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キティ  作者: 岸部碧
7/19

 セレス大陸の西にある王国・アイクレス。

 海を臨む都から離れ、のどかな田舎の風景の中を進む一行があった。

 馬の蹄が土を踏む音を響かせながら、ゆっくりとも早足ともつかない緩やかな速度で進む彼らの中、ふと一人の女が空を見上げて呟く。

「一雨きそうですね、殿下」

 女――イヴの声に、アルフレッドや他の二人の男も顔を上げた。

 昼過ぎまでは綺麗に晴れ渡っていたはずの空に、鉛色の雲がゆったりと流れてきている。見る限り、かなり大きそうだ。

 やれやれといった様子で溜息を吐き、アルフレッドは少し後ろからついてくるイヴに声をかけた。

「イヴ、急ぎの用件は?」

「特にありません」

「わかった。もしかしたら足止めを食うかもしれん。先に城に戻ってその旨を伝えてくれ」

 前を行く近衛兵の男にそう告げると、早馬に乗った彼は「はっ!」とキビキビ返事をして馬の腹を蹴った。

 一気に速度を上げどんどん遠ざかっていく彼を見送り、最後尾を行く騎士の男がおずおずと口を開く。

「あの……殿下、恐れながら、殿下もお急ぎになられた方がよいのでは?」

「そうだな」

 続く草原をぼんやりと見ながら答える王子の背に、騎士が困り果てた視線を送る。

 しかし当のアルフレッドは特に気にした様子もなく、ちらりと背後に目を向けた。

「いいんだよ、どうせ“折込済み”だ。そうだろ?」

 銀色の瞳が問いかけても、側近のイヴは何も答えず、それがこの場では肯定になるとわかっていてのあえて黙秘だ。

 それを受けて「な? 大丈夫だろ」と笑うアルフレッドに、初めて彼をこれほど間近で見た騎士は戸惑いながらも頷くしかなかった。


 とある砦の視察に行くよう国王から言い渡されたのは、昨日の事だった。

 王都から馬を走らせれば日帰りできる距離にあるその砦にアルフレッドが赴くのは初めてではなかったが、それ程重要な役割を果たしている訳でも、何か大きな問題が起きた訳でもない。ただアルフレッドの管轄下にある砦だったので、時々息抜きも兼ねて視察に行く事もあり、それを彼の父親も充分知っていたのだ。

 最近は訪れていなかったという事もあって、断る程の理由も特にない。何より、それをアルフレッドに伝えたイヴが表情には出さないもののかなり高圧的だった。

 総じて、少し散歩をしてこいという国王なりの計らいなのだろう。

 それ程自分が煮詰まっている自覚はないのだが、とアルフレッドはつい苦笑してしまう。

 それでも、少しは気分転換になるかもしれない。そう思ったのも事実だった。

 朝に城を出て、昼間は砦やその周辺の視察をきっちりとこなした。そして今年入ったばかりの新入り騎士を近くの街まで見送りに伴い、こうして帰城の路を進んでいるのだ。


 ぽつり、と手綱を握る手の甲に雫が触れる。

 日差しが遮り影を落とす雨雲から、ぽつぽつと雨が降ってきた。

「まずいな。お前、もういいから砦に戻れ」

 一旦馬を止めて、アルフレッドが騎士に言う。

「しかし……」

「街はすぐそこだ。もう充分だよ」

 渋る騎士にアルフレッドは笑って礼を告げた。

「お前は早く戻って先輩にしごかれろ。それで少しでも早く立派な騎士になれ」

「はっ……はい! どうか、イオーラまでお気をつけて!」

 屈託のない笑みに、若い騎士は精一杯返事をして馬を砦の方へ走らせた。

 国を支えるのはああいう人間なのだと、アルフレッドは思う。王族でも貴族でもない、国のために戦う騎士や資金をくれる国民、そういった人達が国を支えているのだ。自分達はそれを少し手助けしているだけ。

「アルフレッド、早く」

 イヴが急かす声に雨音が混ざる。これはいよいよ本降りになりそうだ。

 短く返事をして、アルフレッドはイヴと共に小さな街へと入った。


「部屋は空いてるか?」

 何度か寄った事のあるこの街には、三件の宿屋がある。

 その内の一つに入り、アルフレッドは雨に濡れた髪をかき上げながらカウンターの親父に声をかけた。

 雨が急に降り出した所為か、以前よりも人が多い。文字通り雨宿りの客が入ってきているのだろう。

 それでも幸いにもまだ空きはあるらしい。親父はどこかほくほくとした顔で頷いた。

「運がいいよお兄さん。最後の一部屋だ」

「最後? もう一部屋取れないのか?」

「連れがいるのかい? 悪いがもう一つしか空いてないよ」

 満室になって相当嬉しいのだろう。悪いという割りに親父はとても嬉しそうな顔をしている。

 その一方で、アルフレッドは苦い顔をしていた。

 ――まずいだろう、それは。

 だが今更他の宿屋に入ったところで、どこも似たような状況だろう。

 カウンターに肘をついたまま難しい顔をして考えていると、馬を預けていたイヴが入ってきた。アルフレッドの姿を見つけると、顔に張り付いた髪を耳にかけながら寄ってくる。

「何やってるの。部屋は取れた?」

「一応……?」

 何それ、とイヴは怪訝そうに眉を寄せる。

 そんな彼女を見て、親父は背後に置いてある棚からルームキーを取り出しながら歌うように言った。

「恋人なら同じ部屋でいいじゃないか、お兄さん」

「なっ! 違っ……」

「はいよ、鍵」

 大袈裟なくらいのアルフレッドの反応も、傍目から見ればただ見知らぬ人に恋仲をからかわれて照れているようにしか見えない。

 ご機嫌に差し出された鍵を受け取ったのは、やはり無表情のイヴだった。

 簡潔に礼を述べてカウンターから離れるイヴを、アルフレッドは慌てて追いかける。

「おい! ちょっと待てって!」

「いいからさっさとお風呂入って」

「何がいいんだ!?」

 鍵に刻まれた部屋番号を確認して廊下を突き進むイヴに、アルフレッドは頭を抱えたくなった。

 ――まずいだろう、これは!

 今までお忍びで遊びに出て宿屋に泊まった事もあったが、さすがに同じ部屋に寝泊りした事はない。幼い頃ですらなかった。

 普通なら側近が主人と同じ部屋で寝るなどけしからん事であるが、アルフレッド自身はそんな事は全く気にしない。むしろ女、いやイヴと同じ部屋で寝る事がけしからん。精神衛生上最悪だ。

 そんな事をアルフレッドがごちゃごちゃ考えている間に部屋まで辿り着いてしまったイヴは、彼を丸々無視して部屋に入る。

 突き当たりに出窓があり、忙しなく雨粒がガラスを叩いている。部屋にはベッドが二つと木製のキャビネットとクローゼットが備え付けられ、後は簡素なバスルームがあるだけだ。

 真っ先にバスルームに入ったイヴはタオルを一枚ひったくると、シャワーの蛇口を捻ってお湯を出した。

「さっさと入って。風邪ひくでしょ」

 バスルームから出ると、一連の動作を最早唖然と見守るしかできないでいたアルフレッドに声をかける。

 タオルを頭から被って、水を吸って重くなった上着に手をかけた。

 そこでハッとアルフレッドが我に返る。

「ちょっと待て! せめて先にお前が入れ!」

「主人をこのまま放置できる訳ないでしょ。どちみちどっちかが残ってなきゃいけないんだから、私に風邪ひかせたくなかったらさっさと入って」

 白いタオルの間から覗くアイスグリーンの瞳が、言い聞かせるようにアルフレッドを見つめる。

 こういう時、この関係が堪らなく嫌になる。そう言われればアルフレッドが何も言えないのを、彼女は理解しているのだ。

 強く歯を噛み締めて、アルフレッドはぐしゃりとタオルの上から彼女の頭を乱暴に撫でた。

「……悪い」


 苛立ったように吐き捨てられた言葉が、イヴの脳内で強く響く。

 すぐにバスルームへ消えた大きな背中を探すように、閉じられた扉を見つめた。中から聞こえる水音にしばらく聞き入って、ふと思い出したように上着を脱いでハンガーにかける。

 何故だか心の鎧まで脱ぎ捨てたように、胸が空っぽだ。

 剣をベッドの上に置いて、その傍に座り込んだ。部屋に響くのは、雨音とシャワーの音。

 ――どうして、怒るんだろう。

 イヴは冷えた体を慰めるように膝を抱え、ぼんやりと窓の外を見つめた。

 三年前に側近になってから、極偶にアルフレッドを怒らせる事がある。側近として当然の事をして、当然の事を言っているだけで、彼を怒らせてしまう時があるのだ。

 その場合、必ずといってアルフレッドが折れてくれる。中立の立場にいるクリスも、アルフレッドが意地を張っているだけだと、イヴが正しいと言ってくれる。

 今回もそうだ。イヴは何も間違った事はしていない。自信を持ってそう言える。彼も同じはずだ。今回も、彼が折れた。

 しかし、いつもイヴには何が彼の心をあそこまでかき乱すのかがわからない。

 人をからかったり飄々としたところのあるアルフレッドは、悪事でも働かない限りあまり怒る事はない。

 何故イヴの方が正しいとわかっていて意地を張ろうとするのか。納得できないまま、それでも自分を押さえ込んで謝るのは何故なのか。

 イヴは自分の手のひらを見つめる。

 皮膚が厚くなりかたいそれは、それでも何かを守るにはひどく頼りなくて、戒めるように強く握った。爪が皮膚に食い込む。

「……ごめんね、アル」

 掠れた声は誰にも届く事はなく、薄暗い部屋に溶けて消えていった。


  *


 ザアザアと耳障りな音がする。


「……何をしているんだ、お前は」

 降ってきた声に、クリスは目元に乗せていた腕をどけた。

 視界に入り込むのは、ソファにだらしなく寝そべる自分を怪訝そうに見下ろす父親だ。

「……親友を待ってるんですよ、父上」

「アルフレッド殿下なら、帰還が遅れると今連絡が入った。もう今日は戻らないかもしれんぞ」

「やはりそうですか。そうだろうと思いました」

 主人が不在の執務室にある机には、既に書類が山を作り始めている。

 その上に抱えていた書類を容赦なく乗せるベイリアル侯爵を見つめつつ、クリスはゆっくりとその身を起こした。

「父上、何故イヴの事を私に教えてくださらなかったのですか」

 問いかけるその声に責める色は一切なく、ただ疑問だけが浮かべられている。

 ベイリアル侯爵は見上げてくるキャラメルブラウンの瞳を一瞥し、僅かに嘆息した。

「……もう昔の事だ。幸いにも皆、イヴがいた事は知らん。知るのは陛下達、イヴ、イヴの家族、私、そして――アルフレッド殿下」

 雨粒が窓を叩く音ばかりが響く部屋に、侯爵の声はどこか重々しく落とされる。

「後は死んだり城を出たり……もう誰も残っていない。今更誰にも知らせない方が過ごしやすいだろうと、私と陛下が決めた。殿下はともかく、イヴにも不用意に口にするなと言った。それがお互いの為だと」

「だから私にも何も言わなかったと?」

「……今更言い訳などせん。昔の事だと、私達は過去にしようとした。だからお前には、長い間何も言わなかった。永遠にお前に何も教えないつもりだった……イヴが来るまでは」

 クリスが形のいい眉を僅かに寄せた。

 イヴが王城に来た最初のきっかけは誰でもない、ベイリアル侯爵だ。それはクリスも知っている。

 それなのにまるで望まなかったかのような言い方をする父親を訝るように見上げていると、彼はふっと口元に自嘲を浮かべて笑う。

「驚いたよ、騎士団でイヴを見た時は。てっきり全て忘れて、普通の令嬢として育っているものだと思っていた。そして剣を振るイヴを見て……私はようやく理解したんだ。このままでは、過去にすらならない――いや、過去にしてはいけないのだと」

 ベイリアル侯爵は、静かにクリスを見つめた。

 母親似の息子の瞳を見て、何故か胸があたたかくなった気がする。

「あのまま何も遂げられずに埋もれるように騎士団にいるよりはと、私はイヴを呼ぶよう陛下に進言した。最初から外野が口を出すべきではなかったんだ。二人にしか決着をつけられないというのに」

「それにも関わらず、今までよく偉そうに説教たれましたね」

 疲れたように笑う父親から早々に目を背け、クリスは再びソファに横たわった。柔らかいクッションを枕にして、天井をぼんやりと見つめる。

「こんな父親で呆れたか」

「まさか。元より私は父上を尊敬するような生真面目な人間じゃありませんので」

 鼻で軽く笑い、クリスはブラウンの瞳をベイリアル侯爵へと向けた。

「俺はただ、大切な親友を支える事ができればいい。その為に爵位を継ぎ、宰相になる。自分勝手なあんたの息子らしいだろ、親父殿」

 ニヒルな笑みを浮かべてみせれば、逆さまになった父親が僅かに面食らった顔をした。

 彼がそんな顔をするなんて珍しい。五年に一度、あるかないかだ。

 ついまじまじと見つめてしまっていると、ベイリアル侯爵が呆れたように溜息を吐く。

「全くだ。マイペースな母親に似たのだとばかり思っていたのに……とんだ愚息に育ってしまった」

「ざまあみろ。友人二人も振り回された恨みは深いですよ」

「友人が二人しかいないお前には悪い事をしたな」

 重々しい空気はいつの間にか消え失せ、執務室には冗談めかして笑う声と雨音だけが満ちる。

 すっかり肩の力が抜けた父親を見上げ、クリスはそっと息を吐いた。

「不本意ですが、親友の為に父上の尻拭いやってやりますよ」

「何か考えでもあるのか?」

「いえ、全く。なくてもなんとかするのが友人ってもんですからね」

 自分で言いながら、胸の奥にその言葉を刻み込む。

 心置きなく笑い合えて、言い合えて、喧嘩までできる人間をクリスは他に知らない。アルフレッドはもちろんの事、今となってはイヴも大切な友人である。

 ――あいつらの為に、俺が何かできるのか。

 いくら考えても思いつかない。思いつきそうにもない。

 それでも、このまま諦める事もできそうになかった。

2月12日 誤字訂正

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