表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
影を縫う裁縫師
48/70

48

 夜の帳が村を覆う頃、モンドとゼフィは小さな宿の軒先から、村道に立つ老女をそっと見守った。

 闇は深く、月光が屋根瓦の隙間を縫いながら地面に斑影を落とす。

 その下で、黒糸を指に絡ませた老女の手が、微かな音を立てて動いていた。

 針が土に触れるたび、かすかな「トン」という音が夜の静けさに響く。

 影は、地面に張り付くように揺れ、まるで自らの意思を持ったかのように微かに震えていた。


 モンドは宿の入口で顎に手を当て、じっと老女の姿を見つめる。


「……あの婆さん、どうしてこんな夜更けにまで縫い続けるんだろうな」


 ゼフィは静かに隣に立ち、微かな風の気配でモンドの髪を揺らす。


「影がほつれると、人の心が止まらず、夜の間に狂ってしまうと言われています。縫うことで、ひとまずの平穏を保つのです」


 二人は宿の外に出て、足元に広がる影を避けながら、老女に近づいた。

 夜の空気は冷たく、干草の匂いと土の湿り気が混じり、息をするたびに胸がひんやりとする。

 老女は声を上げることなく、ただ針先を揺らし、縫われた影の端をそっと押さえる。

 その動作は、無言の祈りのようでもあり、必死の鎮魂のようでもあった。


 モンドは小さく咳払いをして、老女の作業に声をかける。


「婆さん、そんなに縫いつづけて、疲れねぇのか?」


 老女はゆっくりと顔を上げ、月明かりに浮かぶ皺深い表情で微かに笑った。


「疲れ……それは私のためではありません。縫えば生きるのです、けれど、生きてはいない。影を縫い止めねば、夜の闇に魂は飲まれてしまうのです」


 モンドは手にした手記を開き、淡々と記す。


 《命の仄火は縫い止められず。影を止めれば人もまた凍りつく。

 老女は己を顧みず、他者の微かな光を守り続ける》


 ゼフィはその横で、微かに手をかざし、冷気を漂わせる。

 ほんのわずかに、縫われた影の端が揺れ、白い息のように立ち昇る。

 その氷の気配は、老女の覚悟と静かな悲しみを、目には見えぬ形で慰めるように流れた。

 ゼフィは小声で、しかし確かな響きをもって呟く。


「凍った覚悟も、こうしてそっと慰められることで、少しは楽になるでしょう」


 老女は答えるでもなく、針を動かし続けた。

 夜風が村道を吹き抜け、干草の匂いと冷気が混ざり合う。

 地面の影が、糸に縛られつつも微かに震える様子を、モンドは目に焼き付ける。


「動かぬ心は、死人と同じだ。けれど、止めなければ破れ果てる。この村の者たちは、どちらを選ぶんだろうな」


 ゼフィは静かに老女の手元を見つめ、言葉を添える。


「縫われた影の奥にも、まだ微かな温もりが残っております。生きた証は完全には消えていないのです」


 針の先が土を突く音、遠くで風に揺れる葉のざわめき、夜空に瞬く星の微かな光。

 すべてが村の静けさを包み込み、時間はゆっくりと、しかし確実に流れていた。

 モンドは手記に続けて書き留める。


 《影を縫うことで、村には平穏が訪れる。

 だが平穏とは、心の凍結のこと。影が止まる時、人もまた一時の眠りに落ちる。

老女はその眠りを守るため、己の疲れも顧みず縫い続ける》


 二人はしばし影の揺れを見つめ、老女の手の動きに心を寄せた。

 夜の村は御伽噺のように静謐で、針と糸の音が遠い鐘の音のように響き渡る。

 微かな冷気が揺らめき、影の端をほんの少し震わせるたび、眠れる心はかすかに息を吹き返す。

 モンドは小さく笑みを浮かべた。


「影が動こうとするうちは、人間もまだ終わっちゃいねぇさ」


 ゼフィは穏やかに頷き、二人の影が月光に柔らかく溶け込むのを見届けた。

 夜の静けさは、老女の決意と、微かに息づく命の仄火に包まれて、ゆっくりと時を刻んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ