18
「アルフレッド、お前を一月謹慎処分とする」
アルフレッドが国王にそう告げられたのは、明くる朝の事だった。
わざわざ執務室に呼び出すところが公私混同を嫌う彼らしい。傍にはベイリアル侯爵も立っている。
アルフレッドは何も反論する事なく、静かに頷いた。
「お前は王族である事をもう少し自覚し、部屋で大人しく授業を受けながら反省しなさい」
「はい。……あの、陛下」
「なんだ?」
書類から顔を上げた父の瞳を見て、アルフレッドは開きかけた口を噤んだ。尋ねようとした問いを飲み込む。尋ねずとも、わかってしまったからだ。
――いなかった事にするのか。
昨晩共にいたあの少女の存在をなかった事に。それが父の、この国の王の決定だった。
苦い想いが胸に広がるのを感じながら、アルフレッドは僅かに俯く。
「……いえ、なんでもありません」
震えないように平静を装って搾り出した声は、思っていたよりも低いものになってしまった。
きっとそれに気付いただろうに、国王は何も言わずに退室の許可を出す。アルフレッドは一礼してから執務室を出た。
足早に自室へと向かいながら、強く拳を握り締める。もうこの城にはいない彼女の事ばかりが頭に浮かんだ。
昨晩衛兵につれられて城の中へ戻った頃から、彼女を見ていない。アルフレッドも彼女も家族や周囲の人に取り囲まれ、あれよあれよという間に引き離されてしまった。
――もしかしたら、王都にさえいないかもしれない。
そう考えると胸が痛かった。
彼女は人を斬った。たとえそれが正当防衛であろうと、夜の王城内を勝手に徘徊していたのだから自業自得と言われればそうである。その上斬った相手が命を落としてしまったのだから、伯爵令嬢としては好ましくない噂が生まれ、纏わりつく事になるだろう。
彼女はまだ、一人の令嬢としての夢を叶えられていない。デビューさえしていない内から悪評が立つ事は避けるべきだ。
国王の真意はそれだけではないかもしれなかったが、アルフレッドはそれが最善だろうと思えた。
「イヴ……」
大きな窓に切り取られた青空を見上げる。レイフも、イヴも、数少ない心許せる人が二人もいなくなってしまった。
アルフレッドはふとポケットに手をやり、中から薄汚れた青いリボンを取り出した。今朝、近衛騎士の男が届けてくれたのだ。
こみ上げる熱を堪え、唇を噛む。彼女が存在した事を確かめるように、リボンを強く握り締めた。
*
「ケヴィン兄様、騎士団の方はいいの?」
揺れる馬車に身を任せ、物憂げに窓の外を眺めていたイヴは、溜息を吐きながら隣を振り返った。
隣には、騎士団の制服を着たままのケヴィンがむっつりとした顔で座っている。
「いーんだよ、イヴを一人で帰らせる訳にはいかない。親父が抜けられない以上、俺が同行するしかないだろ」
そんな理由で副団長が抜けていいのかと思うのだが、ケヴィンに引く様子は見られなかった。そればかりか彼にしては珍しく憤慨した様子で、ずっと腕を組んで貧乏揺すりをしている。
「くそ、インズの奴ら……イヴに傷をつけやがって。跡が残ったら許さねえ、いや残らなくても許さない」
「兄様。私のこの怪我は“転んで”ついたんでしょう?」
咎めるようなアイスグリーンの瞳に、ケヴィンはぐっと押し黙り、ますます顔を顰めた。
頬に白いガーゼを貼ったイヴは、そんな彼の様子に溜息を吐いた。
「それに、インズの人達はすぐにでも極刑になる。王族を襲ったんだから」
「イヴ! それはお前だって……!」
「ケヴィン兄様。私はインズ家とは面識も何もない。そうでしょう」
そう強く念を押すように言って、苦虫を噛み潰したような顔をする兄から視線をそらした。流れる窓の外の景色を見つめて、イヴは王都で別れた父の言葉を思い出す。
『昨晩の件は忘れなさい。それが陛下のご命令だ。大丈夫だよ、何も案ずる事はない。陛下も、お前の事を守ってくださると仰った』
安心させるように微笑む父に、心の中で何度も首を振る。
――違う。違うよ、父様。
守られるべきは私じゃなくて、アルなんだよ。
「……ねえ、ケヴィン兄様」
窓の外を眺めながら、呟くように兄を呼んだ。
ケヴィンは未だ腹の虫が収まらないらしく、「なんだよ」と素気ない返事が返ってくる。
「私、騎士になりたい。兄様の騎士団に入れない?」
「っはあ!? イヴ、お前なんて?」
「だから、騎士になりたいの」
嘘だろ、とケヴィンがぼやくのが聞こえた。驚くのも無理はない。イヴが剣術を好んでいない事は、彼が一番よく知っている。
「なんで突然……まさか、責任でも感じてるんじゃないだろうな?」
「そんなのじゃない。ただ、騎士になりたいと思っただけ」
流れる澄んだ青空に彼の笑みが重なる。
イヴは一晩考えた。
どうすればアルフレッドを守れるのか。どうすればアルフレッドを支えられるか。
その答えは、既に彼自身が教えてくれていた。
『――騎士になって国を支えたい』
国を支えるという事は、王を支えるという事。それはつまり、アルフレッドを支えるという事だ。
イヴは煌びやかな社交界から遠ざかっても、その道を歩みたいと思った。
どこまでも青い空を見つめ、強く拳を握る。
「ねえ、ケヴィン兄様。私、きっと強い騎士になるよ」
そうすればきっと、今度こそ彼を守れる。――もう、後悔はしない。
*
誰かに名前を呼ばれた気がして、たゆたうようなまどろみから意識が浮上する。
重たい瞼を持ち上げると、暗がりの中に誰かが佇んでいるのがわかった。その人の背後には、白く輝く満月。
「アル……?」
ひどくこの景色に見覚えがあった。満月だけが照らす薄暗い場所で、彼が泣いている。
掠れた声で彼の名前を紡ぐと、イヴを見下ろす彼がくすりと微笑む気配がした。
「ごめんね、イヴ嬢。王子様じゃなくて」
降ってきた声音に、イヴはぱちぱちと目を瞬いた。
あなたは誰、と言い掛けて、首を振る。今目の前にいるのは、クリスだ。
明かりのついていない部屋の中で、クリスは眉を下げて微笑む。彼の指がそっと頬に触れた。
「大丈夫? 怖い夢でも見たの?」
「……夢……?」
そこで初めて、イヴは自分の頬が濡れている事に気がついた。
――ああ、そうだ。あれは夢。
今は十歳の子供じゃない。十九歳の、王子付き側近の私。
ようやく覚醒してきたイヴは、涙の跡が残る頬を強く拭う。クリスは苦笑を零した。
「イヴ嬢、本当に大丈夫? 具合は悪くない?」
「平気。懐かしい夢を見ただけ」
ゆっくりとソファから身を起こし、少しだけ痛む背筋を伸ばす。変に固まってしまったのかもしれない。
時刻を確認しようと室内を見回すと、目の前にクリスの手のひらが差し出された。
「じゃあ帰ろうか」
「え? でも、パーティーは」
「もう大丈夫だよ。ノルマは達成、これで親父殿に文句は言わせない」
へらり、クリスが楽しげに笑う。
どうやら相当な時間寝てしまったらしい。これでは何の為に来たのかわからない。
途端に申し訳なくなって眉を下げると、僅かなその表情の変化に気付いたクリスが困ったように彼女の頭を撫でた。
「言っただろ、イヴ嬢には充分役に立ってもらったよ。今夜は付き合ってくれてありがとう」
「でも」
「俺がいいって言ってるんだからいいんだよ。君はこの私に意見するのか? 側近殿」
芝居がかった偉そうな口調に、イヴも苦笑するしかない。「いいえ」と首を振れば、満足そうな笑みが返ってきた。
「じゃあ今度は、俺がイヴ嬢の役に立たないとね」
「え?」
「さあ、早く帰ろう」
にっこりと子供のような笑みを見せたクリスは、思い出したようにイヴに靴を履かせる。そして彼女の手を取ると、足早に部屋を出た。
ずんずんと廊下を進んでいくクリスについていきながら、イヴは疑問符を浮かべずにはいられない。
「クリス、待って。どうしてそんなに急ぐの?」
「ああ、ごめん。足が痛む?」
「そういう訳じゃないけど……」
もちろん足は痛む。数時間休んだだけで綺麗に痛みがなくなっていたら誰も苦労はしない。
だが今イヴが気にしているのは、クリスの言動である。だいぶ痛みも和らいだのだから、靴擦れの事など二の次だ。
しかしクリスはやはり子供のように笑うだけで、何も答えてくれなかった。
腑に落ちないまま馬車に乗り込み、向かい側に座ったクリスをじっと見つめる。
クリスはその視線にたじろぎはしても、当たり障りのない会話をするだけで核心らしいところには触れさせなかった。
一体何を企んでいるのかと考え込んでいると、遂に馬車が止まる。外から扉が開けられ、イヴは思わず首を捻った。
着いたのはべレスフォード家の屋敷ではなく、ベイリアル侯爵家の屋敷だった。
「クリス? これは……」
「いいからいいから。ほらイヴ嬢、降りるよ」
クリスに手を引かれ、馬車から降りる。困惑しながらも、イヴは初めて訪れるベイリアル家の屋敷を軽く見回した。同じタウンハウスであるのに、やはりただの伯爵家よりも立派である。
にこにこと楽しげに笑うクリスにエスコートされる形で扉を潜ると、使用人達が「お帰りなさいませ」と頭を下げて出迎えた。
「ただいま」
「イヴ様も、ようこそお越しくださいました」
「え、あ、はい……」
イヴは彼女らしくもなく動揺していた。
それもそうだ。自分の屋敷に帰るはずが何故かクリスの屋敷につれてこられ、自分以外に戸惑った様子の者はなく、あまつさえクリスが侍女達にも自然体で接している。普段ぺったりと貼り付けられている笑みはなく、そこに一番驚いたといっても過言ではなかった。
しかしよくよく考えてみれば、ここはクリスが生活している場である。この屋敷の使用人にまで“威嚇”する必要はないのだ。
「突然で悪かったね。準備はできてる?」
「もちろんでございます」
「じゃあ、こっちもよろしく頼むよ」
はい、とまるで物を差し出すようにクリスはイヴを壮齢の侍女の前に出した。
恐らく侍女長あたりだろうと思われる彼女は、「かしこまりました」と頭を下げる。
意味がわからずイヴはクリスを振り返るが、彼はやはり笑うだけ。
「……ああ、かつらはいらないかな」
侍女に連行されるイヴが最後に聞いたのは、そんな呟きだった。
わりと近くの部屋に押し込められたと思えば、数人の侍女がイヴを取り囲み、ドレッサーの前に座らせた。
鏡に映る自分を見て、つい眉を顰める。
やはり疲れが出ているし、泣いた所為か化粧もいくらか落ちてしまっている。酷い顔だ。
「イヴ様、失礼いたします」
どこか生き生きとした表情の侍女達は、早速といった様子で化粧を落とし始めた。背後に立つ侍女はかつらを取っているようで、突然ふっと頭が軽くなる。
「まあ、綺麗なお髪! ぜひ伸ばしてくださいませ。そして私達に結わえさせてくださいな」
「奥様もたまには夜会に参加してくださればいいのに」
「そうすれば思う存分飾り立てる事ができますのに」
四方八方から嬉々とした声や残念そうな呟きが降ってくる。
その中心にいるイヴは、どうして自分がこんな事になっているのか少しもわからなかった。
ただひとつわかるのは、彼女達の着せ替え人形になりさがっているという事だけである。
今更勢い付いた彼女達を止める労力もなく、イヴはぐっと押し黙る。
人前ではいくらでも意地を張って気丈に振舞うが、疲れているのは事実だ。楽しんでいる節はあってもこれはクリスの指示のようであるから、悪いようには転ばないだろう。転んだところで、咎めるのはクリス一人で充分である。
思わず項垂れそうになると、「じっとしてくださいませ」と叱責された。
「お、きたきた」
ようやく侍女の満足のいく仕上がりになったところで、イヴは侍女長と思しき女につれられてクリスの所までやってきた。
大きな扉の前で壁に背を預けていたクリスは、イヴを眺めて満足そうに頷く。彼女の眉間に深い皺があるのは気付かないふりである。
「ありがとう、完璧だよ。……でも、これは少し相応しくないね」
「え?」
クリスの手が肩に乗せられ、くるりと反転させられた。いい加減本気で切れそうなイヴが冷え切った声で名前を呼ぶが、彼は答えない。
クリスはそっとネックレスを外すと、何かを彼女の細い首に巻く。苦しくない程度にそれは止められ、チョーカーだろうかとイヴは不思議に思いながらそれに触れた。
イヴの前に回りこんだクリスは、目を細めて微笑む。
「うん、ぴったりだ」
傍にいた一人の侍女が鏡を差し出す。
それを受け取ったイヴは、鏡を覗き込んで目を見開いた。どうして、薄く開いた唇から声にならない声が零れる。
白い首に巻かれていたのは、古ぼけた――あの夜、アルフレッドが髪を結ってくれた青いリボンだった。
――どうして、あのリボンがここに。
動揺を隠す事もできず、イヴはクリスを見つめる。
クリスは、ふわりと綻ぶように優しく微笑んだ。
「レディ・イヴ、どうかもう一曲だけお付き合いください。次は私ではなく――彼のお相手を」
クリスの手が大きな扉を押し開ける。
きらきらとシャンデリアが光を零す、広く美しいホール。その中央に佇む彼は、イヴと目が合うと恭しくお辞儀をしてみせた。
イヴの胸に、張り裂けそうなほどの痛みが生まれる。
それは悲しいからか、辛いからか、はたまた嬉しいからか――イヴにはそのどれもに感じた。
「……アル」
声が届いたのだろうか、顔を上げたアルフレッドは眩しそうに微笑んだ。