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夜の草原は、静かに息を潜めていた。
長旅の果てに辿り着いた縁の地で、二人は小さな焚き火を囲んで座る。
風は弱く、湿った空気が肌にまとわりつき、焚き火の煙はゆっくりと立ち上がって闇に溶けていく。
草の香り、土の匂い、遠くで微かに響く獣の声。
すべてが、感覚の奥に鮮明に染み入ってくる。
シロは背中の獲物を地面に下ろし、鼻先で周囲の匂いを確かめながら低く唸った。
それは強烈な獣臭を放つ魔獣の肉で、毛皮にはまだ湿った血が残っている。
火のそばに置かれた肉から立ち上るわずかな蒸気だけで、辺りに生々しい匂いが広がった。
モンドは眉をひそめ、鼻を押さえながら呟く。
「……これ、焼くだけじゃ食えねぇな」
声には警戒心が滲むが、どこか好奇心も混じっていた。
目の前の食材は強烈で、しかし挑戦のしがいを感じさせる存在でもあった。
ゼフィはそっと香辛料袋を取り出した。
中には乾燥ハーブや塩、粉末状の調味料が無造作に混ざっている。
その中に、旅の途中で譲り受けた「謎の香り粉」、ミュリスも含まれていた。
ゼフィはこれを単なる香辛料の一種だと思い込み、楽しげに粉を手に取り慎重に量を調整する。
微かに甘く、発酵したような独特の匂いが指先に伝わる。
モンドはその香りを嗅ぎ、眉をひそめて顔をしかめた。
「……なんだ、この匂い……」
暗がりで、ゼフィの手が少し迷った。
胡椒粉とミュリスを取り違えてしまったのだ。
粉が火に触れた瞬間、湿った発酵臭がふっと立ち上り、焚き火の煙と混ざった。
草を腐らせたような、血を洗い流すような、どこか異質な香りが夜空に広がる。
モンドは思わず顔をしかめる。
「おい、今の匂い……何だ?」
ゼフィは手元を確認しつつも、興奮した声で呟く。
「……ちょっと、強烈すぎませんか?」
モンドは警戒しながらも鍋の中を覗き込み、火加減を微妙に調整しつつ香りの変化を確かめる。
目には警戒と好奇心が入り混じっていた。
ゼフィは袋を握り直し、粉の量を微調整する。
焚き火のパチパチという音と、煮える肉の微かな音が夜の静寂に溶け、二人の間に独特のリズムを生む。
草の間を抜ける微かな風が、異質な香りを遠くの闇へ運ぶ。
シロの低いうなり声が響き、草の揺れが微かに生き物の息吹を伝える。
立ち上る香りは、まるで夜の闇を揺らす小さな波のように空気を震わせた。
モンドは火に照らされるゼフィの顔を見つめ、息を飲む。
緊張の中にも、未知のものに挑む高揚感があった。
「……意外といけそうだな」
モンドは小さく呟く。
まだ一口も食べていないのに、香りだけで食欲が刺激される。
ゼフィは嬉しそうに微笑み返す。
「これで……うまくいったら、旅の途中での食事がもっと楽しくなりますね」
二人の間に、言葉にはしない信頼と期待が静かに流れた。
焚き火の炎が揺れるたび、煙は小さな渦を巻き香りを運ぶ。
夜空は深く澄み、星の光が瞬く。
二人は光と香り、炎の揺らぎを同時に感じながら、調理に没頭していく。
長旅の疲れも、強烈な魔獣の匂いも、この夜の静けさの中では特別な体験として心に刻まれる。
モンドとゼフィ、そしてシロ。
三者三様の緊張と期待が織りなす夜のひととき。
焚き火の炎は闇を柔らかく切り裂き、草原に小さな光と影を落とす。
空気の重さ、湿気、立ち上る香り。
すべてが重なり合い、彼らの夜の営みを独特な緊張感で包み込んだ。
その夜、草原の縁で繰り広げられる小さな調理劇は、まだ始まったばかりだった。




