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ゼフィが取り出したのは、真鍮の脚がついた携帯用の焜炉と、底の厚い小鍋であった。
彼女がマッチを擦ると、シュボッと音を立てて、理科室の実験で見るような、透明に近い青色の炎が立ち上がった。
その無機質な熱は、静止画のようだった森の空気を不躾に揺らし、陽炎という名の歪みを作り出す。
「モンド様、耳を塞いでいてください。
過去というものは、焼かれるときが一番、大きな声を上げますから」
ゼフィは手際よく、ビーカーの中の「記憶蜜」を熱した鍋へと流し込んだ。
「ジュワアアアッ」
鍋底で液体が爆ぜる音は、肉を焼く音にも似ていたが、もっと高く、悲鳴のように鋭かった。
蜜は泡立ち、黄金色から焦茶色へと、見る見るうちにその色を変えていく。
その瞬間である。
森全体が、総毛立つような不協和音を奏で始めたのは。
「キィィィィィン……!」
何千、何万という硝子の葉が、見えない大気に共鳴し、震え出したのだ。
それは、変化を拒む世界の拒絶反応であった。
足元の水晶の砂がざわざわと蠢き、モンドのブーツの底から、透明な蔦のような硝子の結晶が、急速に這い上がってくる。
「おいおい、冗談じゃねえぞ! 地面が俺を飲み込もうとしてやがる!」
モンドは必死に足を動かそうとしたが、膝下までがすでに、冷たく硬い硝子の皮膜に覆われていた。
その透明な檻の向こうに、幻影が見える。
温かい暖炉、旅に出る前の平和な日常、失ったはずの友の笑顔。
それらは「もういいじゃないか」「ここで休め」と、甘い蜜の匂いと共に囁きかけてくる。
「くそっ、悪趣味な幻燈だぜ……。だがな、俺が見たいのは、こんなセピア色の安らぎじゃねえんだよ」
モンドは脂汗を流しながら、腰のナイフの柄を握りしめたが、腕もまた、硝子化の進行によって重くなっていた。
視界の端で、ゼフィだけが冷静に鍋を振り続けている。
彼女の周囲だけは、青い炎の結界によって時間が激しく流動していた。
「酸化還元、熱変性。……過去は形を変えてこそ、糧となります」
ゼフィは、ポケットから取り出した真っ白な岩塩の欠片を、鍋の中に放り込んだ。
ぱちん、と小さな音が弾ける。
甘ったるいだけの香りに、焦げた苦味と、塩の鋭利な気配が混ざり合う。
それは、美化された思い出に、「現実」という名の楔を打ち込む行為に他ならなかった。
「さあ、仕上げです」
彼女は鍋の中身を一気に、用意していた冷たい鉄の皿へと広げた。
熱せられた蜜は、外気に触れて「ピキピキ」と音を立てながら、瞬時に薄い飴細工へと固まっていく。
森の悲鳴のような共鳴音が、最高潮に達したかと思うと、唐突にプツリと途絶えた。
静寂が戻る。
しかし、それは先ほどまでの死んだような静けさではない。
何かが壊れ、何かが生まれた後の、荒い息遣いのような静寂であった。
モンドの足を縛っていた硝子の蔦は、粉々に砕け散り、ただの砂へと戻っていた。
「……ふゥ、死ぬかと思ったぜ。おいゼフィ、その皿の上にある、黒くて平べったい物体はなんだい? まさか、俺に食わせようってんじゃねえだろうな」
モンドが自由になった足をさすりながら覗き込むと、皿の上には、美しい琥珀色ではなく、焦げ茶色に濁り、所々に塩の結晶が光る、歪な板状の飴があった。
それは美しくはないが、確かな質量と熱を持って、そこに存在していた。
「『記憶のキャラメリゼ・岩塩添え』です。
甘いだけの過去を焦がし、塩辛い現実を混ぜて固めました。……どうぞ。これを噛み砕く音が、この森を出るための合図になります」
ゼフィは鉄の皿を、恭しくモンドへと差し出した。
その湯気の向こうで、彼女の瞳が「食べる覚悟はありますか」と問いかけていた。




