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夜は静かに更け、鍋の中では泡がゆっくり立っては弾け、湯気が漂っている。
焚き火は橙色の光を放ち、草原をかすかに照らしていた。
モンドとゼフィは鍋の中を見つめる。
「もう少し煮詰めたほうがいいな。味がまだ締まってねぇ」
モンドが柄杓を手に取り、ゆっくりかき混ぜる。
粘りのあるスープがとろりと揺れ、炎の光を反射した。
ゼフィは香辛料の袋を抱え、慎重に量を見ている。
「さっきより香りが落ち着いてきた……でも、奥に何か残ってる気がします」
「気のせいだろ。焦げてねぇなら上等だ」
モンドはそう言いながらも、目の奥にわずかな緊張を浮かべていた。
夜気が肌を撫で、焚き火の煙を地に押しつける。
低く流れる風が、香りを一緒に運んでいく。
ミュリスの匂いが空気を満たし、夜そのものが濃密に熟していくようだった。
そのとき、空気がわずかに変わった。
湿度が増した――錯覚ではない。
匂いが重く、粘りを帯び、肌に貼りつく。
呼吸するたび、喉にまとわりつく温みを感じる。
シロが小さく鼻を鳴らし、尻尾をぴたりと止める。
焚き火の周りを一周するように歩き出す。
「どうしました、シロさん?」
ゼフィが声をかける。
シロは答えず、草の揺れを睨むように低く唸った。
風向きが変わる。
草原の奥から冷たい空気が流れ込み、焚き火の炎が揺れる。
ぱちぱちと音が弾け、赤い火の粉が夜空へ散った。
煙が南から北へと流れを変え、香りが遠くへ伸びていく。
ミュリスの匂いはまるで意思を持つかのように、
湿り気を孕んだまま夜を這い、草原の向こうへと消えていった。
——その先で、何かが応えた。
音ではない。
空気の密度が変わり、草が擦れ合うような気配があった。
風が止み、虫の声すら息を潜める。
静けさの中に、聞こえないざわめきが生まれた。
「……今、風が変わったな」
モンドが焚き火を覗き込みながら呟く。
ゼフィは空を見上げた。
「湿度が強い……煙が逃げていきません」
モンドが薪を組み直そうと手を伸ばすと、薪がじゅっと音を立て、水気を放った。
「くそ、湿ってるな。火が不安定だ」
モンドは火ばさみで炭を動かし、息を吹きかける。
灰がふわり舞い、炎が一瞬勢いを増したが、すぐに沈む。
ゼフィは鍋の縁に手を置き、蒸気を見つめる。
スープの表面が、まるで呼吸するように泡立っていた。
その下では、肉が柔和な光を帯びている。
焚き火の向こうで、シロが耳を立てる。
草の擦れる音。
重たい何かが、這うように近づいてくる。
風が止まり、炎が細く揺れる。
湿った空気がまとわりつき、音を吸い取っていく。
モンドとゼフィは気づかない。
調理の熱が感覚を鈍らせ、香りに包まれ、世界がひとつの鍋の中に閉じ込められていく。
シロが低く唸る。
地面を這うような音が、すぐ近くまで迫っている。
焚き火の炎がひときわ高く上がり、二人の影が草原に長く伸びた。
その影が、もうひとつの何かと重なり合う。
モンドが薪を足そうとした手を止める。
「……今、音がしたか?」
ゼフィが顔を上げた。
「……風じゃ、ないですよね?」
草の海がゆっくりと揺れ、闇がざわつく。
シロの尻尾が地面を打ち、低く唸り声を上げる。
その音が静かな夜に、不穏なリズムを刻む。
次の瞬間、草むらの奥で何かが小さく動く。
モンドの視線が闇の一点に吸い寄せられる。
焚き火の光が、その輪郭をかろうじて捉える——。
北から冷たい風が吹き込み、湿った空気を押し流す。
煙と香りが方向を変え、闇の奥へと遠ざかっていく。
草むらのざわめきが止み、気配が引いた。
モンドは小さく息を吐く。
「……今、何かいたな」
ゼフィは頷き、焚き火の炎を見つめた。
シロがゆっくりと座り込み、まだ闇の奥を警戒している。
見えない何かが、確かにそこにいた。




