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瞼越しに僅かに光を感じて、イヴはそっと目を開ける。
王子の側近ともなれば待遇もよく、宿舎のベッドは柔らかく寝心地がいいものだが、今寝ているベッドは少々硬めだ。
そういえば視察先の砦から近い街で一泊したのだと、起き抜けの頭で思い出す。
しかし、妙に腹部が苦しい。まるで押さえつけられているかのような重みを感じ、イヴはそこでようやく違和感に気がついた。
自分を抱き締める、太く逞しい腕を辿り、少し頭上にある彼の顔を覗きこむ。すうすうと心地よさそうに寝息を零す主人を見つけ、つい頭を抱えたくなった。
――起きてすぐ気付かないなんて、ありえない。
実際はアルフレッドの腕が邪魔して頭を抱える事は叶わなかったが、イヴは己の能力の低さに青褪めた。
今はアルフレッドだからよかったものの、寝込みを襲われる事も覚悟しなくてはいけない世界に身を置いている。
ましてや王子を守るべき側近なのだ。もし今のような状況で敵が忍び寄ってきても、イヴはその気配を察知して飛び起きなくてはならないのだ。
――それなのに、アルに抱き締められて逆に安心するなんて……。
どういう思考が働いてこのまま寝る事になったのかは知らないが、アルフレッドより早くイヴが寝てしまった事は薄々自覚していた。
イヴは元々人前で寝たくない主義なのだが、昨日の自分は少々おかしかったのだと思う。
アルフレッドがイヴを抱き締めたのは初めての事だった。
子供の時はともかく、再会してからはアルフレッドはイヴとある程度の距離を保つようにしている。
絶対に触れない訳ではない。手を引かれたり、頭を撫でられたりはたまにある。
しかし、抱き締めるという行為は今までなかった。
正直に白状すれば、驚いた。何かあったのかと訝る気持ちもあった。
だが自分を見つめる瞳が躊躇いの中に僅かに傷ついた色をするのを見て、脳は駄目だと言うのに心が勝手に体を預けてしまった。
イヴはアルフレッドが好きだ。
昔クレアに言われて読んだ恋愛小説の主人公が抱いていた感情よりもっと複雑で、言葉にしがたい感情だが、もし世界で最も大切な人へ向けるのが恋愛感情だと言うのなら、間違いなくイヴがアルフレッドへ向けているのは恋愛感情だ。
イヴは騎士になる為に令嬢としての自分は捨てたが、女まで捨てた訳ではない。愛しい人に抱き締められて、喜ばないはずがなかった。
――でも、駄目だ。
いくらアルフレッドがイヴを大切に思ってくれていても、所詮それは友情だ。あるいは同情かもしれない。
それでもいいと、傍にいる事を望んだのはイヴ自身だ。もうこれ以上の関係など望んではいない。
イヴは自分を包む腕から右腕を引き抜き、そっとアルフレッドの頬を撫でる。
親指の腹でまるで涙を拭いでもするかのように優しく撫でていると、少しだけ身じろいで、うっすらとアルフレッドが目を開けた。
ぼんやりと自分を見つめる銀色の瞳に胸が鳴る。
「アルフレッド、おはよう」
努めていつも通りに声をかけると、アルフレッドは僅かに目を見開いた。手を添えたままの頬が、じわじわと赤くなっていく。
それを少し可愛いと思ってしまうのは、主人に対して失礼だろうか。イヴは心中で苦笑を零した。
状況をしっかり理解したらしいアルフレッドはぎこちなくイヴを解放し、起き上がる。自由になったイヴも起き上がり彼の様子を窺っていると、アルフレッドは顔を隠すように腕を口元に持ってきて、僅かにそっぽを向いた。
「えっと、その……勝手に触れて、すまん」
「うん。気にしてないから」
本当は触れられるのが嬉しいなどとは、口が裂けても言えない。
なんでもないふうに話を切り上げ、イヴは結局使われなかったベッドの上の自分の剣を取る。
その様子を見て、アルフレッドも気を取り直すように息を吐いた。
「もうこの時間から開いてるみたいだし、ご飯食べに行く?」
「ああ、そうだな」
一つ欠伸をこぼして、アルフレッドが背伸びをする。
窓からは白い光が差し込み、爽やかな朝の訪れを告げていた。
*
早くから行動を開始した為か、宿屋を出ても人通りは多くない。
イヴは二頭の馬を先導しながら、地面がまだ乾いていない事に眉を寄せる。
晩の内に雨は止んだと思っていたが、ぱらぱらと降り続けていたのだろう。今は雨雲も離れ、青空が見えているが、地面が乾くにはまだ時間がかかりそうだ。
それでも、普通に馬を走らせる分には問題ない。何事も起きなければ大丈夫だ。
ついつい溜息を吐いて宿屋の前まで戻ると、チェックアウトを済ませたアルフレッドが既に立っており、イヴを見つけてひらひらと手を振った。
「ご苦労様。やっぱり少し肌寒いな」
「そんなに速度出さなかったら大丈夫でしょ。ゆっくりでも昼過ぎには着くんだし」
それもそうだ、と笑い、馬に跨るアルフレッドを見て、イヴも倣うように馬に乗り、手綱を持つ。主人の馬が歩き始めてから、ゆっくりとその後についた。
「この先に書類があると思うとこのまま回れ右をしたくなる」
「真顔でそんな事言われても」
「最近、押し付けられる書類も増えたしな……」
はああ、と心底嫌そうに溜息を漏らすアルフレッド。
国民や家臣の前では威厳ある王様然とした態度を崩さない国王が、家族に対しては素顔に戻って接するというのをイヴは知っている。もっとも直接見た訳ではなく、アルフレッドから聞いた話だ。
息子から見た国王は少々茶目っ気のある人らしく、実際、アルフレッドが順調に執務をこなしていたりすると自分の分の書類をするりとアルフレッドの分に紛れ込ませてしまう事もある。本来アルフレッドの管轄外の書類が回ってきたのを初めて見た時は少々驚いてしまった。
「それだけ信頼されてるんじゃない?」
「そうだといいんだが」
アルフレッドがどこか嬉しそうに苦笑するのが見えて、イヴも表情を緩めた。
舗装されていない道をゆったり進んでいると、次第に森が見えてきた。この森を抜けてしばらく行けば、王都に辿り着く。
イヴは懐から懐中時計を取り出し、時刻を確認する。この調子でいけば、ちょうど昼頃の帰還になりそうだ。
日は随分と高い位置まで昇ってきていた。
「朝が早かったから、いつもより早く腹が空きそうだな。イヴ、どうせだから城下で食べてから帰還にしないか?」
「私はそれでいいけど、こないだみたいに持ってかえるのはやめてよね」
「ああ、あれな……まさかパンを持ち帰っただけで怒られるとは思わなかった」
以前、これ以上戻るのが遅くなれば執務に支障が出るとイヴに急かされ、食べかけのパンを食べながら帰ったところ、ベイリアル侯爵に見つかり、はしたないだの無用心だのとその場で叱り飛ばされた事がある。
以来、アルフレッドは外の食べ物を堂々と持ち帰る事はやめた。飴などをポケットに忍ばせるのは未だによくやるが、要は見つからなければいいのである。
ベイリアル侯爵の説教を思い出して苦い顔を作るアルフレッドと相変わらず無表情のイヴは、しっかりとした足取りで進む馬に揺られて森に入る。
「持ち帰ると言えば、クリスに土産を忘れたな」
「別に観光地に行った訳じゃないんだし。もう子供じゃないんだからなくても文句言わないでしょ」
「はは、言ったらお前が黙らせるんだろ」
駄々をこねようとするクリスをイヴが冷ややかに睨む光景が簡単に想像できて、アルフレッドは愉快そうに笑った。
生い茂った木々の葉が落とす木漏れ日の中は、蹄の音と二人の話し声、そして鳥のさえずりばかりで、穏やかな時間が過ぎる。
そんな時、不意にガサリと茂みが動いた。
その音を耳にして、イヴとアルフレッドはすぐさま馬を止め剣の柄に手をかける。
睨み付けるように茂みを見据えていると、緑の中からオレンジがかった赤が飛び出した。
「よかった! 助けて!」
飛び出してきた赤毛の女は、馬上のイヴ達を見ると縋るように駆け寄ってくる。服は泥で汚れ、髪もボサボサだ。
ただならぬその様子に、アルフレッドはひらりと馬から下りた。
「どうした?」
「連れが怪我をして、動けそうにないの! お願い、助けて!」
同じ年頃にも見える女は抱きつくようにアルフレッドの腕を取り、ぐいと引っ張る。
焦りきった女は落ち着けと言っても落ち着く気配はなく、その連れは相当ひどい怪我をしているのかもしれない。
アルフレッドは眉を寄せ、女の肩を軽く叩いた。
「俺達は手当てなんかできないから、都まで運ぶだけでもいいか? 医者の所につれていってやる」
「ええ、もちろん! ありがとう!」
女が嬉しそうに礼を言う。
その様子を馬上から静観していたイヴに、アルフレッドの視線が向けられた。
「そういう訳だ。つれてくるから、お前はここで馬を見ててくれ」
「うん」
頷き、降り立ったイヴは、アルフレッドから手綱を受け取る。
本当なら側近として主人を一人のこのこと行かせる訳にはいかないが、馬を無理に道なき道を歩かせる訳にもいかず、かといって人を運ぶのに女のイヴは不適任だ。
二頭の手綱をしっかりと持ち、イヴは女に目を向けた。
「連れがいる所はここから離れてるの?」
「そうね……十分もすれば着くんじゃないかしら」
「じゃあ二十分経っても戻ってこなかったら捜しにいくから」
人を一人運んでくるというのに、どんなハードな注文だ。
げんなりした表情を見せたアルフレッドだったが、イヴの有無を言わせぬ視線に苦笑する。
「ああ、わかったよ。いってくる」
「いってらっしゃい」
淡々と言葉を返したイヴは、駆け出した女の後を追いかけるアルフレッドをぼんやりと見送った。
そして懐中時計で現在の時刻を確認し、思わず息を吐く。
――嫉妬なんて、みっともない。
女が彼の腕に抱きついたのを見た時、一気に不快感が押し寄せた。
彼女は興奮状態だったのだから仕方がない。そう割り切れない自分が情けない。
イヴは近くの木の幹に馬を繋ぎ、優しく頭や顔を撫でてやる。甘えるように顔をすり寄せてくる馬に、少しだけささくれだった心が綻んで、表情を緩めた。
その瞬間、イヴと馬の間を小石が飛んできた。どこからか飛来したそれは木の幹に命中し、驚いた馬がいななきを上げた。
馬が暴れる気配を感じてすぐに離れたイヴの背後に、忍び寄る影。
短剣を持った男が彼女に襲い掛かる。
「っく……!」
しかしその前に腹部に打撃を食らい、男は僅かばかり呻く。よろめいた男は体勢を立て直すより早く、イヴの蹴りを受けて尻餅をついた。
苦悶の声を漏らす男を静かに見下ろしていたイヴだったが、物陰から現れ始めた男達に顔を顰める。
「綺麗な顔して、さすが騎士様ってか?」
清潔感のない服装に顔や腕に傷を作った彼らは、見るからに善良な一般市民ではない。ギラギラと剣呑な鋭い目をして、イヴを囲んでいく。
対するイヴは冷静に彼らを見回し、剣に手をかけた。
それを見て、彼らがいっそう楽しそうに下卑た笑みを浮かべる。
「いいねえ。威勢がいい女は嫌いじゃねえ」
「……さっきの女も仲間?」
アルフレッドと離れてからすぐに賊が現れるなど、あまりにもタイミングがよすぎる。
一応確認のように問いかければ、男達の笑みが深くなった。なるほど、まんまと嵌められた訳だ。
恐らく、アルフレッドも似たような状況にいるのだろう。しかもあっちは男なのだから、こちらよりも人数が多い可能性もある。
イヴは内心舌打ちしたいのを堪え、剣を抜いた。
「だから増やせって言ったのに……」
勝手にふらつく王子の護衛は一人では足りないと、アルフレッドには何度も言った。今まではどうにかなったが、こういう時に困るのだ。
苛立ち紛れに吐き捨てたそれに、男が訝るように顔を顰める。
「あ? 何か言ったか?」
「別に。あんた達には関係ないよ」
素気ない一言は彼らの癪に障ったようだった。
怒りに顔をひくつかせながら、それぞれの剣を強く握ったのがわかった。
数は少々多いが、相手にできない程ではない。時間もかかる上に峰打ちだけで済ませてやれそうもないが、騎士だと思ってそれでも標的にした彼らが悪い。
イヴは襲い掛かってくる男達を見据え、剣を振るった。
2月12日 誤字訂正