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根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
古き香りの棚
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 支払いを終えると、老人は小さく手を振って二人を送り出した。


「また寄っていけ。豆が尽きるまでは、この香りは途切れんからな」


 その声には、ただの挨拶以上の温もりがあった。

 言葉の端々に漂う歳月の香りが、扉越しにも二人の心にそっと染み込む。


 沈みかけた夕日が町を朱に染める通りに出ると、背後から珈琲の芳香が追いかけてくるようで、二人はしばし扉の前に立ち止まった。

 ゼフィは小さく息を吐き、目尻に柔らかな笑みを浮かべる。


「香りごと、あの方の思い出に抱かれている気がします」


 その声には、夜の気配に混ざった温かさの余韻が漂っていた。


 モンドは肩をすくめ、空を仰ぐ。

 石畳を朱色に染める残照は、昼の名残をほのかに残していた。

 隙間から忍び込む夜風は、余熱に触れながら通りの影を淡く揺らす。


「ま、それも悪かねぇ」


 歩き出した瞬間、一人の老紳士とすれ違った。

 背筋を伸ばしたその人影は、ためらうことなく扉を開き、「喫茶・小路」へと吸い込まれていく。

 次の瞬間、店の奥から弾む声が外まで漏れ響いた。

 途切れていた時間が、珈琲の湯気に混ざりながらそっと空気を震わせる。

 喜びは言葉にならず、夕暮れに染まる町並みに細く溶け込んでいった。

 その声の調子や抑揚から、かつての笑い声の余韻や、静かな年月の重みまでが、通りにゆらりと立ちのぼるようだった。


 モンドはちらと振り返り、口元を歪めて小さく呟く。


「へぇ、まだ漕ぎ手が残ってやがったか。……そりゃ船も沈まずに済むわけだ」


 僅かな茶目っ気と洒落っ気が、声の端に混じっていた。


 ゼフィは微笑を返し、肩を揺らす。

 笑い声は沈む日輪の朱に溶け、二人の間にゆるやかに広がる。

 通りの石畳に反射する柔光は、二人の足取りに沿って微かに動き、夜と昼の境界を漂う小舟のようだった。


 歩きながらゼフィは、手元に残る珈琲の余韻を思い浮かべる。

 あの老人の小さな仕草、手を振る指先、微かに震える声の端、すべてが、今の自分たちを守る盾のように感じられた。


 モンドは肩越しにゼフィを見やり、微かに笑う。

 彼女の柔らかな表情に、夜の冷えも少し和らいだようだった。


 夕日の朱は、通りの建物の屋根や窓枠に映り込み、錆色の輪郭を浮かび上がらせる。

 石畳に落ちる足音は柔らかく、時折吹く風に乗って遠くの教会の鐘の音が微かに混ざる。

 夜の訪れを知らせる風景は、昼の名残と静かな期待を同時に抱え、二人の心をそっと包んだ。


「……あの声、随分と弾んでたな」


 モンドは小さく呟く。


「本当に、長く会っていなかった人と再会したみたいでしたね」


 ゼフィの声には、喜びと少しの懐かしさが混じっていた。


 二人はお互いの歩幅を合わせながら、街のざわめきに足を踏み入れる。

 朱に染まった通りを抜け、遠くに見える窓の煌めきや街角のほの灯が柔らかく揺れる。

 夜風は珈琲の残香を街に運び、通りを渡るたびに微かに形を変えながら二人の間を漂った。


 モンドはふと手元を見つめ、ゼフィの小さな仕草や表情の僅かな変化を確かめるように見つめる。


「たまには、昔の道を戻ってみるのもいいかもしれねぇ。前ばかり向いてちゃ、どこを歩いてるのか分からなくなる……錆れた港をそっと覗くくらいによ」


 彼の声は、心の奥に沈んでいた疲れをそっとほどくようだった。

 そして、忘れかけていた場所や時間に、そっと手を伸ばす柔らかい誘いも含まれていた。


 夕闇が広がる中、二人の影は石畳に柔らかく伸び、ゆらりとした影の輪郭に溶け込む。

 そのさざめきは、まるで時間そのものが揺れるかのように、通りの一瞬を切り取っていた。


 ゼフィはゆっくりと立ち止まり、深く息を吸う。


「今日も、いろんなことがありましたね……でも、こうして歩いていると、全てが静かに寄り添ってくれる気がします」


 モンドは少々顔を顰めて、ぽつりとこぼす。


「寄り添う……ね。たまには、目の端に見えぬ温もりを感じるくらいの礼はせにゃならんか」


 ゼフィは首をかしげ、不思議そうに彼を見つめる。

 彼はそっと手を振り、ゆるやかに歩き出す。


 二人は通りを進みながら、沈みかけた空の朱色と街角のほの灯に照らされ、互いに心地よい沈黙を共有した。

 街のざわめき、石畳に映る残光、珈琲の芳香……すべてが今日の記憶となり、やがて夜の帳とともに静かに溶けていく。

 しかし、その消えゆく記憶の中にも、確かな温もりが二人の胸に残り、次の夜の航路を照らす小さな導きとなった。


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