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夜はさらに深みを増していた。
焚き火の炎は落ち着きを取り戻し、炭の赤がじわじわと息づいている。
ミュリスの香りはまだ空気の奥に漂い、夜気と溶け合って独特の甘苦さを残していた。
モンドは火の前にしゃがみ込み、指先をかざして温度を確かめる。
「強すぎると焦げる。弱すぎると、今度は煮えない」
その声には、慎重さと同時に職人のような集中があった。
ゼフィは袋から粉を少しずつ取り出し、木のスプーンの背で軽くすくって鍋に落とす。
粉が湯気に包まれ、ゆらりと溶けて消える。
「……もう少し。ほんの少しだけ」
ゼフィの指先は繊細で、動きにはどこか祈りのような静けさがあった。
湿った夜気が、二人の熱を奪う。
風が通るたび、炎がわずかに低くなり、鍋の表面の泡がぴたりと止まる。
そのたびにモンドは薪を組み直し、火の息を整える。
炎の色がほんの僅かに青みを帯び、湯面の泡が再び細かく立ち始める。
その変化を、ゼフィは息を詰めて見守った。
「こういうの、まるで呼吸みたいですね」
モンドは短く笑った。
「だな。お互いの息を合わせる訓練にはちょうどいい」
二人の言葉は、湯気とともに夜へ溶けていった。
香りが徐々に変化していく。
最初の刺激臭は落ち着き、代わりに、穀が静かに熟したような、奥深い旨味の香りが顔を出す。
肉の繊維がほどけ、表面の脂が静かに揺れる。
鍋の底からは、甘みとわずかな渋みを含んだ蒸気が立ち上がった。
その香りは、どこか生き物の息づかいを思わせる。
ゼフィが木のスプーンを取り、恐る恐る一口すくった。
まだ熱い湯気が頬をかすめる。
彼は深呼吸をしてから、それを口に含む。
一瞬、眉を寄せた。
だが次の瞬間、表情がふっと和らぐ。
「──悪くない。むしろ……」
その言葉の続きを、彼自身も探すように沈黙した。
モンドが目を細め、彼の様子を見ている。
「本当か?」
「ええ、思ったよりずっと柔らかい。匂いも、ほとんど気になりません」
モンドは少し間を置いてから、自分もスプーンを取った。
肉を一片、口に運ぶ。
しばし無言。
そして小さく息を吐く。
「……確かに。こいつは……食えるな」
焚き火の赤が、二人の顔を照らす。
慎重だった表情に、次第に生気が戻っていく。
最初は恐怖と警戒だった。
それが好奇心へと変わり、いまは小さな感動へと姿を変えていた。
未知の食材が、未知の味に変わる瞬間。
その変化を舌で確かめながら、二人の間には静かな高揚感が流れていた。
「……思えば、旅を始めてから失敗ばかりでしたね」
ゼフィが笑う。
「焦がしたスープ、焦げたパン、焦げた魚」
モンドも肩をすくめる。
「だいたい原因はお前の勘だろ」
「理屈ばかりで動かないよりはマシです」
軽口の応酬が、夜気をほぐした。
それを聞いていたシロが、尻尾を一度だけゆっくり揺らす。
その仕草がまるで「またやってるな」と言っているようで、二人は小さく笑った。
鍋の中では、肉が静かに煮詰まっていく。
香りが層を成し、風に乗って漂う。
湿った空気の中で、焚き火の熱と香辛料の刺激が混じり合い、独特の温度をつくり出していた。
火の音、湯の音、息遣い。
それらがすべて一つの旋律のように溶け合っていく。
「旅の途中で、こんな香りに出会うなんて」
ゼフィがぽつりと呟いた。
モンドは火ばさみを手に取り、炎を見つめながら答える。
「旅ってのは、想定外の連続だ」
「……でも、それが楽しい」
ゼフィの声は柔らかく、どこか感謝に満ちていた。
しばらくの沈黙。
風が草を揺らし、遠くで虫の音が微かに響く。
シロが焚き火の向こうで寝そべり、瞼を閉じた。
炎の光がその白毛を金色に染める。
鍋の表面に油の輪が広がり始めた。
モンドは火加減をさらに落とし、静かに呟く。
「そろそろ頃合いだな」
ゼフィが頷き、器を手に取る。
湯気の立つスープを注ぎ、一口。
その瞬間、目を見開いた。
「……美味しい。信じられない」
モンドも同じように口に運び、言葉を失う。
濃厚で、どこか熟れた穀のような、深い旨味。
それは焚き火と夜気とが混ざり合って生まれた、ひとつの生きた味だった。
「生きててよかった」
ゼフィが冗談めかして笑うと、モンドもつられて笑った。
焚き火の光がその笑顔を包み、夜の静寂が二人を優しく隔てる。
それは、戦いや旅路の疲れを越えた、純粋な生の実感だった。
湯気の向こうで、草原がゆっくりと波打っている。
遠くの星が薄く瞬き、風向きがほんのわずかに変わる。
香りが新たな方向へと流れていくのを、誰もまだ気づいていなかった。
ゼフィがスプーンを置き、鍋を見つめたまま呟く。
「この香り……やっぱり、ただの香辛料じゃない気がします」
モンドは静かに頷いた。
「ミュリス、だっけか。もし次に手に入るなら、少し調べてみるか」
「ええ。でも……たぶん、簡単には見つからないですよ」
「そうだろうな」
そのやりとりの最中、シロが耳をぴくりと動かした。
焚き火の向こう、闇の奥をじっと見つめている。
風が草を揺らし、湿った空気の中にわずかな緊張が走る。
モンドもふとその様子に気づいたが、すぐに火へ視線を戻した。
夜は、まだ穏やかに見えた。
草の香り、火の熱、そして未知の味。
それらすべてが、この夜の一部として溶け合っていく。
新しい食材、新しい感覚、新しい呼吸。
二人の旅は、この静かな成功を糧に、また次へと続いていくのだった。




