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根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
水面のスープ
45/70

45

 湖畔の焚き火の傍で、モンドとゼフィは静かに立ち尽くしていた。

 湯気がゆらりと風に揺れ、わずかに残る水たまりや湿った泥に反射する光が淡く揺らぐ。

 干し草の香ばしい匂いと、湖の湿った香り、そして微かな焚き火の煙の匂いが混ざり合い、空間は不思議な静けさに包まれていた。


「どうぞ、味わってみなさい」


 老人の声は柔らかく、湖畔の風に乗って届いた。

 それは促すというよりも、そっと招き入れるような言い方だった。

 二人は目を見合わせ、互いに小さくうなずくと、ゆっくりと鍋のそばに近づいた。

 火にかけられた鍋は、まだ熱を帯びていて、湯気が淡い絵のように空に描かれる。


 スプーンを手に取り、まずは香りを感じる。

 湯気とともに立ち上る香草の香り、干し草のやさしい香ばしさ、湖の湿った匂いが、舌に乗る前から心に染み込むようだ。

 モンドは小さく息をつき、ゼフィも唇を閉じたまま、その匂いと湯気の揺らぎを見つめる。

 炎の光は揺れ、わずかに残る水たまりに映る夕焼けの茜色も微かに揺らぎ、まるで時間そのものが緩やかに波打っているかのようだった。


「ずいぶんと、時間の跡が残ってるな」


 モンドがぽつりと呟く。

 目の前の景色をじっと見つめ、湿った湖底や干上がった泥の表情を確かめるようにしている。

 老人は微笑み、鍋をかき混ぜながら静かに頷いた。


「この味を覚えておいてもらえて、よかった」


 老人が静かに呟く。

 声は遠くの水面に反射して、微かに揺れる。

 二人は顔を見合わせ、思わずその意味を尋ねる。


「なぜ、この湖は干上がりかけてんだ?」


 モンドの問いに、老人は軽く笑みを浮かべ、鍋をかき混ぜながら答える。


「自然の時間がそうさせているのさ。答えを求めるものではない」


 ゼフィもまた、問いかける。


「でも、この味は――」


「それは今、ここにある。それで十分だろうよ」


 老人の返事は柔らかく、しかし確かな落ち着きを持って、二人の疑問をのらりと受け流した。


 二人は静かにスプーンを口に運ぶ。

 味は単純だ。

 湖水のほのかな塩分、干し草の香草の風味、わずかに残る泥の香り。

 しかしそれは、単純な味わいの奥に、深い時間の層を映し出していた。

 口に入れると、舌の上で広がるのは、単なる塩味や草の香りではなく、湖が刻んできた季節の光、風に運ばれる草の匂い、夕焼けの空の色までもを含むような、不思議で言葉にできない感覚だった。


 湯気は揺れ、湖底の湿った地面は微かに光を反射し、茜色の空は刻々と色を変える。

 光と影、香りと味が重なり合い、二人は意識するよりも先に、その瞬間に吸い込まれていく。

 口の中の味わいだけでなく、視界の光景、風の肌触り、湯気の淡い流れまでもが、ひとつの深い経験として心に残る。


 老人は微笑みながら、鍋の中を静かにかき混ぜ続ける。

 その所作は、湖の干上がった底に残る時間を守るかのようで、二人は言葉を交わすことなく、その姿を見つめていた。

 やがて、モンドが小さな声で尋ねる。


「この味は、どうしてこんなに…」


「わかる必要はない。ただありのままに感じればよい」


 老人の声は軽く、風と共に流れ、二人の問いはゆっくりと溶けていった。


 風が頬をなで、湯気は空気中で淡く漂う。

 わずかに残る水たまりや湿った地面に映る光が揺れ、茜色の空も刻々と変化する。

 モンドもゼフィも、まだ完全には理解できないが、この瞬間に立ち会えたことの特別さを、言葉にならない確かさで感じていた。


 湖畔の静けさ、湯気の揺らぎ、わずかに水を残した湖底に映る光、茜色の空、そして老人の穏やかな声と所作。

 それらが一つに溶け合い、二人はゆっくりと、ただ目の前の光景に身を委ねていった。

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