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根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
月光に揺れる魚影
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7

 丘の稜線が朝の光に淡く染まり、野原の草はまだ露をまとって銀色にきらめいていた。

 道端の樹々の影は長く伸び、西へゆっくりと傾いていた。

 遠くの麦畑を吹き抜ける風が葉を揺らし、穏やかなざわめきを立てる。

 野鳥は束の間の朝の囀りを響かせ、空気はひんやりとしながらも、昼前の温かみを含んでいた。


 その道を、幌馬車がゆったりと進む。

 馬の蹄が砂利を踏み、車体が揺れるたび、幌の布が風にそよぎ、隙間から柔らかな光が差し込む。

 荷物に囲まれた車内の片隅では、モンドが肩を少し丸め、手帳を開いて頁の間に挟まれた、小さな水色と白の縁取りを帯びた生花の栞に視線を落としていた。

 その対角に座るゼフィは、荷物の隅に置かれた小瓶のコルクに指先を触れ、鼻先に近づけて匂いを確かめる。

 ふわりと香りが立ち上り、彼女の表情を柔らかくほころばせた。

 二人の間に置かれた荷物は、静かに世界を隔てながらも、互いの存在を緩やかに結んでいた。


 御者は前方の台に腰を据え、手綱を巧みに操りながら馬車を導く。

 肩の力を抜き、揺れに合わせて体を揺らす。

 旅の身を任せた二人に自然と興味がそそられ、時折目端で車内を覗き込む。

 ゼフィの静かな佇まいには凡庸な旅人とは違う何かを感じ取り、護衛としての頼もしさを密かに期待しつつ、胸の奥で警戒心を滲ませる。

 だが、すぐ隣のモンドを見ると、肩の落ちた背中、丸みを帯びた姿勢、目の奥に漂う人生の諦念が目に入り、期待は霧散し、頼もしさとは程遠い印象に思わず眉を寄せた。


 馬車の揺れが一定のリズムで続く中、車内にはしばし静寂が漂う。


「結局……白ひげナマズは、口にすることも夢のままだったか」


 モンドは手帳を軽く閉じ、肩越しに揺れを感じながら小さく息を吐いた。

 手の先で栞を押さえたまま、目は揺れる光に映る景色を追う。

 声には、果たせなかった望みに対する静かな諦観と、つい「やられたな」と思わず呟きたくなるような、小さなおかしみが滲んでいた。


 ゼフィは顔を上げ、微笑む。


「目にすることすら、適わなかったですね……」


 御者は前方を見据えつつ、視線を滑らせ二人を確かめる。


「兄さんら、白ひげナマズで有名な村に行ってたのかい?」


 モンドは苦笑を浮かべた。


「はは……まあな。だが、結局はお目にかかれんかった。今回の旅の目的は幻に消えたってな」


 ゼフィは首を傾げ、柔らかく答える。


「近頃では村の方たちも、なかなか捕えることができないようでしたね」


 御者の視線がふとモンドの手元に留まった。


「おや……それは、何だい?」


 モンドは手帳に挟まれた小さな栞を指で押さえ、きらめく花を見つめる。


「綺麗なもんだろ。水明花ってんだ」


 ゼフィは手元の小瓶を差し出す。


「こちらも、水明花から作られた香水です」


 御者は小瓶を手に取り、鼻先に近づける。

 ほのかに立ち上る香りは甘く清らかで、露を帯びた草原の湿り気を思わせる。

 これまで扱った濃厚な香水とは異なり、軽やかで透明感のある匂いに、自然と頬が緩んだ。


「ふむ……」


 香りを楽しみながら、御者は二人の粗布の上着や簡素な装備、背負った荷物に目をやる。

 平凡な旅人に見える彼らでも、手が届く品なのだろうと、指先にわずかな好奇心と慎重さを滲ませた。

 小瓶を軽く転がし、蓋の重さや瓶の厚みを確かめる仕草にも、思案の気配が現れる。


 一通り香りを楽しむと、そっとコルクを押さえ、礼を込めるようにゼフィへ差し戻す。


「ありがとう。良い香りだったよ」


 ゼフィは微笑み返しつつ、そっと荷物にしまった。


 モンドは肩越しに小さく息を吐き、くすりと笑いながら言った。


「白ひげナマズ目当ての連中が、みんな水明花の香水や栞、それにいろいろ手を出してやがった……俺らも、つい乗せられちまったな」


 ゼフィは小さく頷き、香りに思いを馳せる。


「ええ……あの透明で柔らかな香りに、思わず心を惹かれてしまいました」


 御者は二人の様子を興味深げに眺め、旅人の好奇心と、そこから生まれる小さな取引の気配を手に取るように感じ取った。


 モンドは御者へ顔を向け、口角をゆるりと上げた。


「そういや、面白い話を聞いたんだが……」


 御者が思わず身を乗り出す。


「ほう? どんな話だい?」


「白ひげナマズと赤ナマズを掛け合わせて、間の子を作るって噂があるらしい」


 ゼフィは小さく微笑み、口を挟む。


「桃色ナマズ、って呼ばれてましたね」


 モンドは肩をすくめ、目を細める。


「白ひげナマズがかからない状況で、そんなこと出来るわけねぇが……村人が環境に合わせて暮らし方を変え、工夫してるのは立派なもんだ」


 御者は眉を寄せつつ、口元に笑みを忍ばせた。

 真偽は怪しいと分かっていながらも、頭の中ではすでに算盤を弾き始めていた。

 荒唐無稽と切り捨てるには惜しく、つい耳を傾けてしまうのだ。


「ほう……もっと詳しく聞かせてくれ。もしそれが本当なら……いや、まあ、面白い話だ」


 口角を吊り上げ、どこか芝居がかった声音で語るモンドに、それを思案顔で聞く御者。

 揺れる幌馬車のなか、ゼフィはただ静かに微笑みながら、そのやり取りを見守っていた。

 彼女の瞳には、冗談半分の噂話を楽しむ色はなく、むしろ旅の一幕を壊さぬよう心に刻む静けさがあった。

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