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キティ  作者: 岸部碧
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 遠くの空を見つめると、名も知らぬ鳥が群れを成して飛ぶのが見えた。

 イヴは僅かに目を細めて、腰に下げた剣に触れる。決して軽くはないそれは、今まで切り捨てたものの重みのような気がして俯きそうになる。

 ――大丈夫。後悔じゃない。

 いくら胸が重くなろうとも、それが後悔でないならばよかった。罪悪感も何もかもを背負う覚悟はとっくにしている。

 気を取り直すように息を吐き、前を向くと、廊下の向こうから歩いてくる男が見えた。

 足を止めたイヴに男も気付いたのか、厳しい顔を少しだけ和らげて歩み寄ってくる。

「おはよう、イヴ」

「おはようございます、ベイリアル侯爵」

 静かに礼をとるイヴに、侯爵は満足げに頷いた。


 現宰相でもある彼はクリスの父というには少々強面であるが、優秀な男には違いない。

 三年前にイヴがアルフレッドの側近になるきっかけを作ったのは、他でもないこの男だった。国王のほとんど命令じみた言葉を受けてアルフレッドがイヴを呼び寄せたのだが、そもそも騎士団にイヴがいることを国王に知らせたのはベイリアル侯爵である。

 偶然彼が視察に訪れた時に騎士団長のケヴィンが世間話程度に話し、顔をあわせた。直接顔をあわせたのはその時が初めてだったが、ベイリアル侯爵はクリスと違い以前からイヴの事は聞いていたらしかった。

 彼が取り計らってくれたお陰で、今の自分がいる。イヴは心から感謝していた。


「近頃アルフレッド殿下が随分大人しいが、何かあったのか?」

 まどろっこしい事が一切ないのが彼のいい所だと思う。しかし、その件についてあまり尋ねられたくはなかった。

 何しろ、その原因は恐らく自分にあるのだから。

「先日、私の兄達にお会いしてらっしゃいました」

 できる限り表情を変えずにそれだけを答えると、ベイリアル侯爵はなんとなく察してくれたようだった。「そうか」と呟き、僅かに眉尻を下げる。

「お前の方は変わりないか?」

「はい。特に何も」

 彼はイヴの事も気にかけてくれる。たまに城内で擦れ違えばこうして足を止め、必ずといって変わりはないかと尋ねる。

 元々世話焼きな性質なのだろう。本来アルフレッドの面倒など仕事ではないのに、彼が何かやらかせば昔から父親のように叱り飛ばしていた。それは今でも同じだ。

 それならいいと頷く侯爵を見つめ、イヴはおもむろに口を開いた。

「一昨日、私の独断でクリス様にあの件をお話しました」

「クリスに……?」

「はい。いらぬ世話かとも思いましたが、何よりクリス様が知りたがっているご様子でしたので」

 ほんの少し、侯爵の表情が曇る。

「その事をアルフレッド殿下は?」

「ご存知ありません。クリス様にもお願いし、殿下の前では口にしないよう約束していただきました」

 淡々と告げ、イヴは「申し訳ありません」と頭を下げた。

 いくらクリスが知りたがったとはいえ、アルフレッドは知られたくなかったかもしれない。それをただの側近が勝手に漏らしたのだ。謝るべきはアルフレッドだとは思ったが、それはできなかった。

 深く頭を下げる彼女に、ベイリアル侯爵は緩く首を振る。

「いや、私に謝る必要はない。陛下達にもだ。それはお前と殿下の問題なのだから」

「ですが」

「お前が必要だと思ったんだろう。それならいい」

 イヴはゆっくりと顔をあげ、侯爵を見上げた。

 息子と同じキャラメル色の瞳を細め、彼は困ったように笑う。

「クリスは殿下を支えなくてはならない。だから私も教えるべきだとは思っていた。そもそもクリスに伝えるのは親である私の役目だ。それをまだ幼いからと先延ばしにし、完全にタイミングを見失った。……お前には辛い話をさせてしまったな」

 怒鳴りつける時とは全く違う、覇気のない声にイヴは見えないように拳を握った。短く揃えた爪が皮膚に突き立てられる。

「いえ、辛いのは私ではなく殿下ですから」

 押し込めた感情が滲み出ていないか、イヴは不安になった。

 感情を殺す事はすっかり得意になったはずなのに、彼の事になるとまだうまくいかない。そればかりか、彼の傍にいればいるほどボロが出そうになる。

 逃れるように目を伏せたイヴを見下ろし、ベイリアル侯爵は苦笑を浮かべた。

「……そうだな。わかった、陛下にも一応私から伝えておこう」

「はい。お願いします」

 再び頭を下げた彼女に声をかけようとして、しかし侯爵は口を閉ざす。そして簡単な別れの言葉を告げ、イヴは顔を上げたのを見届けてからその場を去った。

 暫くベイリアル侯爵の背を見つめていたイヴは、一度何かを振り切るように頭を振ると、もう一度廊下を歩き始める。

 ――こんな事で動揺しているようじゃまだまだだ。

 自身を落ち着かせるように息を吐き、執務室の扉をノックした。返答を聞く前に、ノブを回して開ける。

「失礼致します、殿下……」

 イヴは主人がいる机の方を見て、思わず不自然に言葉を切った。僅かに丸くなったアイスグリーンの瞳が見つめるのは、机に突っ伏す金にも見える茶色の頭――アルフレッドだ。

 特に声をかける事もなく歩み寄り、彼の顔を覗きこむ。閉じられた瞳と零れる寝息に、イヴはつい安堵してしまった。

 ろくに休憩もせずに執務に没頭するアルフレッドが、夜もあまり寝付けないでいるのはなんとなく知っていた。いくら側近といえども彼と一緒に寝れるはずはないのでこの目で見た訳ではないのだが、目の下にうっすらとできた隈が静かに教えてくれる。

 本来なら、仕事中に居眠りをする主人を叩き起こすのも側近の役目だろう。しかし、今のイヴにはとてもそんな事はできなかった。

 彼を追い詰めている自覚も罪悪感も、少なからずある。彼を悩ませているのは自分なのに、そんな事ができるはずがなかった。

 イヴは机に置かれた書類と時計をさっと確認し、これならしばらく昼寝をしていても大丈夫だろうと予測する。たとえ誰かが来たとしても、文官や武官の相手ならば側近で事足りる。

 屈めていた背をしゃんと伸ばし、室内を見回す。確か以前アルフレッドが居眠りをした時にかけてやったブランケットが置きっぱなしになっていたはずなのだが、見当たらない。いつの間にか洗濯に回してしまったのだろうか。しかしいくら春とはいえ、このままにしておくのは気が引ける。

 仕方ないと息を吐き、イヴは自分の服に手をかけた。

 主人が眠ってしまっている以上、不用意に傍を離れる訳にはいかない。いくら王城内であっても、完全に安全とは言い切れないのが現実だ。実際、警備の目をかいくぐって城を抜け出す王子が目の前にいるのだから。

 ブランケットほど役に立つとは思えないが、何もないよりはマシだろう。近衛兵団の証であるバッジがついた上着を脱ぐと、微かに呻くような声が聞こえた。視線を声の方へと向ければ、アルフレッドが身じろぐ。

「アルフレッド?」

「……んん……イヴ……?」

「うん。おはよう」

 枕代わりの腕に乗った頭が少し動き、僅かに開いた銀色の瞳がイヴを見上げた。

 掠れた声で呼ばれてイヴが返事を返せば、しばらくぼんやりと彼女を見つめていたアルフレッドが突然がばっと身を起こした。

 見る見るうちに頬が赤く染まっていく彼を見つめ、イヴはこてんと首を傾げる。

「おまっ……なんで脱いで……!」

「え? ああ、アルフレッドにかけようと思って」

 何を言うのかと思えば。そんな心持で、中途半端に肩から落ちた上着を見遣りあっけからんに答えた。

 すると彼はまじまじとイヴを見た後、額を押さえて盛大に溜息を吐く。立っていれば決して見えないつむじが、俯いたお陰で丸見えだ。

「まだ寝てても大丈夫だよ。私がちゃんと起こしてあげるから寝てなよ」

「いや……今ので目が覚めた」

 ふるりと眠気を払うように首を振り、アルフレッドは椅子に座りなおして机に転がった万年筆に手を伸ばす。しかし、横から伸びた白い手がひょいとそれを奪い去った。

 思わず追いかければ、眉を顰めたイヴが自分を見下ろしている。僅かしか表情が動かない彼女であるが、気に障った事はひしひしと感じ取れる。

 ――一昨日と同じ顔だ。

 引きずられるようにして兵士らが集う訓練場へ行った時の事を思い出し、アルフレッドが顔を引き攣らせるが、イヴはそんなものお構い無しに冷たく言い放った。

「アルフレッド、寝て」

 怒気さえ撒き散らす彼女の瞳が、しかし心配を滲ませているのに気付いて、アルフレッドは開きかけた口を閉じる。

 彼女に心配させるような行動をしているのは自分だ。体に負担がかかるような無理はしていないものの、それでもいつも通りではない事に彼女は敏感に反応して心を痛める。

 アルフレッドはそっと息を吐き、立ち上がった。

「わかった。大人しく寝るよ」

 頭をかきながらソファへと向かうアルフレッドを見つめ、イヴも取り上げていた万年筆を机に置く。そして脱ぎかけになっていた上着を今度こそ脱ぎ、ソファに横たわる主人の上にかけた。

 必要ないと思いつつも、ここで突き返せばまた機嫌を損ねかねない。つくづく厄介な猫だと心中で悪態をつきながら、アルフレッドは傍らに立つイヴを見上げた。

「……イヴ、歌を歌ってくれよ」

「は?」

「ほら、昔、子守唄を歌ってくれただろ?」

「ああ……」

 イヴは幼い頃の記憶が脳裏で勝手に再生されるのを、ぼんやりと眺める。

 木漏れ日の中、昼寝をすると言う幼い彼に、眠気が全くなかったので代わりに子守唄を歌った事があった。今となっては幼少期の、ほんの些細な事だ。まさかアルフレッドがそれを覚えているとは思わなかった。

「あの歌、やっぱり誰も知らないんだ。もう一度会ったら歌ってもらおうと思ってたのを、何故か今思い出した」

 眩しそうに目を細める彼を見下ろして、イヴはきゅうきゅうと胸が何かに締め付けられそうになるのを感じた。まるで自分との再会を彼が望んでいたようにも聞こえるその言葉に、必死に心中で首を振る。

 勘違いをしてはならない。自分がここにいるのは、他ならぬ自分自身のエゴなのだから。

 押し込めた感情を逃がすように、イヴは細く息を吐く。

「子守唄なんかなくても眠れるでしょ。ほら、早く目を閉じて」

「じゃあ頭撫でてくれよ。子守唄は諦めてやるから」

 頼んでいるくせに無駄に偉そうだ。そこはさすが王子様といったところか。

 見上げてくる瞳をじっと見つめ返し、イヴは渋々膝を床についた。最初から彼に逆らえるはずがないのだ。

 目線をあわせるようにソファの傍に屈み、柔らかい髪を撫でる。銀色の瞳がたおやかに細められるのを見て、胸が熱くなった。

「俺が眠るまで続けてくれ」

「うん。アルフレッド、おやすみ」

「おやすみ、イヴ」

 そっと瞼が下ろされて、少しして聞こえてくるのは等間隔に零される寝息。相変わらず寝つきはいい。

 穏やかな心地に笑みが浮かぶのを感じながら、イヴは惜しむようにしばらく彼の髪に触れていた。

2月12日 誤字訂正

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