4
午後の穏やかな日差しが差し込む窓を背にして、アルフレッドはおもむろに息を吐いた。
執務に一段落つき、そのタイミングを見計らってイヴが紅茶を淹れてくれる。
幼い頃から剣ばかり振っていたイヴである。紅茶の淹れ方など習っていなかったのだろう。三年前、側近になったばかりの頃はとんでもなく苦い紅茶が暫く出されていた。
それも今ではすっかりアルフレッド好みの紅茶を淹れられるようになり、今日も美味しい紅茶にアルフレッドは自然と笑みが浮かんだ。
「イヴ嬢、俺にもちょうだい」
「いるんだ」
「これでも一応、仕事を終わらせてから居座ってるんだけどなあ」
眉を下げて苦笑を零すのは、先程ふらりと執務室に現れたクリスだ。
溜息を吐きイヴがクリスにも紅茶を差し出すのを見つつ、アルフレッドはどこか不思議な心地だった。
イヴが来る前にも側近だった者は何人かいるが、誰も長続きしなかった。三年も続いているイヴは異例である。
だからこそ、こうして三人でいることが馴染んでしまっているのが不思議で、しかし心地好くもあった。
「アルフレッド、少しお願いがあるんだけど」
不意に、机の傍に立ったイヴが静かに言う。
彼女がお願いとは珍しい。カップを一度置いて見上げれば、アイスグリーンの瞳が一度躊躇うようにそらされるのがわかった。
いつの間にか表情が読み取り辛くなった幼馴染のその僅かな仕種を、アルフレッドが見逃すはずはない。
「なんだ?」
「午後、少し抜けてもいい?」
「別に構わんが……何かあったのか?」
いくら側近とはいえ、四六時中ぴったり傍に張り付くなどできる訳がない。それにも関わらず就寝時以外はほぼ傍に控えているよくできた側近が、少しくらい自分から離れてもいいだろうと思う。その用件にもよるが。
イヴに限ってアルフレッドが危惧するような用件はないだろうが、一応尋ねてみれば、彼女は何も答えずに懐から一通の手紙を取り出し、そっと机に置いた。自ら言うつもりはないらしい。
訝しみながらも内容に目を通したアルフレッドは、ぎょっとした。
「あいつらが来るのか!? 今日!?」
「今朝届いたんだから私に文句は言わないでよね」
何故早く知らせなかったのかと咎める視線を送れば、イヴはしれっとそう言い放つ。
確かにそうだろう。だが、少しは申し訳なさそうにしてもいいんじゃないか。
そんな理不尽な事を考えて、アルフレッドは盛大に溜息を吐いた。
「あいつらって?」
二人の様子を眺めていたクリスが、紅茶を飲みつつ首を傾げる。
その問いに、イヴは僅かに眉を寄せ、アルフレッドはあからさまにげんなりした顔を作った。
「……イヴの兄姉だよ」
*
「イヴー!!」
大きく手を広げ突進してくる男を見て、イヴはさっと横に避けた。
「ええっ!?」と残念そうに叫んだ男の腕が宙を掻き、それとほぼ同時に男の背後から迫っていた女がすかさずイヴを捕まえる。
見事な連係プレイの後に捕縛されたイヴは、ぎゅうぎゅうと嬉しそうに抱き締める女を見つめた。
「お久しぶりです、クレア姉様、ケヴィン兄様」
「ええ、久しぶりね。相変わらず私のイヴは可愛いわ」
「クレア! イヴはクレアだけのものじゃないだろ! ずるいんだよ代われ!!」
「お言葉ですが、私は姉様のものでも兄様のものでもありませんよ」
ひたすらに妹を抱き締める女と悔しそうに吠える男、そして冷静かつ淡々と受け答えをするイヴ。
その異様とも言える光景に戸惑いを見せているのは、この部屋の中でクリスただ一人だった。
「えっと……何事?」
イヴが少し抜けると言った時刻、ついでだとアルフレッドとクリスも同席し、適当に空いていた部屋でイヴと彼女の兄と姉が久方ぶりに顔をあわせている。
熱い抱擁を一方的に交わす男と女を見つめつつ、ソファに腰を下ろしたアルフレッドはさして驚いた様子もなく肘掛に肘をつき頬を支えた。
「お前は初めて見るのか? あっちがクレアでそっちがケヴィン、長女と次男だな」
「いや、一応知ってるさ。クレアは何度か同じパーティーにも出てたし、ケヴィンはちょうどイヴ嬢がいた騎士団の団長様だろう。イヴ嬢と話してるのを見た事もある。だけどこんなに熱い人達じゃなかったような……」
「人目があるからな。こんな姿を晒したら完全にイメージが潰れると自覚はしているらしい」
アルフレッドは思わず重々しく溜息を吐いた。
イヴには二人の兄と一人の姉がいる。
長女のクレアは身長が少し高めであるがドレスがよく映え、つりあがり気味の目元が少しきつめの印象を与えるもののその美貌を損なうことはなく、社交界の美しい花々の一つとして有名であった。しかし既に結婚しており、貴族では珍しく恋愛結婚だったこともあって幸せな結婚生活を送っている。
次男のケヴィンは若くして騎士団団長を務め、気さくな人柄で男にも女にも慕われている。そして、実質イヴに剣を教えたのは彼だった。若すぎた、むしろ幼いと言ってもいい年齢のイヴを騎士団に入れることができたのも、彼の存在と彼の腕があってこそと言っても過言ではない。
「――全く。クレア、ケヴィン、殿下とクリス様にご挨拶しなくては失礼だろう」
イヴに引っ付いて離れないクレアとケヴィンをたしなめる声が静かに響き、二人が渋々といった様子でイヴから離れる。
遅れて部屋に入ってきた男は悠然とアルフレッドの前に歩み出ると、丁寧に礼をとった。
「ご無沙汰しております、殿下。妹と弟の非礼をお許しください」
「気にするな。いつものことだろう」
ひらひらと手を振ったアルフレッドに、顔を上げた男は苦笑をみせる。
そして彼のグリーンの瞳が傍に立っていたクリスを見て、彼はクリスに向かって目礼した。
「クリス様も、ご無沙汰しております」
「ええ、確かあなたが爵位を継いでから、まだお会いしていませんでしたね。お変わりないようで何より」
にっこりとすっかり社交用の笑顔を装備したクリスに曖昧に笑う彼こそが、長男のルイスだ。容姿はそのままイヴを男にしたような美丈夫であり、昨年爵位を継いだばかりの伯爵である。もう随分といい歳だが未婚で、人気はあるのに女の影もない為に実は男色なのではと密かに囁かれたりしている。
「それで、今日はどうして?」
見事に兄姉が揃ったところで、イヴがおもむろにルイスに問いかけた。
領地で仕事に追われる兄、片田舎でほのぼの暮らす姉、距離は遠くないがやはり忙しい二番目の兄。時々気まぐれに王城にやってくることはままあるのだが、彼らが全員揃うというのは滅多にない。
手紙には今日来るということしか書かれておらず、わざわざ三人が出向くような事態があったという話も聞いていない。
「もちろん、イヴに会う為よ!」
ぎゅっと手を握ったクレアが、どこか憤慨した様子で答える。
「イヴったら手紙を寄越しても素気ない返事しかしないし、ケヴィンに聞いても全然話を聞かないって言うじゃない! 妹に相手もされない騎士団長なんて! ああ、情けない!」
「なんで途中から俺が責められてるんだよ!」
再び騒がしくなった姉と兄に挟まれたイヴはやはり無表情だが、興味なさげにただ聞き流していた。
そんな呆れた妹と弟のやり取りに、ルイスが見かねたように二度手を叩く。
途端にぴた、と大人しくなるクレアとケヴィンはまるで調教された犬だとクリスは思った。
「クレア、ケヴィン、言いたいことは山ほどあるだろうが一度に言ってもイヴもわからないだろう」
「……はい、兄様」
渋々といったクレアの返事と不服そうなケヴィンを一瞥し、ルイスの視線がイヴに向けられる。
イヴは元々、他の兄姉に比べ遅れてできた子供だった。最年長のルイスとは二十歳近く歳が離れている。
そんな妹の腰に下がった剣をちらりと見遣ると、ルイスは僅かに溜息を零した。
「イヴ、まずは手紙の件についてだが、何故約束通り送らないのか聞かせてもらおうか」
「私はちゃんと、ルイス兄様にもクレア姉様にもケヴィン兄様にも送っています」
「ああ、確かに毎月送られてくるさ、三人とも一字一句違わぬ内容で!」
毎月三人分も同じ内容の手紙を書いているとは驚きの新事実だ、とクリスは傍観を決め込みながら感心する。
もし自分が実家を出ても送る相手は父親か母親くらいだが、それでも毎月は送らないだろう。まめ、あるいは律儀とでも言うべきか。
そう一人心中で頷いていたクリスだったが、何故か兄姉三人の表情がとても晴れ晴れしいものではないことに気付いた。
つい首を傾げた時、ルイスは嘆かわしいと言わんばかりに目元を手で押さえた。
「君が騎士団に入る為家を出る時、ひいては側近として王城に上がった時、手紙は毎週欠かさず書きなさいと言ったはずだろう!」
「お言葉ですが兄様、最初から私はそれに同意していません。渋々毎月に譲歩する件に関しては、三年前にケヴィン兄様にお願いし、了承してもらっています」
「いやいや、イヴ、あれは脅迫って言うんだぞ。兄の喉下に剣を突きつけるお願いなんて、俺教えた覚えないんだけど」
至極真面目な顔で腕を組み頷くケヴィンは、つい三年前の決闘を思い出す。あれは酷い騙まし討ちを食らった。可愛い可愛い妹に剣を向けるなんて、できるはずがなかったのだ。
「いや、この際そんな事はどうでもいい」
苦い思い出に思いをはせる弟を丸々無視し、ルイスはイヴをじっと見下ろし尚も言い募った。
「何故、三人とも同じ内容なのか、そこが一番気に食わない。腹の読めない爺がうろつく王城で困った事や心配事もあっただろうに、何故頼れる兄様に相談しない! 年頃の女性特有の相談事をクレアへの手紙に少しくらい書いてもいいだろう! いやむしろ全部私に言ってくれればいいのに! 何故『生きています。怪我もしていません』の二文を毎月読まなくちゃならないんだ!!」
悲痛なルイスの叫びに、クリスは思わず白目を剥きそうになるのをなんとか堪えた。
――この人、こんな強烈な人だったかな……。
しかし同時に悟る。彼は妹が可愛すぎて他の女性が目に入らないタイプだ、と。男色どうのの以前に、強烈なシスコンなのだ。
社交界の花形のとんでもない本性に、人間は恐ろしいなとしみじみしていると、何も言わないイヴの手をルイスが大切そうに握る。
「そもそも、騎士になるのだって反対だったんだ。じゃじゃ馬なクレアと違って君は大人しくて素直で愛らしくて、剣なんかなくても充分生きていけた。そもそもあの頃の君は、剣術にさして興味を持っていなかったはずなのに……」
女性らしい細く白い手は、淑女のものと言うには肉刺などでかたくなり、少々武骨だ。
それを見て悲しそうに揺れるアイスグリーンの瞳を、イヴはただじっと見つめていた。
「今からでも遅くはない。こんな危険なことはやめるんだ。普通の貴族の娘として……」
「ルイス兄様は、本当にそれが可能だとお思いですか」
淡々と発せられた言葉に、僅かにルイスが目を見開く。
イヴはするりと手を引き抜き、兄を見上げた。
「ワルツも踊れない、令嬢としての教育を受けなかった私が今更令嬢として生きることができると、本気で考えているのですか」
「教育など、今から努力すればいくらでも……」
「兄様、何度も言いましたが、私は令嬢の道を捨てました。後悔はない。今進む道以外は必要ありません」
強く、はっきりと告げられ、ルイスは押し黙る。こちらを見据える瞳には彼女の意志が輝いている。
それでも言い募ろうと口を開くと、それを遮るようにイヴが腰に下げた剣に触れ、僅かに音を鳴らした。
「私は、アルフレッド殿下の側近です。それ以外の何者でもありません。……私の道の障害になりえるのなら、私は次は家を――兄様たちを捨てます」
ルイスは思わず唾を飲んだ。本気だと、その瞳が静かに告げていたからだ。
静まり返った部屋の中、これ以上何も言うことはないとイヴは一礼し、振り返ることもなくその場を立ち去った。
残されたルイスは、呆然と閉められた扉を見つめる。
「あーあ、兄様がまたイヴを怒らせた」
「剣のことはイヴの地雷なんだから、いい加減諦めろよ兄貴」
呆れたと言わんばかりの妹と弟の言葉は届いているのかいないのか、立ち尽くすルイスの背中は完全に娘を嫁にやった父親のそれだった。
妹を溺愛してやまない兄の姿に溜息を吐き、クレアは何も言わず成り行きを見ていたアルフレッドを見遣る。
「殿下、無礼を承知で申し上げますが、あんまりもたついていますと私が勝手にあの子の縁談を進めてしまいますわよ」
「っはあ!?」
素っ頓狂な声を上げて立ち上がったアルフレッドは顔を青くしてクレアを見るが、返ってくるのは先程兄に向けていたのと似た眼差し。
口元を扇で隠し、クレアはまだ復活する気配のない兄と弟を一瞥し溜息を吐くと、再びアルフレッドを見つめた。
「私は可愛いイヴが幸せになれるのなら、たとえヘタレ王子でも文句はありませんわ。イヴが幸せになれるのなら」
「クレア、ヘタレは言いすぎだろ。殿下はきっとちょっと奥手なんだよ、うん」
「フォローになってないぞケヴィン……」
唸るようにそう言い捨て、アルフレッドは手のひらで口を覆って肩を震わせるクリスを強く睨みつける。
クリスは「おっと」と慌てて姿勢を正したが、笑いを完全に殺せてはいない。
失礼な幼馴染は無視することにして視線をクレアに戻せば、彼女は特に興味もなさそうにルイスを見遣った。
「兄様はどうせ嫁になんかやるかと大騒ぎするでしょうけど、私とケヴィンはイヴの結婚には積極的ですの。縁談がない訳ではありませんし、特に問題のない男を薦めればあの子のことだから了承するでしょう」
「あいつは殿下の側近……ひいては、騎士でさえいられればそれでいいと考えてるんですよ。仕事を続けられるなら、私達の言うことはほぼ間違いなく聞く。この意味、おわかりですか?」
へらりと笑みを浮かべるケヴィンだが、その目は決して笑っていない。
「まあ、わからなければそれまでって事で。イヴも行っちゃいましたし、今日はもう兄貴つれて帰りますね」
「貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
未だ遠くの世界へ旅立ったまま帰ってこないルイスの首根を掴み、ずりずりと引きずるケヴィンとクレアが連れ立って部屋を出て行く。
静かに扉が閉まり、アルフレッドは溜まらず深く息を吐き出した。ソファにどかりと座り、強張った体から力を抜く。
「あいつらは俺を脅しに来たのか……?」
「……そうか? 俺にはむしろアドバイスにも聞こえたけど」
頭を抱えるアルフレッドの隣に腰を下ろし、クリスは彼らが出て行った扉を見つめた。
「二人はあんなに、イヴ嬢にとって剣や仕事が大事だと主張した。実際、家を捨てるとまで言ったんだから相当大事なんだろう。それってつまり、イヴ嬢にとってお前がそれだけ大切だって意味なんじゃないか?」
「それは知ってる。昔は俺をよく慕ってくれたし、今だって俺を大切にしてくれてるさ。だけどそれはただの忠誠心だ。あいつは国や国王に忠誠を誓ったんだ、王子の俺にも忠誠を誓ったことになる。ただ、それだけだ」
「そうじゃないって。俺は知らないが、イヴ嬢は元々剣に興味がなかったと伯爵も言ったじゃないか。何が彼女を剣に、仕事にこだわらせる? お前がその理由なんじゃないのか?」
思わず顔を上げたアルフレッドは眉を寄せ、困惑や焦りを滲ませた瞳でクリスを見つめる。
「クリス、お前……」
「言っただろ、俺は知らない。でも、お前は知ってるんだろ?」
クリスは扉から彼へと視線を移し、ただじっと銀色の瞳を見つめ返した。
「お前とイヴ嬢の間に、何があったんだ?」
2月12日 誤字訂正