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キティ  作者: 岸部碧
13/19

13

 穏やかに吹く風に混ざって、潮の香りが微かに香る。

 額にうっすらと汗を浮かべながら、イヴはそれを切るように剣を振るっていた。

「お嬢様、昼食のご用意ができましたよ」

 不意に優しい声が聞こえて振り返れば、真っ白の髪を綺麗に撫でつけた老人がイヴのいる庭に続くテラスに佇んでいた。

 皺を深めるように笑みを浮かべた老人は黒の燕尾服をびしりと着こなし、ぴんと背筋が伸びたその様は全く年齢を感じさせない。

 イヴは溜息を吐いて、額の汗を拭った。

「ケネス、お嬢様と呼ぶのはやめてって言ったはずだけど」

「それはできかねますお嬢様。イヴお嬢様はおいくつになろうとお嬢様でございますから」

「私は貴族令嬢の前に騎士なんだから、そんな呼び方されても」

「お嬢様はたとえどのようなご身分におなりになろうと、私共の大切なお嬢様でございます」

 もう何を言っても無駄か。

 柔らかく微笑む彼にイヴは内心舌打ちしたい気持ちになったものの、溜息を吐くに止めて諦める。


 ベレスフォード伯爵家のタウンハウスに滞在するようになってから、既に五日が経った。

 社交シーズンになったばかりの王都は領地から貴族が出てきて更に賑やかだが、嫁いだクレアはともかく社交嫌いのルイスはまだ領地から出てこず、ケヴィンは屋敷を使わず詰所からふらりと気まぐれに夜会に参加する。

 お陰で、屋敷はイヴと管理人や数名の使用人のみとなっている。大変清々しい。

 しかし誰もいない間も屋敷の管理をしてくれているケネスを始めとする使用人達は、数年振りに屋敷を訪れたイヴを甲斐甲斐しく世話したがった。

 イヴは少なくとも騎士になってからは度々顔を出す程度で、こうして滞在した事は一度もなかった。

 それが彼らに心配させてしまったようで、いきなりしばらくタウンハウスで過ごすというイヴを大歓迎し、隙あらばドレスを着せようと迫る始末である。

 確か自分は休暇を取ったはずなのだが、逆に疲れている気がするのは何故なのか。

 そう溜息を吐きつつも、イヴは突然の来訪の理由も聞かずにいてくれる彼らの優しさに甘んじていた。


 だから、自分と同じく突然この屋敷を訪れる者など、考えもしなかったのだ。

「お嬢様、ご友人がお見えになっていますよ」

 ぼんやりと窓の外を見ながら食後のお茶を飲んでいると、ノックの後に扉の外からケネスがそう告げた。

 嫌な予感がする。武人として直感などは鋭いつもりであるが、これはもっと本能的な部分での予感だ。

 しかし事実暇を持て余しているイヴには断る理由もなく、「こちらへお通ししても?」と尋ねるケネスに了承の返事をするしかなかった。

「久しぶりー、イヴ嬢!」

 扉が開かれるのと同時に、能天気とも言える声がしてイヴは堪らず溜息を吐いた。

 それに対し「ひどいなあ」と苦笑するのは、やはりクリスである。

 一応は応接室の役目を果たす部屋を一度くるりと見回してから、クリスはソファに座ったままのイヴを見下ろす。

「突然押しかけて悪いけど、座ってもいい?」

「非公式の場ですので気楽にどうぞ」

「そりゃどーも」

 笑って向かい合うように腰を下ろしたクリスにも、おずおずと下女が紅茶を出す。

 クリスは、基本的に女というもの全般に対して不信感を抱いている。貴族女性にはその傾向が強いが、貴族の傍にいる下女や侍女達も彼には同じように見えるのだろう。

 貼り付けた笑みに惑わされる女もどうかと思うが、それはイヴが口出しする事ではない。

 イヴは再び溜息を吐き、使用人達を下がらせた。

「気を遣わせちゃったかな」

「クリスの為だけじゃないから気にしないで。私とクリスに繋がりがあるなんてみんな知らないから、驚いてるんだよ」

「あー、それもそうか」

 今思いついたとでも言うように、クリスが苦笑を浮かべる。

「ほとんど毎日顔をあわせるのが俺達は普通だけど、それは城にいないとわからないもんなあ」

「城にいても、まさかただの側近が次期宰相にこんな馴れ馴れしい態度取ってるなんて思わないよ」

「馴れ馴れしいって……親しいって言ってくれる方が嬉しいんだけど」

 若干刺々しい言い方に苦言を呈すが、イヴはカップをソーサーに戻すだけだった。

「それで、今日は何の用? 城で何かあったの」

「いや。アルもエイルマーもちゃんと仕事してるし、もちろん俺も」

「そう……」

 やはり、そんな心地でイヴは呟く。

 ――やっぱり、私はいらないか。

 自分がいなくなって誰かが困る事を、心のどこかで期待していた。そんな自分に気付いて、思わず嫌気が差す。

「でも、大丈夫とはとても言えないかな」

「え?」

 驚いて、知らず俯きそうになっていた顔を上げた。

 丸くなったアイスグリーンの瞳を見て、クリスは力無く笑う。

「アルは結構疲れてるよ。一日中筋肉達磨がべったりだし、怪我があるから脱走もできないし、陛下や親父殿はじゃんじゃん仕事寄越すみたいだし……まあ、一番堪えてるのはあんたの事だけどね」

 ぎゅっと、心臓を握り潰されたような気がした。

 意図せずとも顔が歪んでしまう。

「まさか、罪悪感を感じてるの? そんな馬鹿な事してるくらいなら仕事して」

「まあ、だいたいそんな感じだけど、それよりもあんたが傍にいないのが一番辛そうだよ」

 訝るような目をしていたイヴが、少しだけその目を丸めた。

 クリスは紅茶を一口飲み、困ったとでも言うように肩を竦めてみせる。

「だって二度目だろ? イヴ嬢が突然いなくなるのって。今回は直前報告があったけどさ、結構ストレスきてるみたいだよ」

「……」

「……あっ、別にイヴ嬢を責めてる訳じゃなくて!」

 焦り始めたクリスにイヴは緩く首を振った。

 彼がそんなつもりで言っているのではない事はちゃんとわかっている。

 だが事実、イヴの行動がアルフレッドを悩ませている。それは傍にいなくてもわかってしまうのだ。

「……私、やっぱり断ればよかった」

 掠れた声でぼやき、窓の外を見つめる。

 そこにそびえる美しい城を、何年も何年も見つめ続けた。

 芸術なんてわからないイヴには、どんなに素晴らしい建造物もただの箱だ。

 それなのにあの城が特別に思えてしまうのは、あそこに彼がいるから。

 欲を出すべきではなかった。

 少しでも近づきたいなど、考えるべきではなかったのだ。

 もう彼は自分の事など覚えていないだろうと半ば投げやりに考えて、ベイリアル侯爵の言葉に頷いてしまった。

 三年前の自分を詰った所で何にもならないというのに、とことん女々しい自分が嫌になる。


「あーっもう! ほんとイライラする!」

 突然、クリスが叫びを上げた。

 ぎょっとするイヴを、クリスが睨むように見つめる。

「あんたもあいつも自己完結しすぎなんだよ。なんで傍にいるのに聞かないんだよ、この馬鹿!」

 ぐしゃぐしゃと髪をかき乱すクリスは、確かに苛立っているようだった。

 飄々とした所のある彼がこんなに苛立ちを露わにする姿は初めて見た。

 唖然とするしかないイヴを見てクリスは盛大に溜息を吐くと、どこか不貞腐れたような顔をする。

「もう面倒だから今日来た用件言うけど、俺、今夜親父殿の言いつけで夜会に出ないといけないんだよね。だからイヴ嬢付き合って」

「は?」

「休暇なんだから、別に俺がエスコートしてもいいだろ? 女避けになってほしいんだよ」

 ついさっきまでの驚きが抜けないイヴは目を丸くしつつも、なるほどと納得した。

 しかし、納得するのと引き受けるのとでは違う。

「そんなの急に言われても、私ドレスも何も持ってないし」

「ベイリアル家をなめないでくれる? ドレスも全部用意済み」

「……なんで私のサイズを知ってるの」

「んー、企業秘密とでも言っておこうかな」

 へらり、クリスは得意な笑みを浮かべた。

 対するイヴは怪訝そうに顔を顰める。

「ダンスなんて踊れないから無理。他をあたって」

「それ、嘘なんだってね。アルが言ってたよ、四拍子の軽いものなら躍れたはずだって。昔一緒に躍ったそうだけど、運動神経のよさが自慢のベレスフォード伯爵令嬢ならまだ踊れるだろ?」

 確かに躍った。だが一体何年前の話だと思っているんだ。

 そう反論しようとしたイヴを制するように、クリスが先に言葉を続ける。

「アルには、この件に関しての許可はもらってる」

「え……」

「主人の許可があるんだし、いいよね」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 少しずつ咀嚼して、ゆっくりと飲み込んでいく。

 そうすると尚更信じたくなくて、イヴは膝の上で強く拳を握った。

 ――アルはもう、覚えてないんだ。

 最初に約束を破ったのは自分だと言うのに、そんな理不尽な事を考えて目の前が暗くなる。

 楽しげなクリスの笑みも、もはやイヴは見る事ができなかった。

 暗い夜道に一人で放り出されたような、胸にぽっかりと穴が空いたような、物寂しさが残るだけだった。


  *


 夜の帳が王国を包む。

 馬車から降りて案内されたダンスホールに入った途端、それまで愉快そうに話していた貴族の声が一瞬ぴたりと止んだ。

 遠慮なく注がれる視線に眉を寄せそうになるのを堪え、イヴはただ凛と背筋を伸ばして無表情を貫く。

 腕を絡め隣を歩くクリスは反対ににこやかに微笑を浮かべ、ゆっくりとイヴをいざなうようにして歩いた。

 五歩ほど歩くと、貴族達は思い出したようにひそひそと囁き始める。

「珍しいわね。クリス様が、アルフレッド殿下が参加なさらない夜会にお越しになるなんて」

「それより、クリス様のお隣にいらっしゃるのはどなたかしら」

 耳障りだ。

 色めく貴族共にイヴが心中で毒を吐いていると、一人の男性が近づいてくるのがわかった。

 足を止めたクリスと共に彼を見つめれば、男は二人の前に立って朗らかに笑んだ。

「ようこそお越しくださいました、クリス様」

「キャドバリー伯爵、本日はお招きありがとうございます」

 完璧な王子様スマイルを貼り付けた次期宰相に合わせて礼をすると、キャドバリー伯爵の視線がイヴに向く。

「失礼ですが、そちらは?」

「彼女とは初対面だそうですね。紹介します」

 興味深そうなその目が気に食わないが、イヴはクリスの手に自分の手を重ね、ドレスの裾を摘んで軽く腰を折った。努めてお淑やかに、控えめな笑みをたたえて。

「ごきげんよう。イヴ・べレスフォードですわ」

 こういう時に感情を表に出さない術が役に立つと思う。

 キャドバリー伯爵が驚いたように目を丸める後ろで、遠巻きにこちらを窺っていた貴族達がまたざわめいた。

 それもそうだろう。長く社交界から遠ざかっていたべレスフォード家の末娘が、次期宰相のパートナーとして突然現れたのだ。

 それでもイヴが微笑を浮かべていると、キャドバリー伯爵が「これはこれは」とまた朗らかな笑みを見せた。

「あのレディ・イヴにこうしてお会いできるとは。以前から一度お会いしてみたいと思っていたのですよ。いやはや、想像以上にお美しいですね」

 自然な仕種で伯爵がイヴの手をとって、手の甲に口づけが落とされる。

 ただの挨拶だとわかっていても、さすがに眉を寄せずにはいられなかった。

 すかさずクリスが軽く手を引き、ハッと思い出したようにイヴは表情を緩める。

「今夜はどうぞお楽しみください」

 最後にまた微笑んで去っていく主催者の見送り、イヴは堪らず息を吐いた。

 彼女の様子を気にしつつも次々に挨拶に来る貴族の相手をするクリスと共に、イヴもにこやかには無理でも微笑みながら軽く挨拶を交わす。

 ――これだから、夜会は好きじゃないんだ。

 イヴは、もう一度心中で溜息を吐いた。


「イヴ嬢って愛想笑いできるんだね」

 一通り挨拶が終わり落ち着いた頃、壁際に寄ってからクリスが可笑しそうに呟いた。

 ほんの一瞬、社交界用の笑顔が剥がれる。

「一応貴族令嬢だし、礼儀作法も騎士としてのものなら習ったよ」

「パーティーは二回目だっけ」

「そう。ルイス兄様達が煩くて、デビューの為に一回だけ小さいパーティーに出た」

 腹部を締め付けるコルセットを気にしつつ、イヴの手はついつい左腰に触れた。

 先程から何度か繰り返されているそれに、クリスが不思議そうに首を傾げる。

「どうかした? やっぱりサイズ合ってなかったかな」

「いや、そうじゃなくて。剣を下げてないと落ち着かない」

 それだけではない。スカートをはくのだって随分と久しいのだ。

 もう何年もズボンをはき、腰に剣を下げ、髪だって顔にかからないくらい短くした。

 それが今夜突然コルセットをつけ、華やかなドレスを纏い、ヒールの高い靴をはき、宝石に飾られている。かつらまでちゃっかり用意されていた時は驚きを通り越して感心した。

『予想通り、よく似合うね』

 屋敷を出る前にそう言ったクリスは、決して偽りの笑みではなかった。

 だが素直に喜べないのは、自分に必要なものではないからだろう。

「そろそろ躍らないとやばいかな」

 周囲をちらりと見遣り、クリスがぼやいた。

 視線の先には、こちらをちらちらと見る令嬢達。

 改めて本当に女が好きではないらしいと思いつつ、イヴは細く息を吐いた。

「ダンスのお相手をしてくださいますか? クリス様」

「……ええ、もちろん」

 悪いね、と苦笑して、クリスはイヴに手を差し伸べる。

 大きな手に自分の手を重ねて、イヴは緩く首を振った。

2月13日 誤字訂正

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