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キティ  作者: 岸部碧
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 足元で呻く男を見下ろし、アルフレッドはぐいっと手の甲で頬についた血を拭った。

 少し軽率な行動だったと内省する。

 簡単に言えば、女についていった先で蹲る男を見つけた。男に手を貸そうと近づいたところ、女と男が襲いかかってきた。

 嵌められたのだとそこでようやく気付き、彼らの相手をしている内に仲間が数人現れ、最後の一人が地に伏すまでに随分と時間がかかってしまった。

 アルフレッドが周囲を軽く見回してみるが、まだ仲間が潜んでいる様子はない。

「……まんまと騙された。劇団にでも入ればよかったのにな」

 少し離れた場所に転がった赤毛の女を見つめ、静かにぼやいた。

 乱れた呼吸を整えながら、元来た道を引き返そうと足を踏み出す。

 恐らく、あの場所にとどまったイヴも襲われたはずだ。大丈夫だろうが、心配せずにはいられない。

 逸る気持ちを抑えて駆け出した時、ガサリと茂みが揺れた。

 すぐさまアルフレッドは振り返り、音がした方を睨みつける。しかしそこに佇む人を見て、銀色の瞳を僅かに見開いた。

「……イヴ」

 名前を呼べば、周囲を確認するように見ていた彼女がアルフレッドに視線を向ける。焦燥が滲んだ表情が、少しだけ和らいだ。

「やっと見つけた……アルフレッド、怪我は?」

「いや、大丈夫だ。お前は?」

「平気」

 息を弾ませたイヴは、アルフレッドの返事を聞いてどこか安堵したように胸を撫で下ろす。

 砂や血で汚れた彼女の姿を見る限り、やはりアルフレッドの予想は間違っていなかったのだろう。アルフレッドは沸き起こる苦い気持ちを、奥歯を噛む事でやり過ごした。

 それには気付かず、イヴは立ち止まった彼の元へと駆け寄る。

「途中で会った商人に頼んだから、すぐに駐在の騎士が来ると思う」

「そうか」

 賊をこのまま放置しておく訳にもいかないので、騎士が来るまで待ってその後は引き渡してしまえばいいだろう。

 素直にアルフレッドが礼を述べようとした時、イヴの足首を武骨な手が掴んだ。彼女が反応する前に足を引っ張り、バランスを崩したイヴが転倒する。

「イヴ!」

 弾かれたようにアルフレッドが声を上げた。

 顔を上げたイヴの目の前には、タガーを振りかざす男が迫る。剣呑な光を放つ刃が振り下ろされた。

 間に合うか、間に合わないか。

 歯を噛み締め、それでもイヴは足掻くように剣を抜いた。


  *


『アルフレッド、お前の側近候補を見つけた』

 凛とした声で言い放った国王に、アルフレッドは素っ頓狂な声を上げそうになるのをなんとか堪えた。

 アルフレッドが十六の誕生日を迎え、しばらく経った頃の事である。

 昼間から呼び出すなんて珍しいと思いつつ国王の執務室へ赴けば、そこには国王とベイリアル侯爵が何やら神妙な面持ちで待ち構えていた。

 だからとても重要な話なのだと内心どきどきしていたというのに、何故側近の話になるのか。

 アルフレッドは訝るように、椅子に腰かけた父を見つめる。

『北のサルク騎士団の者で、訳あって階級は持たないそうだが実力は副団長以上らしい。今までの側近とは馬が合わなかったお前も、この騎士となら合うと思うのだが』

『……そうお思いになる根拠でも?』

 窮屈を嫌うアルフレッドの側近は今まで何度か変わり、半年ほど前からは誰もついていない。

 別にいびり倒したり、辞めるよう仕向けている訳ではない。ただ、双方にとっていい関係がどうしても築けないのだ。

 アルフレッド個人は側近の必要性を感じない。執務も一人でこなせるし、いずれ王になった時も補佐は宰相のクリスが行うのだ。問題はないだろう。

 しかし、大人はそれでは納得しない。

 納得しない大人代表の国王は、ちらとベイリアル侯爵を見遣った。

『私はまだ会っていないが、ベイリアルが既に数回話をしている』

『言い分も何もかもが簡潔で、清々しい娘です。アルフレッド殿下の側近になる気はあるようですが、殿下の意向にそぐわない行動はしたくないと言い張り……』

『待て、待ってくれ。娘だって?』

 まさに信じられないものを聞いたと、アルフレッドは眉根を寄せる。

 今までの側近は皆男だった。まさか、男だから気に入らないと思われていたのか。それは心外だ。

 そもそもあの野蛮と名高いサルク騎士団の中で、団長のケヴィンに次ぐ猛者が女だと言うのか。そんな話を簡単に信じられるはずがない。

 しかし国王は頷き、ゆったりとした動作で机の上にあった書類を手に取った。

『興味深いだろう。弱冠十六歳にして、エイルマー副団長を打ち破るそうだ。現在、五十三戦中四十八勝だとか。さすがにベレスフォード団長には未だ勝った事はないそうだが、王子付き側近には充分だろう』

『十六って……私と同い年の娘が、あのエイルマーを?』

『そうだ』

 純粋に驚き、目を丸くするアルフレッドを、国王が静かに見据える。


『名は――イヴ・ベレスフォード』


 どくん、と心臓が強く跳ねるのを感じた。

 その名を聞いた瞬間、一瞬とも永遠ともつかない間、全ての音が遠のいた。

『イ……ヴ……?』

 掠れた声が紡いだ名前は、もう何年も耳にしなかったものだ。

 明らかに顔色を変えたアルフレッドを見て、国王は満足げに口元に笑みを描く。

『どうだ? 上手くやっていけそうだろう?』

『イヴが、どうしてイヴが騎士なんかに……』

『そんな事は知らん。私より本人に会って聞けばよい』

 あまりにも素気ない言葉ではあったが、アルフレッドにはそれを気にする程の余裕はなかった。

 嫌な汗が背筋を伝っていく。

『陛下は……イヴを、私の側近にしろと仰るのですか……』

『ああ、最初からそう言っているつもりだが』

『っ……そんな事、できる訳がない!』

 バンッとアルフレッドの拳が強く国王の机に叩きつけられた。

 怒気を孕んだ銀色の瞳が睨むように見据えても、国王は平然とした顔で見ていた書類を机に放り出す。それには、イヴの名がしかと記されていた。

『イヴを側近になんて、何を考えておられるのですか! イヴが側近になれば、私が大人しくなるとでも!?』

『それは万々歳だが、そんな事は考えていない。何を憤る事がある? 私は彼女にとってもお前にとっても最善だと思う道を提示したまでだ』

『最善? 私の傍に置き、危険に晒す事が?』

『ならお前は、彼女がごく普通の令嬢に育っていたとしても決して近付かなかったと言えるか? 自ら声をかけなかったと誓えるか? 他の令嬢と等しく扱えたと本気で思っているのか?』

 鋭い国王の指摘に、アルフレッドはぐっと押し黙る。

 それこそできるはずがなかった。アルフレッドにとって、イヴは何年も前から唯一無二の娘なのだから。

『お前が側近にしようとしまいと、彼女は騎士だ。騎士と趣味で剣を嗜む令嬢とでは、天と地ほどの隔たりがある。もう、お前が知るベレスフォード伯爵令嬢ではないだろうよ』

『……それでも、イヴはイヴです』

『ああ、そうだ。だから私達はお前の側近に望んでいる。彼女が騎士になった意味を考えてみろ』

 机の上で、アルフレッドの手が固く固く握り締められる。

 国王はそれを一瞥し、俯いた彼を見つめた。

『どうする? アルフレッド』

 ゆっくりと手が下げられ、アルフレッドは僅かに俯いたまま姿勢を正す。

 国王に、父に情けない面を晒す訳にはいかない。

 ぎりっと、アルフレッドの奥歯が鳴った。

『……イヴ・ベレスフォードを、私の側近に迎えます』


  *


 イヴはただ瞠目した。

 剣を抜くはずだった右手は柄を握ったまま一寸も動かず、そればかりか金縛りにでもあったように体が動かない。

 否、動こうとすら思っていなかった。動く事を忘れてしまった。

 彼女に影を落とす彼は、見開いたアイスグリーンの瞳を見つめて微かに笑う。

「……怪我はないか? イヴ」

 優しく紡がれる名前に、世界がようやく時を刻んだ気がした。

 振り向いたアルフレッドの向こう側で、音を立てて男が崩れ落ちる。地に伏した男も、彼が握る剣も、赤く染まっていた。

 アルフレッドは剣を軽く振ってから鞘におさめると、未だ動けずにいるイヴの前に膝をつき、彼女の顔を覗きこむ。

「イヴ?」

 彼の左腕に、先程まではなかった傷がある。切り裂かれた服の合間から、血が滲んでいた。

 それを見て、イヴは急激に体温が下がった。それなのに心臓は気持ちが悪い程大きく動き、鼓動を響かせる。

 青白くなる彼女の顔色に、アルフレッドが慌てたように手を伸ばす。

「……どう、して……」

 しかし耳に届いたか細い声に、ぴたりと手が止まった。

 聞き返す間もなく、イヴが力を込めてアルフレッドを睨みつける。

「どうして私を庇った!!」

 怒りに染まった彼女の顔を、今度はアルフレッドが瞠目し、見つめた。

 彼女の怒鳴り声を初めて聞いた。いつもの冷ややかな眼差しとは違う、激昂に染まる瞳から目をそらせない。

「私はアルの側近なの! アルを守る為にいるの! 私はアルに守られる為にいるんじゃない! 私を庇わなければそんな怪我しなかった!」

「イヴ……」

「私はアルを守る為にっ……支える為に騎士になったのに! アルが怪我したんじゃ意味がない!」

 駄目だ、と思う。そう思うのに、イヴは口を噤む事ができなかった。

 長い間誰にも告げる事のなかった想いが勝手に溢れ出して、コントロールが効かない。

 冷えたはずの体はいつの間にか熱くなり、熱がじりじりと喉の奥や目頭を刺激する。

 自分を見つめる銀色の瞳が歪み、滲み始めるのに気付いても、もはやどうする事もできなかった。


「私は――私が、何の為に剣を取ったと思ってるの……!」


 崩れ落ちる積木のように、力無く俯いたイヴを見つめ、アルフレッドはただ瞠目するしかない。

 悲痛な声が胸を突き刺し、腕の怪我とは比べ物にならない程の痛みが溢れ出す。

 微かに肩を震わせる彼女に手を伸ばす事もできず、耳鳴りのような雨音が耳の奥で響いていた。


  *


『本日よりアルフレッド殿下のお傍に仕えさせていただきます、イヴ・ベレスフォードと申します』

 窓を雨が打つ音が耳障りな日。

 膝をつき頭を垂れる女の凛とした声を聞きながら、アルフレッドは顔を歪めずにはいられなかった。

 まだ一度も顔を上げていない彼女は気付いていないだろうが、わざわざ隠すつもりもない。顔を上げろと声をかければ、彼女は兵らしいよく通る返事をしてから姿勢を正した。

 アルフレッドはじっと彼女の顔を見つめる。

 騎士として実力はあるようだが、どうもそうは見えない。しなやかな体躯は十六の少女そのもので、顔立ちも年齢に相応しいというのに表情だけが大人びている。

 脳裏に父の言葉が蘇る。確かに、アルフレッドが知るイヴではない。

『……イヴ』

『はい』

『髪を、切ったのか』

 アイスグリーンの瞳が僅かに見開く。

 見つめるアルフレッドに臆する事もなくただ見つめ返していた彼女は、少しだけ首を傾げた。

『もう何年も前から変わっていませんが』

『……そうか』

『アルフレッド殿下は、私の事を覚えていてくださったのですか』

 淡々とした声音。感情の読めない表情。

 どれもが記憶の中の少女とは異なってしまっていたが、それでも、自分を見つめ返す瞳の輝きだけは変わっていなかった。

『忘れる訳がない』

 アルフレッドは眩しそうに目を細める。

 片時も忘れなかったなんて事はさすがに言えないが、いつもふとした瞬間に思い出す少女がいた。何年経っても色褪せる事なく、胸の奥に存在する少女。

 見ない間に綺麗になった。可愛いという言葉がとてもよく似合った少女は、美しくなっていた。

 イヴが綻ぶように、微かに表情を緩めて微笑む。

『もったいない、お言葉です』

 とくん、と胸が鳴るのを感じた。

 やはり彼女は特別なのだと、誰かが優しく訴えてくる。

 思わぬ再会には違いない。

 アルフレッドはイヴが社交界にデビューしたら、元々探すつもりでいた。胸の奥に燻る想いの正体を確かめる為に。

 それでも、どんな形であれ再び彼女に会えた事実は嬉しかった。


 喜ぶべきではないと、知りながら。

2月12日 誤字訂正

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