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『お前は自覚が足りない』
諌めるように紡がれた言葉が、耳の奥で響く。
『何もお前を否定している訳じゃない。俺も昔は色々やって父上に怒られた。だからあんまりお前にとやかく言える立場じゃない』
怒る事も注意する事もあまりない彼は、いつでも『教える』事に力を注いでいたように思う。
彼は自分の妃や息子の前でしか、王としての姿を解かない。威厳ある彼が自分達の前では砕けた口調になるのが、昔から少し好きだった。
そんな彼は酒が入ったグラスを傾けながら、『でもな、だから聞いてくれ』と呟く。
『俺はこの城で孤独な日々を過ごした。仕方がないと割り切っても、王族の俺には誰も本心をぶつけてくれる人間はいなくて、孤独を感じずにはいられなかった。だからせめてお前を孤独にはさせたくなくて、信頼のおけるベイリアルに頼んだ。なるべくお前の近くに息子を置いてくれるように。お前とクリスの仲は、言ってしまえば俺の計画通りだ』
酔っているのだろうか、そう思いつつも彼の言葉を遮る事も、ましてや酒を奪う事もできなかった。白い月光に照らされた彼の横顔が、あまりに苦しそうだったからだ。
――そんな顔を、する必要はないのに。
少しずつ執務を任せられるようになった頃、もうそれは聞かされている。たとえ計画通りだと彼が言おうと、親友と出会わせてくれた事に感謝していた。それも、既に伝えている。
だから今は何も言わずに聞くべきなのだろうと、グラスを手にしたまま、耳に馴染んだ静かな声音に耳を傾けた。
『だけどな、いくら王の俺でも計画通りにならない事がいくらでもあるんだ。もし全て計画通りに進んだなら、今頃彼女はお前の傍にいない。彼女の両親には忘れるように、忘れさせるように言ったんだから。だけど彼女は忘れるどころか、いつの間にか騎士になっていた。両親が王よりも娘を選んだ、たったそれだけで、俺の計画は狂う。でも、お前にとっては好都合だったんだろ?』
『……どういう意味でしょうか』
『お前は何も言わなかったが、彼女に会いたがっていたからな。俺も初めて知ったんだが、親はやっぱり子供のそういうところには敏感らしい。物欲の少ないお前が珍しく欲しがるものに、気付かないはずがないんだ』
クスクスと、楽しげに笑みが落ちる。
だというのに、彼はまるで懺悔でもするかのように、青白い月を見上げていた。
『彼女は強い女性だ。だけど同時に脆くもある。俺やベイリアルがどんな粗野な扱い方をしても壊れないだろうが、お前だけは違う。お前が触れ方を誤ってみろ、彼女は積木のように呆気なく壊れるぞ』
ぐいっと一気にグラスを煽った彼が、鋭い視線を向ける。
睨むようなその眼光に、ついほんの少しだけたじろいだ。
『俺達は彼女の運命を狂わせた自覚を持たなくちゃならない。お前はあともう一つ、彼女を守りきる責任があるという自覚だ。お前はそれが足りない』
『そう、言われても……』
『彼女の体なんか俺でも守れる。だけど、彼女の心はお前にしか守れない。彼女は既に一生をお前に捧げたんだ。お前も彼女に一生を捧げろ。その気も覚悟もないなら、今すぐ騎士団に送り返せ。じゃなきゃ、お前は彼女にとって毒だ』
少しもそらされる事のない瞳に、射抜かれる。
知らずグラスを握る手に力がこもった事を、彼は見抜いていただろう。
『心は厄介だ。上手く隠れる癖に確かにそこに存在していて、守ろうとして逆に傷つける事が山ほどある。どうすれば守れるかなんてわかりっこない。それでも守りたいと思うなら――覚悟を決めろ、アルフレッド』
強く、重たく、彼の声が胸に響く。
『――お前が、イヴを壊してしまわないように』
*
「アルフレッド?」
凛とした声が名前を呼ぶ。
ハッと我に返ったアルフレッドが顔を上げると、イヴがどこか不思議そうに首を傾げた。
「手が止まってるけど。それ、不味かった?」
それ、と彼女が指す手元の料理を見つめて、アルフレッドはいやと首を振った。
思わぬ雨に足止めを食らい、もう暗いので街の宿屋で一拍する事にした。もう既にその知らせは城に届いているだろうから、とりあえずお叱りを受ける事はないだろう。
冷えた体は本来なら湯船に浸かってゆっくり温めたかったのだが、頑固な側近を待たせる訳にもいかずシャワーのみで済ませると交代で入った彼女もやはりシャワーだけを浴びて出てきた。濡れた髪を気にした様子もない彼女に、当然アルフレッドが目のやり場に困った事はどうでもいい話である。
髪を乾かしている内に服もそこそこ乾いたので、二人で宿屋の中のレストランに赴き、遅い夕食をとっていた。
レストランというよりは食堂と言った方がしっくりきそうな賑やかな空間で、食事をとる手が止まっていれば誰でも不思議に思うだろう。
ついつい昔の事を思い出してしまっただけなのだが、イヴには料理が口に合わなかったように見えたのだろう。確かに城では上等なものばかりを食べさせてもらっているが、下町の食事が嫌いな訳ではない。作っている人それぞれの味があって、むしろ好きな方だ。
三年も傍にいれば彼女もそれを知っているだろうが、それでも苦手な食材が大量に入っていたりすると食欲も失せる。この料理もそれだと思ったらしい。
「美味しいよ。肉を焼くにしても、あそこじゃこうやって豪快に出てこないしな」
「ふうん。じゃあ、交換して。これ、少し苦手」
「は!?」
ひょいっとアルフレッドの前の皿を取り上げて、イヴは自分の前にあった皿を置いてしまう。アルフレッドが驚いて動けないのをいい事に、トレードを完了した彼女はさっさと彼の皿に手をつけてしまった。はしたないにも程がある。
「ん、美味しい。ありがとう」
「いやいや、美味しいってお前な……」
令嬢云々以前の話だろう。この場にベイリアル侯爵が居合わせようものなら、彼がイヴに抱いている優等生なイメージが音を立てて崩れるどころかもう爆発して木っ端微塵だ。反動でどれだけ怒り狂うかわからない。
額に手を当てて思わず溜息を吐くが、イヴに気にした様子はない。無表情で黙々と料理を食べ進める。
――また気を遣わせたか。
彼女がなんだかんだ自分に甘い事を、アルフレッドはよく知っている。アルフレッドと違い全く好き嫌いがないというイヴが、こんなふうに料理の交換を申し出るはずがないのだ。
ついつい苦笑を浮かべて、アルフレッドは改めてフォークを握る。
「それにしても、これじゃまるで間接キスだな」
一応心の片隅で気にしていた事を興味本位で口にすると、ぴたっとイヴが手を止めた。それから少しだけ眉を寄せて、アイスグリーンの瞳が睨むようにアルフレッドを見る。
「嫌なら全部私が食べるけど」
「お前、意外とよく食うもんな……」
その細い体のどこに入るんだか、と肩を竦めたアルフレッドに、イヴは再び手を動かし始めた。
「食える時に食っとけって、先輩に教わった。いつ暴れるかわからないから、窮屈にならない程度にたらふく食っとけって」
「暴れるって言い方があそこっぽいよな」
「団長がケヴィン兄様じゃ仕方ないでしょ」
呆れたように溜息を吐くイヴ。
イヴが三年前までいた騎士団は血の気が多いというか、精々一般人が想像するような騎士像とはかけ離れてしまっている。もちろん人目がある所では騎士然とした振る舞いをしているのだが、詰所はどこの賊かと思うほど賑やかで男臭い。
そんな場所に何年もいた事を考えれば、イヴの先程の行動もお淑やかなものである。何しろあそこでは交換など成り立たない。食べ物は基本的に奪い合いだ。弱肉強食が本気で成り立っているのが、あの騎士団なのである。
「イヴが筋骨隆々のむさ苦しい奴になってなくて本当によかった」
「エイルマーみたいな?」
「あんなのがずっと隣にいたら窒息しそうだ」
副団長を務める大男を思い浮かべ、アルフレッドは苦々しく吐き捨てた。
エイルマーはイヴ達よりも年上だが、入団が少々遅く、異例な程幼くして入団したイヴの後輩にあたる。実力主義の社会故に年齢や入団した早さに関係なく、階級で全てが決まる騎士団であるが、実際に平のイヴとエイルマーが手合わせをするとイヴが勝ってしまうというのは有名な話である。
イヴが重要な役職を与えられなかったのは、ひとえにケヴィンの過保護な独断によるもので、実力は団長のケヴィンに引けを取らない猛者だ。それをあの騎士団の者は皆知っているので、彼女がたとえ副団長を呼び捨てにしようと当然の事として受け入れている。
確かにイヴの家は皆文よりも武に秀で、長女のクレアも狩りなどを好んですると聞く。それでも騎士の一家に生まれた訳ではないのに女の身でここまで上り詰めたのは、彼女の才能もあるのだろうが、それを上回る努力の成果だろうと思う。
幼い頃の記憶だけで繋がった彼女が、三年前までどんな暮らしをしていたかなど詳しくは知らない。
だが、今こうして彼女が目の前にいる。その事実に感謝してしまうのは、いけない事だろうか。
「雨、上がってる」
すっかり完食し、レストランを後にしたイヴが不意に呟く。
彼女の視線を追うように、アルフレッドも窓の外を見た。
「この分なら明日は晴れそうだな」
「よかったね。侯爵が書類をたくさん置いてくれてると思うよ」
「そうだな……」
油断して帰還を遅らせようものなら、きつい説教と大量の書類のダブルパンチを食らう事になるのは既に経験済みである。
帰りたくない。しかし帰らなければもっときつい。
そんな事を考えて苦い顔をするアルフレッドを余所に、イヴは窓の外を見つめて眉を顰める。月明かりのない田舎町は薄暗く、見通しが悪い。
「アルフレッド、そろそろ寝よう。明日、早く出た方がいいでしょ」
イヴの言葉にアルフレッドがびくりを肩を震わせた。
遂に来てしまった。有耶無耶になってしまっていたが、結局どうやって寝るのかちゃんと話し合っていない。
そもそも話し合ってもいいのだろうか。ベッドは二つあるのだから、そんな事を気にしているなんて逆にいやらしく思われるのでは? それは非常に困る。
悶々と僅かに顔を赤らめつつ考えるアルフレッドに一瞥もくれず、イヴはさっさと部屋に向かって歩き出してしまう。
優秀な癖にこの側近は警戒心がまるでなくて困る。男所帯にいた所為か、それともそれだけアルフレッドを信用しているのか。そんな信頼ちっとも嬉しくない。
一旦は大人しく後についていき、イヴが部屋の扉を開いた所で、アルフレッドは意を決して口を開いた。
「なあ、イヴ。一応念の為に言うが、男女が同じ部屋で寝るのはまずいんじゃないか?」
「それ以前に主従関係では許されないだろうね」
「主従以前に男女だろ!?」
アルフレッドは入り口に突っ立ったまま、盛大に溜息を吐く。
彼女の目にはどうしても男として映らないらしい。それをまざまざと見せ付けられたような気分だ。
肩を落とす主人を見つめながら、イヴはどこか苛立ったように腕を組んだ。
「アルフレッドがこのベッドで寝るのは譲らないからね」
“この”が指すのは、部屋に並ぶベッドの内、扉により近い方だろう。
警備も万全な王城ならともかく、窓の傍で無防備な寝姿を晒す事は絶対に許さない。この側近はそう言っているのだ。
それをちゃんと理解しているアルフレッドは、仕方がないとばかりに頷く。
「それで、お前はそっちのベッドで寝るのか」
「アルフレッドが文句を言うなら、私はそこでもいいけど」
アイスグリーンの瞳がちらりと動く。その先には、こじんまりとした出窓があった。
「外で寝るのか!? 馬鹿かお前は!」
「ただの宿屋の廊下で寝る訳にはいかないでしょ」
「っ……あーくそっ!」
アルフレッドは苛立ち紛れに叫び、乱暴に頭をかいた。
最初からイヴの中では決定事項であり、決まった事に対してアルフレッドが何を言おうと変わらない。いつもそうだ。彼女が決めた選択肢を提示されるが、その中でイヴが最善と考えたものを選ばせるようになっている。
――どうしてこの猫はこうも懐かない!
主人の手を決して噛まない癖に、とても従順といえる態度ではない。一般的な貴族様なら怒り狂って即クビだ。
だがアルフレッドはお高くとまった貴族ではないし、従順な猫がほしい訳でもない。
ほしいのは昔から、たった一つだった。
「……わかったよ」
長い沈黙の後、アルフレッドがぼやく。
それを受けたイヴは呆れたように、けれど満足そうに表情を緩めた。
蕾が膨らむような、穏やかな笑みが好きだと思う。あの頃とは笑い方も変わってしまったけれど、それでも愛おしいと感じる気持ちは変わらない。
人は変わると彼女は言った。だが彼女の本質は少しも変わっていない。だから、アルフレッドは変わらず彼女を愛している。
「イヴ」
ベッドに腰かけて、そっと名前を呼ぶ。
剣を枕元に置いていたイヴが、不思議そうに振り向いた。誘うように手招きをすれば、訝る様子もなく歩み寄ってくる。
――無防備で、頑固な、可愛い俺の猫。
すぐ傍まで来たイヴに手を伸ばし、アルフレッドは軽々と彼女を抱き上げた。膝の上に横向きに乗せて、腰を抱く。
さすがに驚いたらしいイヴは目を丸くしたまま、固まったようにアルフレッドを見つめた。
「イヴ」
筋肉質で、しかし女性らしい柔らかさを残した小さな体を片手で抱き締め、白い頬を優しく撫でる。
ハッと、イヴが我に返ったのがわかった。ぱちぱちと瞬きをして、困ったように眉を寄せる。
「どうしたの、アルフレッド」
「イヴ、少しだけ、このままでいいか?」
アイスグリーンの瞳が大きく見開いた。それから一瞬泣き出しそうに揺れるのを見て、アルフレッドはつい息を飲む。
まずい、触れ方を誤った。
脳内で父の言葉が蘇り、慌てて離れようとすると、とん、と胸に小さな重みがぶつかる。その正体を理解した時、どくんっと強く心臓が跳ねた。
「イヴ……?」
アルフレッドの胸に頬を寄せたイヴは、何も言わず、ただ力を抜いて身を任せる。
許して、もらえたのだろうか。
恐る恐る彼女の体を包むように腕を回しても、イヴは何も言わない代わりに何もしなかった。
腕の中にすっぽりとおさまってしまった小さな彼女に愛しさが募り、胸が苦しくなる。それと同時に、力を入れすぎれば壊れてしまいそうで怖くなった。
胸の奥が熱くなるのを感じながら、アルフレッドはできる限り優しく大切な猫を抱き締めた。
2月12日 誤字訂正