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キティ  作者: 岸部碧
14/19

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 窮屈なドレスに嫌気が差しながら、イヴはワインを飲み干した。

 夜の帷に包まれたバルコニーに彼女以外の人影はなく、楽隊による音楽がホールからゆったりと零れてくるだけだ。

 薄暗いバルコニーとは違い、眩しいほど明るいダンスホールでは男女が楽しげに踊っており、その中には、さすがに何人か別の女性の相手もしなければ父親に叱られるらしいクリスが、甘い笑みを浮かべて同じ侯爵位の令嬢と優美にステップを踏んでいた。

 くるくると回る貴族をぼんやりと眺めながら、ついまだ左腰に触れていた手を握った。

「……一応、貴族令嬢なんだってば」

 ぽつりと呟いた声は、誰にも届く事無く空気に溶けて消えていく。

 イヴは、自分が少々普通の婦女子と違う事は理解している。騎士だからとかではなく、そもそもの考え方が多少異なってしまっているのだ。

 だが、イヴだって夢見がちな貴族令嬢と同じ道を半ば歩いていたのである。

 政略結婚など当たり前な貴族社会で、だからこそ少女は恋愛結婚に夢を見る。

 いつか素敵な人に恋をしたい。いつか好きな人と結ばれたい。そんな事を考える。

 けれど、イヴにはそれは無理な話だ。

 恋をした。だが、彼と結ばれる事なんて永久にないだろう。

 それでも、せめてパーティーで貴族として踊る事があるのならアルフレッドと踊りたかった。

 ――イライラする。

 自分が求めるものの為に令嬢の自分は切り捨てたはずなのに、未練がましくそんな事を考えてしまう自分が情けない。

 見上げれば、明るい満月と目があった。

 暗闇の中にぽっかりと浮かぶ月を見つめていると、何故だか泣きそうになる。

 ――ああ、あの日も確か綺麗な満月だった。

 普段ならどんな仄暗い感情も蓋をして見て見ぬふりができるのに、それだけで感傷に浸ってしまうのはドレスなんてものを纏っている所為だ。何年も何年も着る事がなかった所為で、どうしてもあの頃の自分と重なってしまう。

 耐え切れずに唇を噛んで俯くと、バルコニーに続くガラス扉が開いた。

「イヴ嬢、ただいまー」

 極力明るい声音で笑うクリスは、「疲れたー」などとぼやきながらイヴの隣に立つ。

「すごいよ、中。みんなイヴ嬢の話ばっかり。ケヴィンは時々顔出すみたいだけど、イヴ嬢は全然参加しないからまるで妖精扱いだよ」

「馬鹿な男は、でしょ。女は違うよ」

 ガラスを一枚隔てた向こう側をまたぼんやりと見つめ、イヴは呆れたように溜息を吐いた。

「騎士に成り下がった癖に、今頃出しゃばる身の程知らずめ。汚らわしい人殺しの癖に、クリス様のお隣に並ぶなんて。……そんな心の声が聞こえてきそうなくらい凶悪な目だよ」

 煌びやかなこの世界が、決して美しい訳ではないと知っている。

 自分を見る目が嫉妬の炎を燃やしている事なんて、よく見なくたってわかった。

 申し訳なさそうに眉尻を下げて押し黙ってしまったクリスに、「気にしないで」とイヴは首を振った。

「……どっちかと言えば、それは俺の台詞な気がするんだけど」

「私は気にしてないから。気にするとしたら、騎士を見下す態度だけ」

 ごく普通の令嬢に憧れがないかと言われれば、少しはある。どんなに取り繕っても、イヴはただの女なのだ。

 ただ、騎士の方がイヴにとって大切で重要なだけで、令嬢としての将来は騎士になる為には邪魔だった。

 だからその騎士になれた今その事に誇りを持っているし、信頼する仲間もいる。

 どんな言葉を浴びせられても自分は傷つかないが、騎士を馬鹿にされるのは嫌だった。

「私は騎士になった事に後悔してない。約束を守る為なら、私はなんだってする。私にとって大切なのは、たったそれだけなんだから」

 強くはっきりとそう告げたイヴを、クリスはどこか苦しそうに目を細めて見つめていた。

 それから薄く唇を開くが、何かを言いかけて思いとどまり、口を閉ざす。代わりに、月光が照らす白い頬をそうっと撫でた。

「イヴ嬢、顔色が悪いよ。慣れない事して疲れてるんだろ? 足もそろそろ限界みたいだし」

「……気付いてたの」

「いきなりそんな靴履いて何曲か踊れば当たり前だよ」

 クリスは気遣うような目をして、淡く笑む。

「部屋を借りて休んできなよ。まだ帰れないし、帰る頃に呼ぶからさ」

 違う家の者が同じ馬車で来るとこういう時に面倒である。

 本当はクリス自身ももう帰ってしまいたいのだが、父親に決められたノルマの時間までまだまだある。それを無視して帰って説教をされては、嫌々ここまで来た意味がなくなってしまう。

 それを理解しているイヴはもちろん先に帰るつもりはないのだが、だからといって素直に甘えるのもどうかと思う。

「でも、それじゃ私が来た意味ないでしょ?」

「いつもの三倍は楽させてもらったし、もう充分だって」

 へらりとクリスは笑う。イヴが隣にいるだけで、声をかけてくる令嬢がいつもより断然少なかったのは事実だ。

 褒めるように頭を撫でてお礼を述べれば、イヴは気が抜けたように溜息を吐いた。

「わかった。少し休んでくる。回復したら戻るから」

「あはは、ゆっくり休んでおいで」

 空のグラスを片手にバルコニーを去っていく背中を見送り、クリスも嘆息する。

 ガラス越しにイヴが使用人に声をかけて案内されていくのを見つめながら、手すりに背中を預けた。

「予想以上に疲れたらしい。申し訳ない事をしたな」

 体力や精神力もそこいらの令嬢より全然自信のあるイヴなら大丈夫かとも思ったが、やはり人間は慣れない事をすれば疲れる。

 それでも、イヴは二回目のパーティーとは思えないほど完璧にパートナーを務めてくれた。もう充分だと思うのは本心だ。

 広間からイヴの姿が消えたのを見届け、クリスはこちらへ来る時についでにもらったワインを一口飲んだ。

「男の嫉妬は醜いですよ、アルフレッド殿下」

「……お前が言うか。嫉妬狂いの女が嫌いなお前が」

 バルコニーの傍に佇む立派な木から、不貞腐れた声が返ってくる。

 生い茂る木の葉に隠れるように、アルフレッドが幹に腰かけていた。

 不満げに腕を組んだアルフレッドの方を振り返りもせず、クリスは愉快そうに肩を震わせる。

「歯軋りしながらお前が見立てたドレス、すごく似合ってたな。儚げなイヴ嬢にぴったりだ。一緒に躍れなくて気の毒だけど」

「うるさい。今やっと死ぬ気で終わらせてきたっていうのに、イヴを放ったらかしにしやがって。お前が他の男を寄せ付けないって言うから俺は許可したんだぞ」

「心外だな、俺はちゃんと牽制したさ。まあ、俺がいなくてもイヴ嬢が勝手に他の男をあしらっちゃったけど」

 この話を持ち出した時のアルフレッドの不機嫌な面といったら。思い出したクリスは尚更笑いが止まらない。

 三日前、イヴをパートナーとして連れて行きたいと言うと、アルフレッドはたちまち渋面を作った。

 最初は嫌だと言い、次には自分も行くと言ったが、それは執務が許してはくれなかった。仕方なく、絶対に男を近づけさせない約束で承諾したのだった。

 その際に絶対にドレスなど持っていないイヴの為にドレスや装飾品や靴を見立て、急ぎ仕立屋を呼んで用意させた。サイズは側近として城にいる以上、体格なんて基本的なデータは登録されているので問題はない。

 そうして仕上がったドレスに身を包んだイヴを、一目見たかった。

 やっとの思いで執務を終えてきたアルフレッドは、薄闇に佇むイヴを思い出す。

 淡いブルーを基調としたドレスには白いレースが所々にあしらわれ、それにあわせた控え目な、けれど繊細な細工があされたネックレスや髪飾りは、儚い印象を与えるイヴの美しさをより引き立てていた。大人しく微笑んでいるなら、妖精という表現がぴったりだ。

 お陰でクリスに嫉妬する羽目になったのだが、自分が贈ったものを彼女が見につけているという優越感に似た感情の方が大きい自分は末期なのかもしれない。

 アルフレッドは幹にもたれ、暗い空を見上げた。

 青白い満月に雲がかかる。


「何かございましたら、遠慮なくお申し付けください」

 イヴがお礼を述べると、使用人は丁寧にお辞儀をして部屋を出て行った。

 残されたイヴは大きなソファに腰を下ろし、履き慣れない靴を脱いで足をソファに乗せる。血が滲んではいないが、靴擦れしてしまっている。優しく擦る度に、ぴりぴりと痛みが肌を刺した。

 いくつか用意されている休憩用の部屋の一つに案内され、さすがにここまでホールの喧騒は届かないのか、とても静かだ。

 薄暗い部屋に光を零す月を窓越しに見上げる。夜空に輝く満月が嘲笑っているような気がして、堪らず逃げるように目をそらした。

 ――少しだけ。少しだけ休んで、戻らないと。

 綺麗に仕上げてくれた髪やドレスが崩れてしまわないよう気をつけながら、イヴは重たい体をソファに横たえる。すぐそばにベッドもあるが、疲労を訴える足では数歩歩くのも億劫だ。

 そうっと息を吐き出して、瞼を下ろす。

 まどろみに沈む意識の中で、誰かが名前を呼ぶ声を聞いた気がした。


  *


 キラキラと輝く木漏れ日の中を、少女が一人、愚図りながら覚束ない足取りで歩く。

 明らかに外出用とわかる可愛らしいドレスに身を包んでいるが、折角のドレスは所々が汚れ、綺麗に結われていたはずの髪も崩れてきていた。

 鼻や目元を赤くして俯きながらよたよたと歩く少女の腕の中には、大人とも子供ともいえそうな白い猫が一匹大人しく抱かれている。首に赤いリボンをつけた猫はみゃあと短く泣くと、自分の顔に降ってくる涙を舐めた。

「あっ……ごめんね、猫ちゃん」

 慌てて涙を止めようと試みるが、なかなかうまくいかない。

 それどころか申し訳なさと不安がない交ぜになって、更に涙が溢れてくるようだった。

 少女――イヴは、迷っていた。

 十歳になってから数ヶ月。王城で仕事があると言う父に頼んで、初めて領地から王都に出てきた。

 少なくとも数日間は滞在するらしく、昨日はケネスに城下を軽く案内してもらったところだった。今日もその続きをしてもらう約束だったのだが、父が国王に入城の許可をもらってくれたので、城内を案内してもらっている所である。

 しかし広い庭園内で目移りしながら案内役についていく内にはぐれ、今では庭園どころかまるで森にいるようだった。

 見渡すばかり、木。どちらへ行けば庭園に戻れるのか、そればかりか城に辿り着けるのかもわからない。

 ――もし戻れなかったら。

 そう考えると体が震えた。

 イヴは、自分が甘やかされている自覚がある。初老に片脚を突っ込んでいる両親に、歳の離れた兄姉が猫可愛がりしてくれる。

 そもそも、イヴが家族と別行動をするのもこれが初めてだった。外出する時は必ず兄姉の誰かが傍にいるのだ。迷子になんてなった事がない。

 それでも一つの場所にとどまっているのも怖く、ふらふらと宛てもなく彷徨う。

 ずっと同じ所を通っているような気もするし、全然違う場所のような気もする。それがまた不安を煽った。


「――お前、誰だ?」


 不意に降ってきた声に、びくりと肩を震わせる。

 驚いて周囲を見回すがやはりあるのは木ばかりで、人影はない。

「こっちだ、こっち」

 また同じ声がして、それと同時にスタンと近くに何かが降ってきた。

 瞠目するイヴの目の前で、木の上から降り立ったその影はすっと立ち上がる。

 イヴとそう歳の変わらない少年が、銀色の瞳を細めてじっとイヴを見下ろした。日の光に透けて金のようにも見える茶色の髪が、風に揺れる。

 イヴは流れなくなった涙を目尻に溜めたまま、呆然と綺麗な色をした瞳を見つめた。

 そんな彼女に、少年はもう一度問いかける。

「お前は誰だ?」

「……イヴ」

 呟くようにイヴが答えると、少年の眉がぴくりと動いた。何かを考えるようにイヴの名をぼやき、それから「ベレスフォード伯爵家か」と合点がいったような顔をする。

 どうしたのかと首を傾げるイヴを見つめ、少年はまた問いかけた。

「こんな所で何をしている。まさか迷子か?」

「……庭園で、猫を見つけて、追いかけたら迷っちゃって……」

 少年の視線が、イヴの腕の中の猫に向けられる。

 抵抗など知らないというように抱かれている白い猫を見て、少年は目を丸くした。

「お前、よくそいつを抱けるな」

「え?」

「俺にはちっとも懐かないくせに……」

 不服そうな顔を作って、少年が子猫に手を伸ばす。

 それに気付いた猫は途端にしがみつくようにイヴのドレスに爪を立てて、かぷりと少年の指を噛んだ。

「ほらな。餌付けしたってこれだ」

「あ、あなたの猫なの?」

「野良だろうし、俺の猫でいいんじゃないか」

 猫の首にリボンがついていたので、飼い主からはぐれたのかもしれないとイヴは思っていた。だから城の誰かに尋ねようと抱いていたのだが、少年の曖昧な答えについ首を捻る。それでも彼の物言いからするにリボンをつけたのは彼のようだったので、それで納得する事にした。

 猫の名前を尋ねると、少年はこてんと首を傾げて猫を見つめる。

 猫は未だにがじがじと少年の指をかじっていた。

「……ネコ?」

「え、ネコ?」

「見かけたら構うだけで、名前なんて考えた事もない」

 少年は優しく猫の口を押さえ、指を抜く。

 すっかり歯型がついて血まで滲んでしまっているが、彼に気にした素振りはなかった。

 慣れているのか、寛容なのか。イヴには判断がつかないが、とりあえずこの猫を気に入ってはいるようだった。

「お前が名前をつけるか? こいつもお前に懐いているし」

「いいの?」

 ああ、と少年が笑って頷く。

 イヴは猫を見下ろし、首を撫でた。

 猫は気持ちよさそうに目を細める。

「……キティ」

 ぽつりとイヴが呟くと、少年は可笑しそうに口元に笑みを浮かべた。

「子猫ちゃん、か。たいして変わらないじゃないか」

「だ、駄目なら他のを考えるけど」

「いや、いい名だ」

 眩しそうに目を細めた少年が、おもむろに胸のポケットの中から万年筆を取り出す。

 何をするのかと見つめていれば、彼は猫のリボンの端に今つけられたばかりの名を綺麗な字で綴った。黒い文字が僅かに滲む。

 どこか満足げに笑う少年を、イヴは不思議そうに見つめた。靴のヒールがあるからか、並んで立つと目線がほとんど変わらない。

「そういえば、あなたの名前は?」

「俺?」

 きょとんとした少年は、その内眉を下げて苦笑を浮かべる。

「俺はアルフレッド。アルでいい」

 少年の手が伸びて、イヴの頬に残る涙のあとを優しく拭った。

「……アル」

「ああ。よろしく、イヴ」

 はにかむような彼の笑みに、イヴもつられるように笑みを零す。


 これが、イヴとアルフレッドの出会いだった。

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