見えざる敵
それから二日間、彼女は欠かさず夜に僕のいるホテルに来た。
僕は彼女の誘いには応じなかったけれど、それでも彼女は来る。
「凛ちゃん、あんな可愛い子にあんな笑顔向けられて、どぎまぎしないの? 並大抵の男なら一撃で沈没してるわよ?」
ホテルのロビーでどこからか買ってきたズブロッカを飲みながら、小雪さんは僕に言った。
まったく、この人は夜になると酒を飲むのが習慣になっているみたいだ。
「いえ、別に。っていうか、いつから覗きをするようになったんですか?」
「昨日、偶然見えたのよ。まあいいわ。今日も来るんでしょうね、あの子」
「おそらく」
今は七時半だから、あと三十分ほどで来るはずだ。
「いつまで続けるのよ?」
「彼女が諦めるまで、ですかね」
「諦めるのかしらね」
小雪さんはソファに腰を下ろしたまま、缶をゴミ箱に投げ入れる。
「そういえば、小雪さんは昼間何してるんですか?」
僕は町の本屋でお気に入りの本を探しているか、ぶらぶらと歩いているだけだけれど、この数日の間、昼間に小雪さんの姿を見たことがない。
「それは女の秘密よ」
さては昼酒あおってるのか。
口に出すのはやめておこう。
「凛ちゃん」
小雪さんの表情が仕事モードに変わった。
「次長から連絡。指名手配中の殺人犯――卜部陽一っていう強殺犯なんだけど――が臨月町駅前で目撃されたそうなのよ」
この町は呪われてるのか?
短期間に指名手配犯が二人も来るなんて。
いや、卜部は一か月前から行方不明だったはずだ。逮捕できるチャンスと考えればいいのか。
「その情報、確かなんですか?」
「確かよ。だって、紫電さんが調べたことだもの」
紫電というのは特殊捜査課――これも次長が勝手に立ち上げた部署――のエースを張っている青年刑事だ。三十路くらいだが、次長からの信頼が最も厚く、様々な仕事を単独で請け負っている。もっとも、紫電というのは本名ではないのだけれど。
個人的には近寄りがたい。特に雰囲気が。
「じゃあ、ミスはありえないですね……って、紫電さん、いつ調べたんですか?」
「二日前、って言ってたわ」
そのまま逮捕してくれればよかったのに。
「どうしてその場で取り押さえなかったんでしょう?」
「多分、次長の指示でしょう。あの人の頭の構造は理解しがたいから。何か罠でも張ってるのよ、きっと。ま、それに紫電さんは有名人だしね、あっちの世界では」
小雪さんの昼間の行動が読めた。
「小雪さん、この件調査してたんですね」
「そう。ちょっと気になることもあってね……」
この件――卜部の逮捕――はお前たちで解決しろと次長から命令が下ったと前置きしてから
「変な疑問かもしれないけどね、河原田を逮捕する前に見た資料で、殺害方法がバラバラだったじゃない? あれにちょっとひっかかってたの」
確かに、おかしいといえばおかしい。
何故あんな多彩な殺し方をしなければならなかったのか。
多彩な殺し方にならざるを得なかったのだろうか?
「まあ、推理は凛ちゃんに任せる。まずはあの子を何とかしてあげなさい」
「あの子を何とかするって?」
「あのロリっ子シスターよ。あの子、多分暴力受けてるわね。カンだけど」
やはりそうか。
「どうしてわかるんです?」
「私がそうだったから……かな。ま、次長に拾われて今みたいにお気楽な生活してるんだけどね」
酒を毎日あおって、ちょっかいかけてくる堕落ぶりからは想像できない。
「ま、そこら辺の話はこの件が全部片付いたら話してあげるわ。私はちょっと調べものがあるから、部屋に戻るわね」
小雪さんは立ち上がって、ライトブルーのブルゾンのポケットに両手をつっこむ。
「警戒だけはしておきなさい。女の子を助けるのはいつだって男の特権なんだからさ」
小雪さんが自室に引き上げてから数分後、風舞さんは来た。
いつものように法衣姿で。
「こんばんは、十六夜さん」
「こんばんは」
今日の彼女は強引だった。
力のこもらない両腕で僕を引っ張り、セントラルビルの屋上にある観覧車の前まで連れてこられた。
そのまま、観覧車に引きずり込まれるように乗る。
「今日はいったいどうしたんですか?」
何か変だ。
彼女は俯いている。
「何か話したいことでも――」
僕が座るのを見届けると、彼女も座る。そして、彼女は挨拶以外で初めて言葉を発した。
「私、わからないんです」
分からないのは僕の方だ。何もかも分からない。この状況も、なぜ彼女がこうしているのかも。
けれど、吐き出しかけた言葉を飲み込んだ。
それは彼女の声が今までで一番沈鬱だったからだ。
「私は、ある人を探しています。でも、その人がその人じゃないみたいなんです」
そうか、彼女がこの町にいるのは人探しをするためか。
「ずっとずっと探してきました。そのためだけに、今まで生きてきました。でも、やっと見つけたその人は――」
僕たちを乗せた観覧車は高く昇っていく。
「どんな人なんですか、その人って」
しばらくの沈黙の後に答えが返ってきた。
「……すごく……残酷な人です。人を物のように扱って、人を駒のように扱って……用済みになったら切り捨てる人です」
震える声は怒りのためだろう。
それは僕が初めて見た彼女の一面だった。
「僕も探している人がいます」
どんな言葉が最適解なのかは分からない。
「いや、いました、かな。もう見つかりましたから」
観覧車は一番高い位置にある。
「どんな人ですか?」
「僕の居場所を作ってくれた人です。僕みたいな人間が静かに在れる場所を彼は与えてくれました。今は――以前よりはですけど――とても、居心地がいいところです」
僕の経験からはこれくらいしか語れない。
「ねえ、十六夜さん」
少しだけ落ち着いたようだ。
観覧車に乗ってから初めて僕の目を見た。
「あなたはどうして……黒服でいるのですか?」
やっぱりこれは変なのだろうか。
「これ、ですか」
仕事着は黒のスーツと決めている。
「怖いですか?」
「はい、最初は怖かったです」
僕は苦笑した。やっぱりそうだったのかと思ったからだ。
「これを着る訳か……刑事というのはね、人の死を間近で見ることが多い職業なんです。特に僕の所属していた部署は。いろんな人が目の前で死んでいきます。もちろん、無事に事件を解決できればいいのですが。でも、犠牲者は出てしまいます。だから、その人たちことを忘れないようにするためです。その人たちを弔う意味でもあるのかな」
今日は何だか僕らしくない。
彼女といるとついつい話してしまう。
「そう……だったんですか」
ぽつりと彼女は呟いた。
「言いたくなったら言ってください。話したくなったら話してください。その時は聞きますから」
それが今の僕に言える精一杯の言葉だった。
観覧車から降りると
「ごめんなさい、今日はもう帰りますね」
風舞さんはぺこりと頭を下げた。表情は観覧車に乗る前よりも幾分か和らいでいる。
「送りますよ。こんな遅くまで女性が独り歩きしていたら危険です。殺人犯がいるかも――」
僕の頭と身体が凍りついた。
目の前に、あの指名手配犯がいる。
卜部は爬虫類じみた顔と銃口を僕たちの方に向けた。
彼我の距離はおよそ十メートル。
まずい、こんな距離でパイソンなんてぶっ放されたら死ぬ可能性が高い。
危機感のためか、頭は高速で演算処理をする。
狙いは間違いなく風舞さんか僕だ。
動きがスローモーションになった。
卜部の右手の指が引き金にかかる。
銃口から弾の軌道を読めと頭脳が体に命令する。
「伏せろ!」
引き金を引くとほぼ同時に派手な銃声が轟く。
周囲にいた客たちはパニックに陥った。
弾丸は風舞さんをかばった僕の左肩を貫通し、コンクリートの地面をえぐっている。
じわりと鮮血がシャツを染め上げていく。
利き腕が動かない。極度の緊張のためか、痛覚と触覚が働いていない。
これでは銃が撃てない。
パトカーのサイレンが近づいてくる音が下から聞こえた。
「ちっ、予定が狂ったぜ」
卜部は素早く長身を翻して、ビルの中へ消えていった。
それを確認すると、僕はその場にへたり込む。九死に一生を得るとはまさにこのことだろう。
安堵感が身体に満ちてくると、脊髄にまで響くような痛覚が戻ってきた。右手で傷口を抑えているが、応急処置にすらならない。
「……無事、ですか」
風舞さんが無事であることを確認すると、視界がぼやけてきた。情けないな。体力には自信がないとは思っていたけど、これほどとは。
「……して……どうして?」
「理由なんか、ない」
涙を浮かべて僕を見下ろす彼女の顔は歪んでいるように見える。
柄にもなく、また思ってしまう。
せっかくの顔が台無しだ、と。
そして、地面の冷たさを感じたのを最後に僕の意識はそこで一度途切れた。
おはようございます、jokerです。
暑いです。ひたすら暑いです。最近は三時間ほどは眠れるようになってきましたが、四時間連続で眠ったことは稀です。
ではまた次回お会いできることを祈りつつ……




