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根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
硝子の森の記憶蜜
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 空の色は、薄めた青インクのように頼りなく、そこにある太陽でさえ、磨りガラスの向こうのランプのように白く滲んでいた。

 足元で鳴るのは土の音ではない。


 さらさら、きらきら。


 長い年月をかけて砕け散った、水晶の砂のささやきである。

 見渡す限りの森は、そのすべてが硝子ガラスで出来ていた。


 幹は無色透明な石英のごとく、枝は繊細なガラス細工の如く、風が吹くたびに「チロ、チロリン」と、風鈴を千個も集めたような涼やかな音を奏でている。

 呼吸をするだけで、肺の中まで透き通ってしまいそうな、冷たく静謐な世界であった。


「へえ、こいつは驚いた。どこもかしこもピカピカで、目が眩んで敵わねえや」


 旅人のモンドは、分厚い革のブーツで硝子の砂を踏みしめながら、大げさに肩をすくめた。

 その瞳は、値踏みするように周囲の輝きを映しているが、決して無遠慮に触れようとはしない。


 この森の美しさが、指一本触れただけで崩れ落ちる均衡の上にあることを、彼の旅人の勘が悟っているのだ。


「まるで、世界中のがらくたを硝子の箱に閉じ込めて、飾り棚に並べたみたいだ。綺麗だが、どこか息苦しいねえ」


 モンドが皮肉っぽく呟くと、数歩後ろを歩いていたゼフィが、静かに口を開いた。


「モンド様、お声が大きすぎます。この森では、大きな振動は禁物です」


 彼女の声は、森の空気に溶け込むように澄んでいた。

 ゼフィは長い外套の裾を汚さぬよう注意深く歩きながら、傍らの硝子の巨木を見上げている。

 その眼差しは、博物館の貴重な展示品を扱う学芸員のように慎重で、慈愛に満ちていた。


「ここは『忘却を拒んだ森』とも呼ばれています。見てください、あの幹の中を」


 ゼフィの細い指が示した先、透明な樹皮の奥に、黄金色の液体がゆらりと揺らめいていた。

 それは樹液のようでありながら、自ら淡い光を放っている。


「あれが『記憶蜜』ですね。過去の幸せな時間だけを吸い上げて、この樹木たちは結晶化しているのです」

「過去の幸せ、ねえ。……どうりで、やけに甘ったるい匂いが漂ってきやがる」


 モンドは鼻を鳴らし、懐から手記を取り出すと、万年筆をさらさらと走らせた。


『硝子の森。風は硬く、匂いは古い砂糖菓子の如し』


 ふと、頭上から「パキン」と、硬質な音が響いた。

 見上げれば、一本の枝が自らの果実の重さに耐えきれず、折れようとしているところだった。

 その傷口から、とろりとした琥珀色の雫が、いまにも零れ落ちそうになっている。


「おっと、あぶねえ」


 モンドが反射的に手を伸ばしかけ、しかし、それを受け止めるべきか迷うように指を止める。

 その雫には、どこか見てはいけない他人の夢が詰まっているような、そんな不可侵の気配があったからだ。


「ゼフィ、ありゃあ食えるのかい? それとも、食ったら最後、硝子の像になっちまうような代物か?」

「……物理的な毒はありません。ですが、心には作用するかもしれませんね」


 ゼフィは静かに歩み寄り、鞄から小さなビーカーを取り出した。

 彼女の横顔は、硝子の反射光を受けて、陶器のように白く輝いている。


「あまりに純粋な過去は、劇薬にもなりますから。……少しだけ、頂いてみましょうか」


「チロリン」と、森がまた一つ、誰かの溜息のような音を立てた。

 琥珀色の蜜が、糸を引いてゼフィのビーカーへと滑り落ちる。


 その瞬間、あたりに漂う甘い香りが一層強くなり、モンドの脳裏に、あるはずのない「懐かしい夕暮れ」の映像が一瞬だけフラッシュバックした。


 それは、この森が旅人に振る舞う、最初の一皿であった。

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