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根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
影を聴く刻
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29

 村外れへ足を向けると、道はゆるやかに傾き、草の丈が膝を覆い始めた。

 人の往来がほとんどない小径には夜露が残り、踏みしだくたびに草の肌から水滴が弾け、湿った土の匂いが立ち上る。

 その香りは夏の残滓を思わせつつ、夜の冷たさを帯びた陰影が漂っていた。


 村のざわめきは遠ざかり、空気は夜の色に染まる。

 子供の笑い声は霧のように消え、鶏の甲高い鳴き声も谷底へと沈む。

 代わって耳に届くのは、すすきが擦れ合う乾いたささめきと、土の奥底から滲み出す沈黙の重みだった。


 夜空には星々が瞬き、柔らかな月光が墓地を包む。

 石の表面には銀色の光が落ち、影は長く伸びて闇と絡み合う。

 苔むした文字の擦れた石、崩れかけた輪郭の石、そして新しい名を持つ石が整然と並び、揺れる草の間からひそやかな威圧を放っていた。


 モンドは一歩、墓地に踏み込む。

 乾いた草を踏みしだく音が、夜の静寂に鋭く切り込む。

 肩にかかる旅装の埃を払い、短く息を吐いた。


「……少々くたびれちまってるが、手は行き届いてるか」


 墓石の多くは風雨に削られ文字を失い、年月の牙に齧られていた。

 しかし足元の草は整えられ、転がるはずの枯葉も掃き清められている。

 絶え間なく人の手が入っていることが、石たちの影にほのかに浮かんでいた。


 モンドの隣に立つゼフィは、両の掌を静かに合わせた。

 指先は微動だにせず、内奥に積もる祈念が姿勢に宿っている。


「どうか、安らかに。村は平穏を取り戻しております」


 その声は夜風に溶け、石の隙間を縫って墓に刻まれた名の奥深くに沁みていくようだった。

 耳で聞く音というより、土を揺さぶるさざ波のような響きだった。


 モンドは腰の袋から小さな徳利を取り出す。

 口を開けると米の甘い薫りが漂い、夜の冷気に混ざりこむ。

 まず、背後に立つ静馬の墓標にそっと注ぐ。

 液体は石を伝い、土に吸い込まれ、微かな滴の音は雨の囁きを思わせながら墓地に広がった。


「……死んじまってまで飲めるわけもねえがよ。せめて香りくらいは嗅いでってくれりゃ御の字だ」


 半ば冗談めかした笑みの奥、胸には後ろめたさが潜む。

 モンドは慣れた手つきで六つの墓標に順に酒を流し込む。

 ひとつ注ぐごとに、そよ風が墓地を撫で、草の間から香気が立ち上る。

 二つ目では甘い香りがわずかに増し、三つ目では葉擦れの音が力を増す。

 四つ目には微かな温もりを伴う気配が背筋を撫でる。

 五つ目を終えるころ、月光が墓地全体を銀灰色に染め、最後の六つ目に注ぐと、光がそれぞれの石を包み、微細な波動が空間に広がった。


 やがてモンドは膝を折り、指を組んで印を結ぶ。

 吐き出された言葉は短く低く、祈りにも呪にも似ていた。

 風は止み、草木はざわめきをやめ、沈黙が形を持ったかのように場を支配する。


 その瞬間、モンドの背後で幽かな光が芽吹き、やがて人影が形を結ぶ。

 その姿は鎧をまとった騎士だった。

 身にまとった装束は透け、金属の光沢も霞み、肩当ての紋章は欠けている。

 それでも立ち姿は崇高で、気高さが漂っていた。


 騎士は墓標を見渡し、無言で深く息を吸う。

 肺は失われて久しいはずなのに、その動作には自然な懐かしさが滲む。

 視線は二人へ向けられ、口元をかすかにほころばせた。


「……お久しゅうございます、モンド殿」


 その低い声は夜の静寂を震わせ、空気に波紋を広げる。


 後ろに振り向いたモンドは口の端を歪める。


「おう、静馬。久しぶりだな。……こうして墓参りなんざ、柄じゃねえがよ」


 ゼフィは祈りの手をほどき、静馬を見上げる。

 その瞳に浮かんだのは恐れではなく、敬意と安堵。

 揺れる霊の影に、彼女はむしろ人間らしさを見出していた。


 静馬は二人を見つめ、深々と頭を垂れる。


「モンド殿……盟を結びしこの地へ再び呼び戻してくださったこと、そして墓を訪れてくださったこと、感謝の言葉も尽きませぬ。酒の香りも、祈りの声も、この魂に安らぎを与えてくれました」


 声には忠誠と敬意がにじみ、輪郭もわずかに揺れる。

 小暗くきらめく姿は、消えそうで消えない灯火のようで、夜の闇が深まるにつれ儚さを帯びる。

 それでも言葉には確かな熱が宿っていた。

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