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五大陸の一つ、セレス大陸の西にある王国・アイクレス。
海を臨む都を展望する王城・イオーラにも白く日が差し込み、小さくさえずる小鳥が爽やかな朝の訪れを告げていた。
そんな中、僅かに木漏れ日が降り注ぐ廊下を歩く女が一人。
短く整えられた薄い金髪は、朝日に透けると白く輝いて見えた。
姿勢もよく歩く姿はまさに凛としていて、擦れ違う衛兵達が皆朗らかに笑みを浮かべて彼女に声をかける。
「おはようございます、イヴ殿!」
「おはよう」
表情を変えず挨拶を交わした女――イヴは、そのままスタスタと立ち去っていく。
そんな彼女の背を見送り、一人の衛兵がほうっと息を吐いた。
「今日も素晴らしいクールさ……! かっこいいなあイヴ殿。ほんと憧れるよ」
「あのクールビューティーがお前なんか相手にする訳ないだろ」
「べっ、別にそういう意味じゃ……!」
はいはいとあしらう同僚に何かを言い募る衛兵の言葉も、イヴの耳には届いていない。
余所見すらせずに目的地まで歩いていけば、近付くにつれ目指していた扉から騒々しい声が漏れてくるのが聞こえた。イヴはつい眉を寄せる。
朝からこの執務室で騒ぐ人物には心当たりがあった。まず間違いなく彼が訪れているのだろう。
思わず溜息を吐きながら、イヴはとりあえずノックをした後にその扉を開いた。
「失礼致しま……」
「――あっははははは!」
イヴの声を掻き消した、大きな笑い声。
イヴは再び眉を寄せ、ソファに座って腹を抱えている男を見る。
少し長めのキャラメルブラウンの髪に同じ色の瞳を持つ男は、やはり予想していた人物で間違いない。
うっすらと涙を浮かべてすらいる男もイヴの冷めた視線に気付き、ひらりと手を振った。
「おはよう、イヴ嬢」
「……おはようございます、クリス様」
クリスと呼ばれた彼は無表情で頭を下げたイヴに、それでもどこか満足げに笑みを浮かべる。
彼の名はクリス・ベイリアル。ほぼ世襲的に宰相を務めるベイリアル侯爵家の跡取りだ。
次期侯爵、そして次期宰相としてよく城を訪れている彼は、今回はたいした用事もなく遊びに来たのだろう。
そんな事を考えるイヴを知ってか知らずか、クリスは頭を上げたイヴを楽しそうに見上げた。
「聞いたよ、昨日また城下で立ち回ったんだって? 捕らえたのは最近人攫いをしていた連中だっていうし、お手柄だったね」
「……」
「あれ、無視?」
一切の反応がないイヴにクリスが困ったというように首を傾げるが、実際その表情が困ったものではないことなど一目瞭然だ。
クリスは肩を竦め、ちらりと執務机に頬杖をついている男を見遣った。
「なあ、アル。イヴ嬢がなかなか懐いてくれないんだけど、どうしたらいいと思う?」
「その呼び方がまずいんじゃないか?」
呆れたように瞳を細めた男――アルフレッドは、頬杖をついていない右手でくるりと万年筆を回す。
彼こそがこの執務室の主、もっと言えば、このアイクレス王国の王子である。
次期国王と次期宰相ということで幼い頃から親しんできた二人は、こうして互いに砕けた口調で話し、息抜きと称してアルフレッドが城を抜け出す際には大抵クリスも同行している。当然のように仕事はできるが、そういった面では周囲の人間を困らせる問題児だった。
アルフレッドは手元で万年筆を弄びながら、銀色の瞳をクリスに向けた。
「それでクリス、お前はいつまでここにいるつもりだ?」
「おいおい、酷いなあ。お前が説教されて落ち込んでないか見に来てやったんだろ。親父殿の説教はうるさい上に長ったらしいからな」
「やかましい! それを笑いのタネにしにきただけだろうが!」
芝居がかった動きで肩を竦めたクリスに、アルフレッドが強く机を叩く。
昨日、黙々と執務をこなしていたアルフレッドが唐突に席を立ったのは昼過ぎの事だった。
少し出ると言い残してアルフレッドが城を抜け出すのは最早日常であり、それに対しはいそうですかと見送る事ができる訳がないとイヴが同行するのも日常だ。
最初の頃アルフレッドはイヴをまこうと城内の様々な所を逃げ回っていたのだが、まけたと思ってもいつの間にやら追いつかれ、いつしか諦めて最初から伴うようになっていた。
そうして昨日も二人でアルフレッドの気が向くままに街に出たのだが、そこで一人の少女と出会った。
田舎から出てきたという彼女はおのぼりさんという雰囲気を隠しきれず、率直に言えば悪人のカモにされそうな少女だった。
働き手を募集している花屋を紹介し日中は別れたのだが、案の定、少女は暗くなり人通りの少ない道で男数人に囲まれており、仕方なくアルフレッドとイヴは剣を抜いたのだ。
そうこうしている内に昔から息子と王子の脱走癖に悩まされているベイリアル侯爵が騒ぎを聞きつけ、城に戻るなりアルフレッドに説教をかましたのだった。
「ベイリアル侯はそろそろ本当に血管が切れるぞ」
昨晩の説教を思い出して、アルフレッドはげんなりする。
それに対して愉快そうに笑うのは、実の息子であるクリスだ。
「そう言ったって、大人しく城に引きこもるつもりはないんだろ?」
「まあな」
親友というよりは悪友という方がしっくりきそうだ。
常々思っていることを飽きもせずに考え、イヴは溜息を吐いた。そうしてアルフレッドの机に近付き、持っていた書類をそっと置く。
「アルフレッド殿下、各領地からの報告書です。明日の午後までに全て目を通していただけますか」
「ああ、わかった……が、その堅苦しい態度やめろ」
更に眉を寄せて嫌そうにするアルフレッドを、イヴの冷め切った視線が見下ろした。
「俺とクリスしかいないんだ。構わないだろ。幼馴染二人にそんな態度をとられるとよけい窮屈だ」
「私はクリス様とは側近になって初めて顔をあわせましたので幼馴染ではありません。そもそも、殿下とも幼馴染であるつもりはありません」
「イヴ嬢、あんたも頑固だけどアルも頑固だから。俺といる時くらいいいんじゃない?」
アルフレッドとイヴが睨み合うように互いを見つめ、硬直状態に入ろうとした時、クリスが面倒臭そうに言う。しかしすぐさまイヴの睨みが飛び、「おっと」と昨晩の父親のように口をつぐんだ。
アルフレッドが頑固であることなどとっくに知っている。そして、彼が城での暮らしを窮屈に感じていることも。
イヴは暫く銀色の瞳を睨み見据え、諦めたように溜息を吐いた。
「……私はアルフレッドの幼馴染じゃない」
「アルって呼べって。小さい頃から知ってんだから、幼馴染でいいだろ」
「それは旧知の仲って言うんだよ、アルフレッド」
これ以上は譲らないとばかりに、イヴは決して愛称を呼ばない。
不機嫌そうに眉を寄せるアルフレッドと、その視線を丸々無視して冷ややかに主を見るイヴ。
見慣れた光景を眺めながら、クリスは人知れず苦笑を零した。
「正真正銘お前の幼馴染である俺がイヴ嬢をつい三年前まで見たことがなかった訳だし、ちょっと幼馴染って言うのはしんどいかもな。なあ、イヴ嬢?」
「……」
「ふむ、加勢しても無視か」
「そういう奴だ、諦めろ」
学習したとばかりに腕を組み頷くクリスを横目に、アルフレッドは頬杖をつきなおす。仕事に戻ろうとするイヴを見つめ、ぽつりと呟いた。
「本当に、いつの間にそんなふうになったんだろうな」
ぴた、とイヴが動きを止めた。ゆっくりと振り向いたイヴは、無表情を貼り付けてアルフレッドをしっかりと見つめる。
「人は変わるんだよ」
「少なくとも、お前の本質は変わってないと思うんだがな」
「だからここにいるんでしょ」
もうそれ以上は何も言うことはないとアルフレッドに背を向け、イヴは執務室を出た。
静かに閉められた扉を見つめ、アルフレッドはどこか苦々しい表情を浮かべている。
「二人の矛盾する供述について、やはり俺は問い詰めるべきだろうか?」
「……俺は嘘は言ってない。だが、あいつの方がきっと正論なんだろ」
イヴが置いていった書類を手に取り、深く溜息を吐く。
そんな幼馴染を見ながら、クリスが思い浮かべるのはあの凛とした背中だった。
何かと手のかかるアルフレッドの側近としてイヴがこの城にやってきたのは、今から三年前に遡る。都の北にある騎士団から、国王の言葉を受けアルフレッドが渋々呼び寄せたという話だった。
当時、イヴは十六歳の子供、しかも女とあって、重鎮達は揃って考え直すべきだと進言した。重鎮でなくとも、城にいる者達は戸惑いや不安を隠しきれていなかった。かくいうクリスもその一人だ。
この国では他国と比べて女の身で騎士になっても外聞が悪くなったりするようなこともなく、騎士団の中でも高い位にまでのぼりつめる女傑もいることにはいる。
しかし、なにぶんイヴは若すぎた。歳が近い方がアルフレッドとも付き合いやすいだろうことは否定しないが、本来の『主人を守る』という役目が全うできるのかと訝らずにはいられなかった。
当然城内の空気は悪くなり、イヴが来てから一月後、面倒だと思ったのかアルフレッドがイヴに試合の許可を出した。
当然、それを聞いた者は驚いた。渋々呼び寄せたくらいなのだから、アルフレッドも彼女の腕を信用している訳ではないのだろうと踏んでいたからだ。
もしや手っ取り早く追い払いたいのではとすら囁かれる中、衛兵や腕に自信がある者を集めて試合が行われた。
絶対に勝てる自信がある者はというアルフレッドの問いに名乗りをあげた者、計十一名。まずその者達で試合を行い、最終的に勝ち残った衛兵がイヴの相手をすることになった。
適当に指名されたのではなく、こうして事実上最も強いと証明された男を相手にするのだ。最早勝負は決まったも同然だ。
誰もがそう考え、そして彼らの予想通りあっという間にその勝敗は決まった。ただし、勝利を手にしたのは彼らの予想とは違い、イヴだった。
その試合を見守っていた野次馬の顔といったら、それを思い出すだけでクリスは笑い転げることができた。
それ以降誰もがイヴを侮ることをやめ、むしろ尊敬する者まであらわれ、現在もこうして側近としてアルフレッドに仕えている。
「イヴ嬢が駄目なら、なんて呼べばいいんだろうな?」
「普通にイヴでいいんじゃないか」
だいぶ冷めてしまった紅茶に口をつけながら問いかけると、アルフレッドが書類をぱらぱらめくりながらぶっきらぼうに答えた。
「あいつの場合、貴族でも無視されるってことはそれだけ心開いてる気もするが、よくわからん」
「まあ、ただの側近が俺を無視なんかできないよな」
「そもそも、あんなに華麗にスルーするような奴じゃなかったと思うんだがな……」
僅かに眉を寄せて、考え込むように呟く。
クリスは不思議そうに首を傾げた。
「そういえば、お前の中のイヴ嬢ってどんなのか聞いたことないな」
「聞かれても教えん」
「ええ? 別にいいだろ、俺とお前の仲なんだし」
嫌にキッパリと拒否するアルフレッドに、ついつい笑ってしまう。
すると怪訝そうにアルフレッドが書類からクリスに視線を移し、なんだと問いかけた。
「いや、ほんとにイヴ嬢が好きだよなーっと思って」
ぐしゃっと、握りつぶされた書類が悲鳴を上げた。
目を見開いたアルフレッドは沸騰したのかと思うほど顔を真っ赤にして、わなわなと震えている。
「な、なな……っ」
「だってそうだろ? ただでさえ麗しのイヴ嬢は人気があるし、イヴ嬢を独占したいって思ってるからそうやって嫌がる」
「っ……否定、はしない。が、絶対お前なんかに教えてやるか!」
「はいはい、初心で大変結構なことですな殿下」
あっはっはっは、とわざとらしく笑うクリスをきつく睨みつけるが、この男にそんなものが通用しないことはよく理解している。分が悪いと判断し、アルフレッドはふいっと顔を背けた。
「昔のあいつを知りたいなら、あいつの親や兄姉に聞けばいいだろ」
「それじゃ面白くない」
「面白くないってお前な……」
未だ赤らんだままの顔に向かって手で仰ぐアルフレッドに、クリスはニヤニヤと意地悪そうに笑う。
「伯爵家の末っ子として可愛がられただろうイヴ嬢にも興味はあるけど、俺が一番知りたいのはお前が大切にしているイヴという女性だからな」
「お前はつくづくお節介な奴だな」
「大事な幼馴染限定だよ」
飄々と答えるクリスを見据え、アルフレッドは溜息を吐いた。
そんなに言うなら教えてやる、と言わんばかりの挑戦的な瞳に、クリスは思わず笑みを引っ込めた。
「――イヴは昔も今も、俺の可愛い猫だよ」
きょとん、とグレイの瞳が丸くなる。
アルフレッドは早々にクリスを視界から外し、再び書類に目を通し始めた。
「それ以上は何も言わん」
「ええー、それはないだろ」
「お前も暇じゃないんだからさっさと行け」
侯爵に言いつけるぞ、とあしらわれ、クリスは渋々執務室を出た。いくら子供の頃から慣れていても、説教されずに済むならそれにこしたことはない。
つい溜息を吐いて歩き出すと、廊下の向こうからこちらに向かってくるイヴが見えた。
新しい書類を持った彼女はクリスに気付き、静かに目礼する。
クリスは苦笑した。
「……猫なら、なかなか懐いてくれなくても仕方ないか」
怪訝そうに眉を寄せたイヴが、その言葉の意味を知る日は恐らく来ない。
2月12日 誤字訂正