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夜がほどけはじめた。
東の空の端が白み、遠くの山々がゆっくりと輪郭を取り戻していく。
その光が村の屋根に触れると、凍っていた空気がわずかに震え、
長く張りつめていた静けさに、かすかな音が生まれた。
――風の音。
それはまるで誰かが古い糸をほどくような、柔らかい音だった。
地面に縫い止められた影の縫い目が、朝露に濡れてきらめく。
黒糸の端がゆらりと浮き上がり、そこから淡い光が滲み出た。
陽光が射し込むたびに、縫い目のひとつひとつがほどけ、
影たちは自らの形を思い出すように、ゆっくりと身じろぎを始める。
村の通りには、泣き声が混じった笑い声が響いた。
誰かが嗚咽し、誰かが微笑み、誰かは呆然と空を見上げている。
抑えられていた心の糸が、一斉に緩みはじめたのだ。
けれどそれは、歓喜とも悲嘆とも言えない、不思議な響きを持っていた。
モンドはその光景を見つめ、手帳を開いた。
筆先が震えるほどの静けさの中で、彼は短く記す。
《朝の光、縫い目をほどく。
止まっていた心、再び流れ出す。
人は、縫うたびに凍り、解くたびに痛む。
それでも、どちらも生のかたちに違いない。》
老女は、針を握りしめたまま立ち尽くしていた。
その手は長い年月のせいで震えていたが、瞳は澄んでいた。
彼女の周りにも、ほどけた影たちが集まり、柔らかく揺れている。
それは責めるでもなく、感謝するでもなく、ただ静かに寄り添うようだった。
老女は口を開いた。
「……糸がほどけましたね」
その声は小さく、けれど不思議と、村のどこにいても聞こえるような響きを持っていた。
モンドが頷く。
「ああ。風が勝手にやったことだ」
老女は微かに笑った。
その笑みは、悲しみとも安らぎともつかない、まるで祈りの欠片のようだった。
「私は縫って、ようやく静けさを得ました。 けれど……静けさの中では、心の声が届かない。きっと、影は寂しかったのでしょう」
陽光が老女の肩を照らす。
その光はまるで、彼女の背にあった長い影を優しく撫でるようだった。
針を握る手の力が少しずつ抜けていく。
彼女の足元で、黒糸がゆるやかにほどけ、土に溶けて消えた。
モンドは何も言わず、ただその瞬間を見守った。
ゼフィは風の動きを読むように目を閉じ、指先で空気の揺れを感じ取っている。
その表情には悲しみも喜びもなく、ただ深い静けさがあった。
やがて、村全体に朝の光が満ちる。
影はそれぞれの形を取り戻し、風に揺れながら地を歩く。
鳥が鳴き、木々がざわめき、遠くの川が小さく音を立てた。
凍っていた世界が、再び呼吸をはじめたのだ。
モンドは筆を置き、短く呟く。
「……これで、時間が動き出した」
ゼフィは頷きもせず、ただ空を見上げた。
淡い光の向こうで、夜の名残がゆっくりと溶けていく。
それは、何かが滅びたのでも、救われたのでもなかった。
ただ、長い夢のような静止が終わり、
世界がまた、ひとつ息をついた――それだけのことだった。




