16
ぐす、ぐず、と鼻をすする音が繰り返される。
嗚咽が漏れるほどではないが、ハンカチーフをぐちゃぐちゃにして泣いている少女を前に、アルフレッドは困ったように眉を下げた。
「イヴ、泣くなよ。大丈夫だから。な?」
「だ、だって……っ」
初めて出会ったあの日から毎日遊びに来る少女は、案外泣き虫である。その事は、数日遊べばアルフレッドにもわかっていた。
しかし、アルフレッドは誰かが泣いているのを慰めた事がない。周囲は誰も泣かないからだ。
自分が幼い頃どうやって慰めてもらったかを必死に思い出しながら、木漏れ日の中ですすり泣くイヴの頭を優しく撫でる。効果があるのかないのかは、泣き止んでくれないのでわからない。
どうしたものかと頭を悩ませていると、涙で濡れたアイスグリーンの瞳がアルフレッドをとらえた。
「ア、アルは、どうして大丈夫なの? 寂しく、ないの?」
アルフレッドはつい、僅かに眉を寄せる。
今回彼女が泣いている理由。それは、アルフレッドとの別れが迫っているという事だった。
なんでも、昨夜父であるべレスフォード伯爵からもうそろそろ仕事が片付きそうだと聞かされたらしく、荷造りをしておくよう言われたそうだ。
もちろんイヴは母や兄達のいる領地へ帰る事が嫌な訳ではなく、むしろ父と共に帰ってまた一緒に過ごせるのは嬉しい。しかし領地に帰れば、王都にいるアルフレッドとは離れ離れになってしまう。数えてみれば短い期間だが、イヴはすっかり彼の事を気に入っていて、家族のように大切に思っていた。
「寂しいに決まってるだろ」
それは、アルフレッドも同じ。
見開かれた瞳をまっすぐに見据え、アルフレッドは言い聞かせるように言う。
「俺だってイヴと会えなくなるのは寂しい。でも、一生会えない訳じゃない。またいつでも城に来ればいい。父上に許可がもらえたら俺もイヴの所へ行くから」
「本当?」
「ああ。その時はまた一緒にワルツを踊って、昼寝をして、それから街にも行こう。あと負けっぱなしじゃ悔しいから、剣の稽古にも付き合ってくれ。そうしてまた、いっぱい遊ぼう」
真摯に見つめる銀色の瞳に、イヴはようやく涙を止め、ゆっくりと確かめるように頷いた。
それを見て、アルフレッドが褒めるように彼女の頭を撫でる。
胸の奥でくすぶる熱に、二人は気付かない。
すっかりイヴが泣き止むと、どこからか白猫がやってきて気紛れにイヴに擦り寄った。まさにイヴがつけた名前が綴られた赤いリボンを首に結んで、甘えるようにみゃあと泣く。
くすりと笑みを零して、イヴは猫を抱き上げた。
「キティともお別れだね」
「カントリーハウスに猫が駄目な奴がいないなら、イヴがつれて帰るか?」
その方がキティも喜ぶだろうというアルフレッドの提案に、イヴは緩く首を振る。
「キティはここにいたいんだよ」
「そうか?」
「うん、そう。私にはわかる」
ね? と同意を求めるようにじゃれつくキティの顔を覗き込むイヴを見つめ、アルフレッドは腑に落ちないといった風に肩を竦めた。
すると近くの茂みがガサリと音を立て、二人は同時に振り返る。
そこから現れたのは、どこか疲れた表情をしたレイフだった。
「ああ、いたいた王子。まったく、もう少し王子様らしい所にいてくれないですかね」
「どこだよ、王子らしい所って」
溜息を吐いて頭をかくレイフを、アルフレッドは胡乱な目をして見つめる。
それにくすりとイヴが笑うと、レイフの目が彼女に向けられた。それから、切れ長の瞳がきょとんと丸くなる。
「あれ、イヴお嬢さん泣かせたんですか王子」
「俺が泣かせるか。もうすぐイヴが領地に帰るんだよ」
ちらとアルフレッドが視線を送ると、イヴは眉尻を下げて微笑む。
「短い間でしたがお世話になりました。キティとアルをよろしくお願いします」
「おい、なんで俺まで!」
「だって、アルもお世話になってるでしょ」
不服そうにむっつりとむくれたアルフレッドに、くすくすと小さく笑った。
レイフはそんな彼女達を見て、考えるように顎に手をやる。
「じゃあ最後の思い出にでも、夜の王城巡りなんてどうです? お嬢さん、昼間はもう充分遊びまわったけど、夜はまだ来た事ないでしょう。肝試しとか楽しそうですよ」
「肝試し?」
イヴの大きな瞳が僅かに輝く。
肝試しは聞いた事はあるが、実際にやった事はない。過保護な兄が何故か許してくれないのだ。
好奇心にきらきらと瞳を輝かせるイヴの隣で、けれどアルフレッドは呆れたように溜息を吐く。
「そうは言っても、夜は緊急でもない限り入城はできない。だいたい、そんな事父上も伯爵も許してくれないだろう」
「イヴお嬢さんが入城しなけりゃいいんでしょ?」
きょとん、と子供達の目が丸くなる。
不思議そうに首を傾げた彼らに、レイフは苦笑を浮かべながら「内緒ですよ」と人差し指を立てた。
*
「べレスフォード伯爵令嬢が体調不良?」
夕刻。斜陽が差し込む執務室に申し訳なさそうに入ってきた近衛騎士に、国王は訝るような視線を送る。
緊張しきった彼は、その視線に更に身を強張らせた。
「はい。どうやら馬車の揺れに耐えられそうにないとの事で、アルフレッド殿下のご指示で部屋を用意し、ひとまずは休んでいただいております」
「伯爵はどうしている? 確かいつも同じ馬車で帰っているだろう」
「べレスフォード伯爵は先にお帰りになられました。レディ・イヴが何やらご説得なさっていたようですが……」
ふむ、と国王は頷く。持っていた万年筆を一旦机に置き、ゆったりと椅子に深く腰掛けた。
「まあよい。彼女には宿泊許可を出そう。急ぎ軽めの夕食を用意し、部屋に運ばせろ。隣室には常に一人侍女を待機させ、体調が悪化するようであれば医師を呼ぶように」
「はっ!」
キビキビとした返事を残し、騎士が早速といった様子で執務室を出て行く。
その背を見送ると、入れ違いにベイリアル侯爵が中へと入ってきた。彼は僅かに眉間に皺を寄せ、入ってきたばかりの扉の方を見やる。
「騎士が出て行ったようですが、何かございましたか?」
「なに、『イヴ』が体調不良だと言うので部屋を貸してやっただけだ」
「イヴ?」
きょとん、とキャラメルブラウンの瞳が丸くなる。彼のそんな顔もなかなか珍しい。
いいものを拝んだとくつくつ笑いながら、国王は頷いた。
「べレスフォード伯爵の末娘だ。ベイリアルは見た事があるか?」
「いえ、上の三人は何度か見かけましたが……もしや、近頃殿下のお傍にいる少女でしょうか」
「きっとそれだろう。プラチナブロンドに、淡い緑の瞳らしいのだが」
「さあ、そこまでは……遠目に見かけた事があるだけなので、少々わかりかねます」
そう言って、ベイリアル侯爵は何度か廊下から見えたアルフレッドが見知らぬ少女と遊んでいる光景を思い浮かべる。
身なりからして貴族だろうとは思っていたが、なるほどべレスフォード家の末娘ならわからなくもない。大方父親についてきたのだろうと予想ができた。
「しかしそのご令嬢が体調不良といえど、宿泊の許可までお出しになるのですか?」
この場合、ある程度体調が回復したら帰らせるのが普通の対応だろう。ここは王族が住まう城だ。昼間はともかく、暗い夜に部外者が城内にいるのはなるべく避けねばならない。
しかし国王はさして気にした様子もなく、「ああ」と答えて側近が淹れた紅茶に口をつけた。
「もし本当に体調を崩したのなら、アルフレッドの責任でもあるだろう。例えば、熟していない木の実を食べたとか」
「そうでした! 陛下からもなんとか仰ってください! いくら城内のものとはいえ、不用意に口にされては危険です! 前回は熟していない普通の実でしたから、腹を下すだけで済んだものの……!」
「確かにそうだな。あれは熟しているかいないか判別がつきにくい。今度見分け方を教えてやらねば」
「陛下!」
鬼の形相で咎めるように声を荒げる侯爵に、国王は愉快そうにくつくつと笑う。
この親子はこういうところだけ驚くほど似ている。ベイリアル侯爵は額に手をあて、疲れたように嘆息した。
国王はカップをソーサーに置き、未だ楽しそうに笑みを浮かべて侯爵を見上げる。
「たとえ仮病だったとしても構わん。今回だけ特別だ。もうすぐ彼女は領地に帰るのだから」
「……何故そこまで特別扱いを?」
「先日の晩餐の時に、アルフレッドから彼女の話を聞かされた。同じ歳らしく、彼もなかなか気に入っている様子だった」
「なるほど……それはようございました。きっと、殿下のよきご友人になってくださるでしょう」
数日前少々強引に休ませたのは、やはり正解だったようだ。相変わらず仕事の量は膨大であるが、家族と過ごす時間は安らぎになる。
湯気を燻らせる紅茶を見つめて目を細める国王は、態度や口調は王のそれでも表情だけは父親のそれだ。
侯爵は微笑むように表情を緩めた。
「クリスにもいい加減、アルフレッド殿下以外の交友関係を持ってほしいものですが……」
「そう言ってやるな、彼の気持ちもわかる。それに、彼女ならクリスともうまくやっていけるかもしれないぞ。素直で面白い奴だとアルフレッドが笑っていたからな」
「ほう。殿下がそう仰るのなら期待できそうですな」
もうすぐ十二歳になるクリスには、栄えあるベイリアル侯爵家の跡継ぎ、そして次期宰相としての重責がある。
お陰で、幼い頃から彼に気に入られようとする者が多い。しかし厳しい父親の影響か、はたまた皮肉屋な母親の影響か、持て囃されて図に乗るのではなく、いつの間にか偽りで固められた周囲を忌み嫌うようになった。
それは、アルフレッドとてたいして変わらない。彼の場合は、擦り寄られる不快感よりも、王子という身分故に自由の少ない窮屈さの方が大きいようであるが。
何にせよ似た所のあるアルフレッドが気に入ったのなら、クリスも気に入るかもしれない。
ぜひ彼女とクリスを一度会わせたいと侯爵が笑うと、国王も楽しげに頷いた。
*
夜の帳が美しい城を包む。
大きなベッドに横たわり、イヴはぼんやりと夜空を見上げていた。
すると、コンコンと小さなノックが鼓膜を震わせる。空から少しだけ目線を下げてテラスを見ると、ここ数日で随分と親しくなった少年がいて、ひらひらと手を振っていた。
イヴは今すぐ駆け寄りたいのをぐっと堪えて、極力音を立てないよう窓に近寄る。
いけない事をしているという後ろめたさよりも、わくわくとした高揚感が小さな体を満たしていた。
窓の鍵を開け、そっとテラスに忍び出る。
「こんばんは、イヴ」
「うん、こんばんは」
くすくすと、イヴとアルフレッドは顔を見合わせて小さく笑った。
夜の静かな風がイヴの髪をさらう。昼間綺麗に結われていた髪は、寝やすいようにと侍女に解かれてしまった。
顔にかかる金糸のような髪をおさえるイヴに、アルフレッドが思い出したようにポケットを漁る。何が出てくるのだろうと見つめていると、青いリボンが出てきた。
ぱちぱちとイヴは目を瞬く。
「アルはリボンを持ち歩いているの?」
「いや、風が少しあるから一応もらってきたんだ。キティのはその時たまたま持ってた贈り物についてたやつを使った」
アルフレッドに促されるまま後ろを向くと、彼女の髪に彼の手が触れた。それから梳くように優しくひとつに結わえられていく。
「イヴに贈り物をするからリボンはないかって言ったら、山ほどいろんなリボンを持ってこられてな。その中で一番似合いそうなのを選んだんだ」
できた、とアルフレッドの手が離れる。
手のひらで軽く出来を確認するイヴに、アルフレッドがどこか満足そうに「侍女程じゃないが、なかなかだろ?」と笑った。
確かに侍女程綺麗とは言えないが、それでも普段髪を結う事など皆無だろう彼にしては上出来である。もしかしたらイヴが自分でするよりも綺麗かもしれない。
「ありがとう、アル」
「どういたしまして。行こう、レイフが待ってる」
差し出された自分より少しだけ大きな手のひらに、イヴは笑って自分の手を重ねた。
闇色の空に浮かんだ青白い満月が、冷たく夜道を照らす。
見回りをしている衛兵達に見つからないようイヴとアルフレッドは慎重に進み、昼間決めた待ち合わせの場所へと辿り着いた。
既にそこで待っていたレイフが、ひらりと手を上げる。
「お待ちしてましたよ、王子、お嬢さん」
どこか気だるそうな彼の様子を気にもせず、アルフレッドに手を引かれるままイヴも彼に近寄った。
「レイフ、ちゃんと仕掛けてこれたか?」
「ええ、まあ……」
昼間話した計画では、小さな花束をレイフが適当な場所に隠し、それを取って戻ってくるという話だった。
しかしレイフの曖昧な返事に二人が首を捻ると、突然、イヴは背後から強い力で引き寄せられた。
「――っ!」
声にならない悲鳴を上げる。軽く繋がれていたアルフレッドの手は離れてしまった。
「イヴ!?」
瞠目したアルフレッドが自分を見つめている。
答えようとした声は、けれど大きな手に口を覆われて出る事はなかった。
背後に感じる大きな大人の男の気配に身を竦ませる。気付けば、数人の男達がイヴとアルフレッドと取り囲んでいた。
動揺を滲ませたアルフレッドが、ゆっくりと、背後を振り返る。
「レイフ……?」
彼の視線を受け止めるその男は、やはり疲れたように酷薄な笑みを浮かべた。