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根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
影を聴く刻
33/70

33

 夜の風に、低く不気味な異音が混じり始めた。

 最初は耳鳴りのようにかすかだったが、墓地へ近づくにつれ、ざわめきは確かに大きくなっていく。


 それは声といえば声にも聞こえた。

 だが声と断ずるにはあまりに歪んでいた。

 呻きとも、叫びとも、笑いともつかぬ、耳の奥を針で突かれるようなざらついた音。

 人の声でありながら、人ならざるものの咆哮のようでもあり、森全体を震わせるように重く湿って響いた。

 そのざわめきはまるで、地面の奥底から湧き上がる腐肉の呻きが風に乗って届くかのようで、血管の奥まで冷たい振動が伝わる。


 二人と一匹は息を潜め、石碑の陰に身を縮めて墓地を覗き込む。

 月明かりに照らされて浮かび上がったのは、一人の騎士だった。

 全身を鎧に包んだその姿は透き通り、霧のように揺らめき、時に掻き消え、また輪郭を取り戻す。

 その顔に血の気はなく、鎧の継ぎ目からは黒い靄がしみ出し、足は地を踏まずに宙を漂っている。

 もはや生者ではなく、魂の残滓が形をとった「霊」であった。


 その騎士の前に広がるのは、幾重にも折り重なる影の塊。

 人の形を寄せ集めたようでいて、形は不定形に揺れ続ける。

 鍬のような物を握る腕、反り返った剣を振りかざす手首、盾を構える人型に、首だけが異様に伸びたもの。

 そうした異形が幾重にも重なり、絡み合い、まるで人間の記憶の断片を無理やり引き裂き、ねじり合わせて造られたかのようだった。

 塊の表面は波打ち、皮膚を剥がれた獣が蠢くように脈打ち、絶え間なく呻き声を発している。

 その呻きは、まるで無数の罪人が断頭台で最後の悲鳴を上げるかのように、空気を震わせる。


 騎士はその怪物を前に、身動ぎひとつしない。

 瞳から感情を読み解くことは出来ず、焦点もあっているか定かではなかった。

 手にした剣は刃こぼれが激しく、幾度の戦いを経て朽ちた鉄を無理やり握っているかのようであった。

 それでも迷いなく剣を掲げる。

 刃は月を裂く銀の線を描き、次の瞬間、唸りを上げて振り下ろされた。


 剣が影に叩きつけられた瞬間、墓地全体が揺れた。

 轟音が大地を震わせ、耳をつんざく悲鳴が夜空を引き裂く。

 影はのたうち、潰された獣のように痙攣し、身を折り曲げる。

 幾重にも重なった人影がばらばらに引き裂かれ、砕かれ、しかし再び絡み合い、元の塊に戻ろうとする。

 そのたびに、血の気を帯びない影の肉が裂ける音が響き、夜の闇に打ち付けられた剣の衝撃と混ざり合って、耳の奥に鋭利な痛みを残した。


 騎士は止まらない。

 一撃ごとに影を押し潰し、引き裂き、踏みしだく。

 そのたび、影は呻き、ひび割れたように砕け、裂けた身体から何かが滴るような音を上げる。

 剣の軌跡は銀の閃光となり、闇の塊を切り裂くたびに、影の悲鳴が夜を満たす。

 まるで、影そのものを拷問し尽くすかのような冷徹な動作。

 振るうたびに闇を打ち据え、痛めつけ、支配する儀式のようだった。


 影は崩れても崩れても立ち上がり、再び押し寄せる。

 だが騎士は冷徹に、淡々と、剣を振り下ろし続ける。

 その様子は、戦いというより拷問に近く、夜そのものを裂き、夜そのものを痛めつけているように見えた。

 空気は鉛のように重く、月さえも雲の奥で光をためらう。

 二人と一匹は、骨の髄まで響く轟音に身を固くし、息を殺す。

 耳鳴りが心臓の鼓動をかき乱し、影の悲鳴は処刑場の声のように錯覚させる。


 時間の感覚は失われた。

 一刻が過ぎたのか、一夜が流れたのか、誰にも分からない。

 ただ延々と、影が叩き潰され、呻き、再び立ち上がる。

 騎士は休むことなく剣を振り続け、闇の塊を徹底的に打ち据える。

 その反復は終わりのない呪詛の詠唱のようで、見ているだけで心が削られる。


 やがてモンドが唇を噛みしめ、ゼフィに目配せする。


「……こりゃ、一旦持ち帰らねぇとな」


 低く絞り出す声には、微かに震えが混じった。

 ゼフィはうなずき、息を殺すように答える。


「村長様にお話を聞きましょう。何か手がかりがあると思います」


 シロは二人の足元に身を寄せ、小さく唸り声を漏らした。

 毛並みは逆立ち、尾は硬直している。

 獣の直感が告げていた――あの場に長く留まるべきではない、と。


 二人と一匹は慎重にその場を離れた。

 背を丸め、一歩一歩を忍び足で進める。

 枯れ草の擦れる音すら殺し、影に溶け込むように暗がりを抜ける。


 後ろではなおも、剣の轟音と影の悲鳴が夜を切り裂いていた。

 振り返ることはしなかった。

 耳には、焼き付いたかのようにあの音が残る。

 剣戟の響き、影の断末魔、骨を砕くような轟音。

 それはまるで、彼ら自身が痛めつけられているかのように胸を抉り、心臓を締め上げる。


 村へ戻る足取りは重く、二人の心には暗い重圧が残った。

 今見たものを言葉にすることは容易でなく、理解の及ばぬ異界の光景だ。

 だが確かなのは、あの墓地で繰り広げられていた拷問の痕跡が、まだ耳と心に焼き付いているということだった。

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