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根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
星屑の塩
53/70

53

 夜風が湖面をかすめ、遠くの森からは虫の声がささやくように響いた。

 篝火の光が石畳や木製の建物に映り、微細に揺れる影は夜の静寂を際立たせる。

 村人たちは土鍋の湯気が漂う広場に集まり、星屑の塩を手に取った。

 その光は淡く揺らぎ、皿の中で小さくきらめく。


 香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、甘い根菜の香り、煮込み肉の脂の香ばしさ、乾燥ハーブの鋭い芳香が入り混じる。

 それらが夜風に溶け、全体に微かな緊張感を生み出していた。


 幼い少女が塩を指先で掬い、口に運ぶ。

 瞳が輝き、口元に小さな笑みが浮かぶ。

 兄らしい少年は皿の光をじっと見つめ、遠い記憶を思い出したのか、まぶたを閉じて深く息を吐いた。

 老人は指先でそっと塩の粒を撫で、幼い日の家族の手の温もりを思い出す。

 近くに座る女性は、母と交わした言葉や笑顔を思い起こし、手のひらで涙をぬぐった。


 モンドはその一つひとつの表情を観察する。

 手の微かな震え、肩の力の入り具合、唇の微妙な曲がり方、呼吸のテンポ。

 目の前の光景は、単なる料理の時間を超え、人々の内面が映し出される鏡のようだった。

 

「塩一粒で、心がこれほど揺れるとは……」


 彼は小声で呟き、手記に速記のように描き留める。


 ゼフィは黙って傍らに立ち、微かな頷きで感情の変化を共有する。

 言葉は少なくとも、二人の間には確かな理解があった。


 中年の男がそっと皿を手に取り、焚火の炎を見つめた。


「もっと欲しい……」


 声は小さく、風に溶けるように消えた。

 モンドはその言葉に、儀式の制約を思い出す。

 星屑の塩は限られた量しかない。

 村人たちは互いに尊重し、分かち合うことで、儀式の価値を守るのだ。


 鍋の中では、具材がじんわりと火を通され、油の艶と湯気が混ざり合う。

 光は塩に反射し、湯気の中で星雲のように漂った。

 火の揺れ、鍋の跳ねる音、塩の粒が落ちる音、器同士が軽く触れる音――

 夜の広場はささやかな音の合奏に包まれる。


 口に運ぶ者の表情は次々と変わった。

 幼子は目を丸くし、舌先に触れた光の粒に驚きと喜びを見せる。

 老婦人は遠い日の景色を思い浮かべ、微かに眉をひそめ、そして優しい笑みを浮かべた。

 青年は果たせなかった約束を思い出し、拳を握りしめる。

 手を差し伸べる隣人の温もりが、静かに心に寄り添う。


 モンドは筆を止めず、全てを書き留める。

 表情、手の動き、呼吸、唇の震え、視線の揺らぎ。

 観察者としての目が、夜の儀式を解きほぐす。

 同時に、旅人としての心もまた、柔らかく解けていった。

 祭りと料理がもたらす力を、認めざるを得なかった。


 ゼフィは、村人の微細な動きに注意を払い、心の変化を見届ける。

 言葉少なだが、彼女の視線はモンドの理解を補う役割を果たしていた。


 光の粒は広場全体に散り、柔らかく輝く。

 村人たちは互いに目を合わせ、微笑みを交わし、小さな奇跡を分かち合う。

 焦る者もあれば、喜びに静かに浸る者もいる。

 その複雑な感情の波が、夜の湖面のように揺らぎ、村全体に穏やかな調和をもたらす。


 焚火の炎は小さくなり、篝火の光も淡く消えかける。

 湯気は空に溶け、夜の冷気に吸い込まれる。

 村人たちは満足そうに息を吐き、皿の光を惜しむように手元で見つめた。

 モンドはゼフィと目を合わせ、短く頷く。

 言葉は不要だった。二人の心には、この夜の記録が深く刻まれていた。


 夜空に浮かぶ星、湯気に漂う光、火の揺らめき、そして村人の心の動き。

 そのすべてが、旅の手記に新たな章として記される。

 光、香り、音、そして微かな呼吸までが、文章として積み重なり、夜の物語を形作った。

 モンドの目には、旅の道中でこれほど心を揺さぶられる瞬間は稀であることが、静かに染み入るように映った。

 ゼフィの沈黙と微かな笑みは、観察者としての彼の目をさらに鋭敏にした。


 やがて夜は更け、湖面に反射する光は消えかけ、焚火の火も小さく揺れる。

 村人たちは互いにそっと手を取り、星屑の塩の余韻を心に留める。

 モンドは筆を置き、深呼吸を一つ。

 ゼフィも傍らで微笑み、夜の静けさの中で二人は共にこの光景を記憶に刻んでいた。

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