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キティ  作者: 岸部碧
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「何を考えておられるのですかあなたは!!」


 窓すらも割れるのではと思わせる怒号が聞こえたような気がして、クリスはふと振り返った。

 今日は昨夜外泊した親友が戻ってくる為、彼の執務室に向かっていたのだが、くるりと踵を返して歩き出す。

「アル達だな、あれは」

 間違いなく聞こえた声は父親のものだ。そして、彼をこれほど怒らせる事が可能なのは自分、そしてアルフレッドくらいのものだろう。

 不思議そうに声がする方をちらちら見ている侍女や衛兵らを気にする事もなく足取り軽く歩いていけば、次第に怒声が大きくなり、そそくさと通行人が避けた所にぽつんと三人が突っ立っている。

 一人は廊下のど真ん中で顔を赤くして怒鳴り散らす男、ベイリアル侯爵。

 彼の前にはやはりバツが悪そうな顔をしているアルフレッドと無表情を貫くイブがおり、クリスはついつい苦笑を漏らした。

 二人の泥に塗れた服には所々血がついており、道中に何かがあった事は明白である。

 よく響く怒声を浴びる友人達に、さてどうやって声をかけようか。

 そんな時、目を伏せ微動だにしなかったイヴが顔を上げた。

「ベイリアル侯爵、責任は私にあります。これ以上のお叱りは私一人でお許しください」

「イヴ……?」

 アルフレッドが怪訝そうに名を呼ぶが、イヴはベイリアル侯爵を見つめたまま。

 ベイリアル侯爵は初めてイヴが口を挟んだ事に驚き、瞠目している。クリスもそうだった。

「アルフレッド殿下は怪我をなさっています。急ぎ治療を」

「イヴ!」

 アルフレッドの焦ったような声が諌めるように飛ぶ。

 二人の風貌からして無傷だと言われる方が疑わしいが、彼女が説教を中断させてまで告げるのだからただの掠り傷ではないはずだ。

 ベイリアル侯爵がぐっと眉間に皺を寄せた。

「何故それを早く言わんか! 行きますぞ殿下!」

「なっ、別に侯爵が来なくても……おい、聞け!!」

 顔色を変えたアルフレッドに構わず、説教を中断したベイリアル侯爵は医療棟へ向かってずんずん連行していく。

 逃れようともがくアルフレッドの左腕に不自然に赤く染まった布が巻かれているのに、クリスはそこで初めて気がついた。

 改めてイヴを見てみれば、彼女は遠ざかっていく主人を静かに見送っている。アルフレッドの腕に巻かれた布と同じ色の服が大きく引き裂かれていた。

「イヴ嬢は行かないの?」

 声をかけると、イヴが振り向いて礼をとる。彼女に兵の礼をとられるのはあまり好きではないが、人通りの多い廊下では仕方がない。

 イヴはアルフレッドの方をさっと一瞥すると、クリスを見上げた。

「私が同行してもできる事はありませんから」

「ふうん。それで、あんたはどこ行くつもり?」

「陛下への報告を。……それと、少し頭を冷やしてきます」

 人形のような顔が僅かに歪み、それを隠すようにイヴは一礼して去っていく。

 クリスは呆然とその背を見つめるしかなかった。


「……そういえば、アルが怪我するなんて久しぶりだな」

 ようやくそんな呟きが零れたのは、既にイヴの姿が見えなくなってからだった。

 クリスは記憶を辿りながら、医療棟へと足を踏み出す。

 アルフレッド自身がそこそこ腕の立つ男なので、襲われたりしても彼が怪我をする事は滅多にない。

 クリスが覚えている限り、最後に怪我をしたのは城壁から落下しての打撲と捻挫だ。目の前を鳥が飛んでいって驚いたなどと言い訳していたが、とにかくアルフレッドの不注意が原因だろう。

 少なくとも三年前にイヴが側近になってから、他者の悪意によってアルフレッドが傷つけられた事は一度もなかった。

 つまり、今回はいつものお忍びにはなかったケースという事になる。

 詳しい事情は知らないが、様子を見る限りあの腕の怪我はアルフレッドの不注意という訳ではないだろう。誰かの悪意によって振りかざされた何かが、彼を傷つけた。

 彼を守るはずのイヴが何を感じたかなど、想像するに容易い。

 クリスは窓の外を見上げ、眉を寄せる。

「……雲行きが怪しいな」

 晴れ渡る空を睨む彼の呟きは、誰にも届く事なく消えていった。


  *


「……ほう、アルフレッドが怪我を」

 興味深そうに呟き、国王が書類からイヴへと視線を移す。

 王子のそれよりも幾分広く豪勢な執務室には、国王とイヴしかいない。

 イヴがこの部屋に入る時、たいてい国王の側近は席を外す。その意図がどこにあるのかイヴは知らないが、全てを知る国王と話す場に他人がいないのはありがたい事だった。

 賊の件を含む視察の報告を終えたイヴは後ろで腕を組み、綺麗に直立したまま肯定の意を返す。

「利き手ではありませんので、執務自体にさほど影響はないかと思われますが……、私がついていながら、お守りするどころか逆に守られてしまい……殿下に怪我を負わせてしまいました。申し訳ありません」

「よい、気にするな。死なれたり致命傷を受けられると困るが、その程度なら構わん。適度に痛い目に遭っていないと、人間はすぐに驕る」

「ですが、私は殿下をお守りする為に……」

「それがあなたの悪い癖だ、イヴ」

 呆れたような、出来の悪い子供を見るような目をして、国王がぼやく。

「あなたの志だか野望だかには圧巻だが、気持ちだけで人を守れたら苦労はしない。いくら腕を磨こうと、掠り傷一つつけさせずに生涯守りきるなど不可能だ。驕るのも大概にしておけ」

「……確かにこれは驕りでしょうが、殿下が傷ついて平静を保つなど私にはできそうもありません」

 何かを堪えるような声に、息子と同じ色の瞳が僅かに見開いた。

 いつもならお小言も無表情を貼り付けて受け流してしまうイヴが、どういう訳か意見してくるではないか。

 イヴは聡明な女だ。

 自分がエゴイストであると理解し、受け入れ、それでも尚それを貫こうとする。誰が何を言おうと自分の意志は変わらないのだから、自分も無意味に言い返したりはしない。

 少しだけ俯いた顔が苦痛に歪んでいるのを見て、国王は彼らしからぬニヒルな笑みを浮かべる。

「……今初めて、昔のあなたに会ってみたかったと思ったよ」

 聞こえた呟きに、イヴはどこか怪訝そうに微かに眉を寄せた。

「アルフレッドは、面白い事や楽しい事は他人と共有しようとするだろう。誰が教えたのか知らないが、私はあれが結構気に入っている。独りに慣れてしまっては、共有しようという発想が難しいものだからな」

 孤独。

 その言葉がイヴの中で重く響いたのは、それを口にした彼の瞳が一瞬揺れた所為だろう。

 国王は何かを振り切るように息を吐き、またじっとイヴを見つめる。

「……もう随分昔だ。一度だけ、彼の口からあなたの名を聞いた事があった」

 アイスグリーンの瞳が丸くなった。

 そもそも、国王と事務報告以外の言葉を交わす事自体が滅多にない。彼が息子を語る事など一度もなかった。

 国王はイヴの反応に気をよくしたのか、楽しげにくつくつと喉で笑う。

「恐らく聞いているかと思うが、あの頃の私は本当に忙しく、息子と食事をする事もできなかった。だが一度ベイリアルに休めと叱られて、ようやく家族揃って晩餐をした。その時に、アルフレッドがあなたの話をしてくれた」

「殿下が……私の、話を……?」

「ああ、ちょうどあなたが初めてアルフレッドと会った日だろう。今日は見た事のない少女に会ったのだと、その子と遊んだのだと教えてくれた。とても楽しそうだったよ」

 息子とよく似た顔が、ふっと笑みを浮かべる。

「――アルフレッドから『イヴ』という名を聞いたのは、あれが最初で最後だった」

 どこか自嘲を含んだそれが大切な彼と重なってしまって、イヴは決して見られないように拳を強く握った。


「……陛下、私は昔から何一つ変わっておりません」

 搾り出した声は掠れ、ひどく情けない。

「脆弱で、我儘で、傲慢で――臆病な、ただの小娘です」

 確かに昔に比べて無邪気ではなくなった。感情を隠す事にも慣れた。

 しかし、本質は何も変わっていない。

 イヴはあの頃の、小さな少女のまま。

 何も変わらない。変えられない。

 それが歯がゆくて、もどかしくて、けれど変わる事にも恐怖を覚える。

 思わずギリッと奥歯を噛み締めた。


「……イヴ、来なさい」

 とても優しい声を聞いた気がして、イヴは改めて国王を見つめる。

 彼は無表情でちょいちょいと手招きをしていた。

 不思議に思いつつも命令通りに彼の傍に歩み寄ると、大きな手のひらがぽんっと頭を撫でる。

 驚いたイヴの瞳が丸くなるのを見て、国王は満足そうに笑った。

「私は子育てなどろくにした事がないからよくわからんが、あなたは少々気張りすぎだ。小娘なら小娘らしく、素直に甘える事くらいできるだろう」

「っ、そんなの、できません」

「何も私に甘えろと言っている訳ではない。むしろ甘えられても困る。あなたが甘えられる者に甘えればよい」

 それがアルフレッドなら嬉しいのだが、と付け加え、苦笑と共に手が離される。

 イヴは苦虫を噛み潰したような気持ちになった。

 アルフレッドは、イヴが一番甘えてはならない相手だ。

 彼には、彼だけには決して弱い自分を曝け出す訳にはいかない。――曝け出してはいかなかったのに。

 涙で歪んだ視界の中で瞠目していた彼を思い出して、胸が苦しくなる。

 大切な彼に怪我を負わせた挙句あんな失態を犯すなど、もし許されるなら今すぐにでも自ら首を跳ねてしまいたい。

 生憎、イヴはそうやすやすと職務を放棄できる立場ではない。ましてや主人を守る為に使うべきこの体を、自分の身勝手な後悔と罪悪感などの為に傷つける事も許されない。

 それが幸か不幸かは、今のイヴにはわからなかった。

 ほんの少し浮上した気持ちがまた泥沼に沈んでいくのを感じていると、国王が呆れたように溜息を吐く。

「イヴ、休暇を取れ」

「……え?」

「アルフレッドの側近になってから、ろくに休暇を取っていないだろう。ちょうどいい機会だ、一週間ほど城から出て休め」

 思わぬ言葉に瞠目するイヴに、国王は淡々と告げる。

 城に勤める者はその職業にもよるが、申請をして最低でも一月に二日は休みがもらえる。後はそれぞれ仕事の都合に合わせて休暇を取る。

 しかし国王の言うように、イヴは三年前から休暇の申請は一度もしていなかった。

 唯一の側近であるイヴが主人から離れる訳にはいかなかったし、何より休息ならば彼が取る時に一緒に休めている。必要性など感じなかった。

 だがそれを今言い渡されるという事は、イヴは不要だと言う事だろうか。

 ただでさえ沈みがちな気持ちに足を引っ張られて、何もかもを悪い方向へと考えてしまう。

 僅かに顔を青くすると、国王は「そうじゃない」とひらひらと手を振った。

「私個人としては、あなたが辞めたいと言うまで側近をやらせるつもりだ。だが今の状態でアルフレッドの傍にいるのは、あなたが辛いだろう。一週間主人も仕事も忘れて、ゆっくりしろ。自分の中できちんと整理して、またアルフレッドの面倒を見てやってくれ」

「……わかりました」

「アルフレッドには私からの命だと伝えればよい。その方が楽だろう。代わりも私が適当な者を選んでおく」

 苦笑を零す国王に、イヴは礼を述べて頭を下げる。

 アルフレッドの傍を離れるのは、不安と恐怖が付き纏う。遠い昔、あの時もそうだった。

 顔を上げたイヴをまっすぐに見つめて、国王は穏やかに目を細めた。

「一週間で戻るか戻らないかは、お前次第だ。延期したければクリスでも使って知らせろ。戻りたくなければちゃんとその旨を書類で提出しろ」

「……陛下」

「この城で、俺はお前が戻るのを待っているよ」

 初めて聞く、彼の少し砕けた口調は、イヴの胸に柔らかな微笑と共に深く染みこんでいった。

2月12日 誤字訂正

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