたフィアは、ニヤリと笑う"鬼"を睨む。
勿論、そんなものはまったく効かないのは理解しているが、つい挑発に乗ってしまう。
フィアは落ち着くように、深呼吸をした。そして、"鬼"を見据えて堂々と言う。
「なら、意地でも見つけ出してやる。必ず、ね」
紫水晶の眼は決して"鬼"から視線を外さない。"鬼"はその眼に吸い込まれるように、フィアを見つめていた。"鬼"が口を開きかけたその時、第三者がフィア達の目の前に現れた。
「シュリ様、ヒイサマが見つかりません!」
「ヒイサマ…?」
フィアの小さな呟きを聞いた"鬼"__シュリはハッ、気づき新たに増えた"鬼"を怒鳴った。
「馬鹿者!」
シュリの反応から、それが私達人間に知られてはならないことが即座にわかる。
「おい、その"ヒイサマ"って何だ?」
「黙れ、貴様らに関係ないわ」
"鬼"が苦々しく言うと、フィアとフォルモントは眼を合わせて頷き合った。
「なら、教えてもらうまで引けねぇな」
二人は剣を構える。シュリは二人を睨み付け、腰元に挿してあった剣を抜こうとした。
「双方、それまで」
『っ⁉』
突然聞こえた声に、フィア達だけでなくシュリも狼狽えた。声の聞こえた方を向くと、その場所にはリュシオルと同じ位に見える男が立っていた。その男には、フィアには持ち合わせていない、厳格さと威厳を持っている。
「ユン様⁈何故このような所に…」
「今はどうでもいい。それより、ヒイサマはどうした?」
ユンと呼ばれた男がシュリに話しかけた。シュリは気まずそうに口を開く。
「それが、その…。境界の一歩手前までは、確かにこの眼でみたのですが…。その後は、見失ってしまいました」
「なるほど。しかし、追いたい気持ちはわかるが撤退だ」
「な⁈何故です!」
「長からの御命令だ。__それともお前は長に逆らうと言うのか?若輩者のお前が?」
ギロリ、とユンが睨み付けると、シュリは何も言わずに黙ってしまった。
それを見たユンは、フィア達へと視線を向ける。
「人間よ、ここは我等の領域。これ以上この領域にいるのであれば、今すぐ殺すが?」
「こちらの言い分の方が正しいと思うが?」
フォルモントが直様食ってかかるが、"鬼"は動揺した様子がない。
「そうだとしてもこの森を知り尽くしているのは我等"鬼"だ。一声掛ければ即座に集まる。それに私は、貴様らに仲間を殺されて気が立っている。だが、我等はこれ以上無駄な血は流したくない」
"鬼"は悲しみとも憎しみともとれる複雑な想いのまま微笑んだ。
その微笑みは、今までフィアが見たことがない笑みだった。
しかし、次の瞬間には先程までの鋭い表情に戻っていた。
「いかがか?」
ユンの問い掛けにフォルモントは静かに答えた。
「いいだろう__一つだけ聞かせてくれるなら」
ユンは不服そうに片眉を上げた。が、すぐに無言で応じる。
「__"ヒイサマ"って、何だ?」
その場を沈黙が支配した。シュリは怒りでわなわなと拳を震わせ、先程以上に眉を釣り上げている。
対してユンは、今まで以上に冷静な面持ちでフォルモントとフィアを見ている。
どうやら、"ヒイサマ"は彼等にとって余程踏み込まれたくない領域のようだ。フィアは内心冷や汗をかく。
(ここで話を蒸し返すか、普通⁈)
自分でも、頬が引き攣ったのがわかる。それ程、相手方__主にシュリの怒気ら凄まじかった。
ユンは背を向けながら、呟いた。
「__彼の方は我等の希望。ただそれだけだ」
ユンはシュリに、小さく一言声を掛けて森の奥へと歩を進めていった。
フィアはどんどんと離れて行くシュリとユンの背中をただ見つめることしか出来なかった。
「いくぞ」
「はい…」
シュリとユンの背中が完全に見えなくなった頃、フォルモントに声をかけられた。フィアはゆっくり森の出口の方へと歩いて行った。
「フィアさん‼御無事で何よりです!」
森から出ると、一目散にユースが寄ってきた。フィアの怪我を見た時一瞬だけ青い顔をしたが、フィアが普通に笑って見せると、ユースは息をゆっくりと吐き出した。
その吐き出した息の中にどれほどの心配をかけていたのだろう。
「いつも、ありがとう」
この場合心配をかけてごめんと言うべきなのだろうが、フィアはあえて感謝の意味を込めて言った。
ユースは顔を真っ赤にした後、柔らかく微笑んで返事をした。
「はい!!」
その時、風がフィアとユースの間を通り抜けた。風はいつも通り冷たかったが、フィアはその風に微かな違和感を感じた。
__ヒイサマニハテヲダスナ。テヲダセバ、ワザワイガオキルダロウ
「っ!!!」
スルリと頭の中に入ってきた言葉は、なんとも恐ろしい言葉だった。咄嗟に周囲を見回したが、人影はフィア達以外に何もない。獣の気配すらなかった。
「フィアさん…?いや、なんでもないよ」
「森からはなれるぞ。早く準備をしろ、馬鹿共が」
何もなかったように微笑むと、フィアとユースのやり取りに関わっていなかったフォルモントが指示を出した。その言葉は若干キツめだったが、言っている通りなのでフィアは指示に従う。ユースは、邪魔されたことによりかなり不服そうだったが、最終的には小さく「了解」と従った。
周囲にいた、部下達も撤退の支度をはじめる。
(あの言葉は、一体…)
不安に駆られたフィアだったが、フォルモントから早くこいと催促されたので、急いでフォルモントの元へと走って行く。
__"鬼"にとっての"希望"
それが、フィア達人間にとって希望なのか、はたまた絶望なのかはわからない。
ただ、この時点で気付くべきだったかもしれない。フォルモント達、特にフィアを見つめる者が森の中にいたことを。