17
満月が照らす夜道は明るく、闇に目が慣れているのを差し引いてもイヴにはよく周囲を見る事ができた。
それは、恐らくアルフレッドも同じだろう。
自分を取り囲む見知らぬ男達、その手に握られた不穏な色の剣――そして、男達と一緒にこちらを剣呑な瞳で見据えるレイフ。
嫌なくらい鮮明に、自分達が置かれた状況を満月は見せ付ける。
「こうも簡単にいくとはな」
張り詰めた沈黙を破るように言葉を吐き捨てたのは、イヴを捕らえる男だった。
アルフレッドの注意が、再びイヴとその男に向けられる。
「変な動きはしないでくださいよ、王子様」
頬にぴたりと冷たい感触があてられ、イヴは僅かに身を震わせた。
びくっと体を強張らせるアルフレッドに、男は楽しげに笑う。
「お友達を解放してほしけりゃ、国王とべレスフォードを呼んできな」
「……何者だ、お前……」
苦く顔を歪めたアルフレッドを見て、男の口元が更に弧を描いた。
「『インズ』の名で思い出していただけると嬉しいんですが?」
皮肉げな声音が静かな夜に落ちる。
その名を聞いて動揺したのは、何もアルフレッドだけではなかった。イヴは呆然とその名を胸の内で反芻する。
――インズ……子爵。
かつて、べレスフォード領の隣を治めていた貴族の名である。
イヴは直接子爵家と顔をあわせた事はない。そもそも、べレスフォード家は隣同士だというのにインズ家と繋がりを持とうとはしなかった。恐らく、インズ家が没落する事を見越しての事だったのだろう。
今ではそのインズ家も取り潰され、彼らの領地は国王のもの、そしてべレスフォード家のものとなろうとしている。
――ああ、この人達は決して、アルだけを狙ってるんじゃない。
イヴも彼らの獲物なのだ。
アルフレッドもその考えに至ったのか、イヴを捕らえる男を鋭く睨みつける。
「……復讐でもしようって言うのか。こんなの、ただの逆恨みだ」
「なんとでも」
けれど男は一笑に付すのみで、子供をまともに相手にするつもりはないらしかった。所詮、イヴもアルフレッドも、国王やべレスフォード伯爵をおびき出す餌でしかないのだろう。
王族相手にあまりにも安易。彼らが成し遂げたい復讐は、これだけでは決して叶うはずがない。遅かれ早かれ、彼らは皆逆賊として捕らえられ処刑される。
それは子供のアルフレッドにでもわかったが、だからといって悠長に構えていられるほど優しい状況でもなかった。
イヴが彼らに捕らえられている。
このままアルフレッドが留まろうが国王に知らせようが、彼女は人質として使われる。もし人質として使えないようであれば、その場で切り捨てるだろう。べレスフォード伯爵の前で見せ付けるように命を奪うつもりかもしれない。
彼らにとっては子供でも復讐すべき一族なのだろうから、イヴを生かしておかなければならない理由はないのだ。
「ほら、王子様。早く呼んできてくれませんかね」
男が卑しい笑みを浮かべる。
どうすればいい。どうすればいい。
混乱した頭でそればかりを考えていると、この場には不似合いな甘えた鳴き声がした。
ハッとアルフレッドはイヴの足元に目をやる。
そこには、闇の中に浮かび上がるような白い毛並みの猫。赤いリボンをつけた猫はするりとイヴの足に頬を寄せた。
イヴもそれに気付き、顔を青ざめさせる。
「キティ……っ」
そこから離れさせなければ。
掠れた声でアルフレッドが叫ぶように名前を呼んだ時、笑みをたたえた男の剣がイヴの頬から離れた。
――闇を切り裂く、白銀の剣。
イヴの淡いグリーンのドレスに、赤い汚れがつく。
アルフレッドは言葉を失った。イヴも自分の足元を見つめ、呆然としている。
「……ほら。急がないと、このガキもこうなるぜ」
楽しげな男の声が、夜の静けさに染み込むように響いた。
引き抜かれた男の剣は赤く濡れ、男は子供達に見せ付けるようにそれを払ってみせる。パタタ、と周囲に赤い斑点がついた。
イヴは、動かない白い猫が次第に赤く染まっていくのをじっと見つめていた。
――キティ、が。
胸の奥が苦しくなって、目頭が熱くなる。じわりじわりと涙が溜まっていくのがわかった。
恐怖など、悲しみを前に既に消えてしまっていた。
震える体を押さえ込むように、拳を強く握り締める。そして左足を上げ、踵で力一杯男の爪先を踏みつけた。
「いッ……!?」
男が怯んだところで、迷わず口を覆う手のひらに噛み付く。思わぬ反撃に完全に意表を突かれた男は手を離し、イヴはその隙に逃げ出した。
その時、無理に逃れた所為で男の剣が頬を掠める。小さな痛みが走ったが、構わずイヴは走った。
「イヴ!」
涙で視界が滲んでも、彼の居場所だけはよくわかった。
アルフレッドがイヴに向かって手を伸ばす。
軽く結っただけの髪はリボンが取れてしまったようで、無造作にふわりと広がった。
イヴが縋るように伸ばした手を取り、アルフレッドは強く握った。すぐさま腰に下げた剣を抜き、人質を取り返そうとする周囲を牽制する。
いくら子供でも剣を振り翳されると少しは恐怖が生まれるのか、男達は一定の距離を保ったまま苦々しく顔を歪めた。
「さすが、べレスフォードの娘ですね」
そこで一歩近づいてきたのは、今まで静観していたレイフだった。
アルフレッドは強く歯を噛み締める。
「レイフ……お前も、インズの一族だったんだな」
「そうですよ」
返ってきた答えは、あまりにもあっさりとしていた。
しかしその瞳だけは、悔しそうに歪んでいる。
「俺は正直、爵位とか名誉とかはどうでもいい。だけど、王に何もかもを奪われた所為で親父達は死んだ。……どんな奴だろうが、俺にとっては大切な両親だったんですよ。人の命を奪う権利さえ王にはあるって言うんですか? 家族だけが俺の財産だったのに、それすら奪われた俺はもう何もない。これくらいしか、やる事ないんですよ」
その表情は悲痛なものだった。
イヴを背後に庇うようにしながら、アルフレッドは震える手を誤魔化して彼に切っ先を向ける。
「……この為に、城に潜りこんだのか。利用する為に、俺に近づいたのか」
聞かずとも答えのわかりきった問いかけだった。それでも、アルフレッドは彼が否定してくれる事を望んでいた。
レイフと過ごした時間は決して長くはない。だが、彼の飾らない言葉や態度がとても好ましかった。
自分を王子であると認識していても、彼は王子に対して恭しい態度を取る事は決してなく、それがアルフレッドという個人を見てくれているのだと嬉しかったのだ。
しかしレイフは無表情を貼り付け、はっきりと告げる。
「はい」
じくり、と胸が痛んだ。怪我をした訳でもないのに、まるで刺されたような痛みが走る。
呼吸さえ難しくなるような気がして、柄を握る手に力をこめた。
一歩、レイフが歩み寄る。
「王子、お願いだから大人しくしてください」
レイフの手が、俯くアルフレッドに伸びる。
けれどその手は、青白い光を反射する剣に阻まれた。
「……イヴお嬢さん」
アルフレッドの手に自分の手を重ね、レイフに剣を向けるイヴは涙を溜めた瞳に力をこめて彼を睨みつける。
僅かに眉を寄せたレイフが何かを言おうと口を開いた時、ガサリと周囲の茂みが揺れた。
「おい、そこに誰かいるのか!」
「……ちっ」
イヴを捕らえていた男が舌を打つ。
現れたのは、巡回中の衛兵達だった。彼らは目の前に広がる光景に一度目を見開いたものの、その中心にアルフレッドとイヴがいるのに気付くとさっと表情を厳しくする。
ただちに一人が仲間を呼びに去っていった。
「クソ、これじゃ時間の問題か……」
忌々しそうに男がぼやく。
そして、ギラついた目でアルフレッド達を捉えた。
「どうせ死罪は確定だ! ガキ共を殺せ!」
「アルフレッド殿下!」
男の怒声にも似た声に、逆賊の男達が一斉に動き出す。すかさず衛兵達も動き、剣と剣がぶつかり合う音が月夜に響いた。瞬く間に周囲は騒然とした空気に呑まれていく。
苦悶の声や叫びが生まれる中、レイフは静謐を保とうとするようにアルフレッドとイヴと対峙する。彼らの傍に、息を引き取った誰かが転がった。
「……イヴ」
アルフレッドが震える声を搾り出す。
「イヴ、早く逃げろ」
しっかりと耳に届いたその声に、イヴは困惑して彼を振り返った。
しかしアルフレッドは構わずレイフを見据え、自分の手に重ねられたイヴの手をそっとどける。
「アル……!」
「……大丈夫だから」
一歩、レイフに歩み寄る。
レイフは眉を寄せてアルフレッドを見下ろしていた。
「これは俺の迂闊さが招いた事態だ。……そうだろ、レイフ」
アルフレッドが浮かべるのは、子供には似合わない自嘲じみた笑み。
レイフは何も答えず、アルフレッドに斬りかかった。
振り下ろされる刃を受け止め、アルフレッドはきつく歯を噛み締める。剣術を習った様子はないが、それでも力で押されれば負けてしまう。
繰り返される斬撃をかわし、受け止めながら、じりじりと後退していく。アルフレッドのその様を見て、イヴは一瞬迷ったものの、彼に背を向けて駆け出した。
それを横目に見たレイフが、ようやく無表情を解き、ふっと笑みを浮かべる。
「イヴお嬢さんも可哀想な娘ですね。王子に気に入られさえしなければ、今頃屋敷で静かに眠っていられたのに」
「……何?」
「わかりませんか。あんたと親しくなったから彼女は城に入り浸り、俺に目をつけられた。――あんたと出会わなければ、彼女は俺に王都にいる事さえ知られる事なく平和に過ごせたんですよ」
どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
――俺の、所為。
キティが死んだのも、イヴがこんな目に遭って泣くのも、全部……全部、俺の所為……!
肝が冷え、胸が引き裂かれたように痛みを訴える。息が詰まった。
その隙を逃さぬよう、レイフの剣がアルフレッドに襲い掛かる。ハッと我に返ってももう遅い。
振り下ろされる刃を見つめ、アルフレッドは何もできずに来るべき痛みに身を強張らせた――瞬間、視界が赤く染まった。
銀色の瞳を見開くアルフレッドの目の前で、レイフが苦悶の声を漏らして崩れ落ちる。
彼の背後には――赤く濡れた剣を持つ、イヴが立っていた。
「イ……ヴ……」
掠れた声で彼女の名を呼ぶ。
しかし足元から苦しげな呻き声が聞こえて、アルフレッドは弾かれたように彼のもとに膝をついた。
いつの間にか逆賊の男達は衛兵に捕らえられ、収束がつこうとしている。
「レイフ……!」
脇腹から血を流すレイフを見下ろし、アルフレッドはどうする事もできずにただ彼の名前を呼んだ。
アルフレッドを見上げるレイフは、浅い呼吸を繰り返しながら呆れたように眉を上げてみせる。
「王子、あんた……なんで、泣いてんですか……」
ぽたぽたとレイフの頬に透明の雫が落ちる。
眉を寄せて顔を顰めたアルフレッドは必死に堪えようとするが、こみ上げる熱が止まらない。
「レイフ、俺は……っ」
「……餌付け、またするんなら……料理長に直接言ってくださいよ……あれ、結構怒られるんですから……」
レイフは乾いた笑みを零した。苦痛の中で、それでもどこか優しい笑み。
荒い呼吸音が、止まる。かろうじて上下していた胸も動かなくなった。
アルフレッドは大きく目を見開き、そして声を殺して泣いた。
カラン、と剣が手のひらから零れ落ちる。
イヴは力が抜けるままに膝をつき、震えてレイフに縋り泣くアルフレッドを呆然と見つめていた。
咄嗟の事だった。
アルフレッドの傍から離れ、近くに転がっていた誰かの剣を拾い上げた。それはただ単に、足手まといになりたくないからだった。この場で自衛ができなければ、自分を守る為に誰かが傷つく事は明らかだった。
しかしアルフレッドの剣が大きく弾かれ、生まれた隙を狙って振り下ろされる刃を見た時、勝手に体が動いた。
――殺すつもりじゃ、なかったのに。
赤く染まった自らの手を見つめる。人を、生き物を斬ったのはこれが初めてだった。
咄嗟の時に反応できるよう仕込んだ兄に感謝すればいいのか恨めばいいのか、イヴにはわからなかった。
ハッと思い出したようにイヴは顔を上げ、少し離れた所に横たわる白猫を見る。衛兵達はちらちらと視線はやっても、特に気に留める様子はない。
――ごめんね。
じわりと涙が浮かんだ。
――アルの傍にいたかったのに。私が帰ったら、やっと独り占めできたのに。
どんな時でもイヴには擦り寄る癖に、決してアルフレッドにはなびかなかったあの猫が、本当はアルフレッドの事を気に入っているのだとイヴは知っていた。確たる証拠はない。それでもわかっていたのだ。きっとイヴと白猫は似ていたから。
イヴは、震える四肢に力を入れて立ち上がる。衛兵が名前を呼んだ気がしたが、振り返らなかった。
ゆっくりとした足取りで彼の傍に立つと、イヴの気配に気付いたアルフレッドが顔を上げる。そこにはいつもの明るい彼はなく、ただ悲しみに打ちひしがれる少年がいた。
「イヴ……」
きりきりと痛む胸が、自分の名を呼ぶ声が決して憎しみに染まっていない事に安堵した。そしてうっすらと自己嫌悪する。
イヴはアルフレッドの傍に膝をつき、左手で優しく髪を撫でた。自分こそ涙を堪えきれずにいるのに、彼を慰めようなどとは思っていない。それでも、そうせずにはいられなかった。
くしゃりと、アルフレッドの顔が歪む。アルフレッドはイヴの華奢な体を縋るように抱きしめた。
「イヴっ、イヴ、俺は……!」
「……うん、大丈夫。私がいるよ。……私が、アルを守るから」
イヴは自分より少し大きな彼の体を、精一杯抱きしめる。
愛しい彼が、壊れてしまわないように。