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老人はふっと肩を竦め、カウンターの上に置いた掌をさすりながら小さく笑った。
「常連客にはこんな話せんのだがな。……少々、話しすぎたかもしれん」
モンドはカップを指先で転がしながら、口の端を上げる。
「話してくれるだけでも贅沢なもんだ。……ただ聞くだけじゃ芸がねぇな」
そう言って、メニューを軽く叩くように広げた。
「珈琲を二つ。それから、何か腹に入るもんを。少しは店に金を落とさにゃ、釣り合いがとれねぇや」
「まったく気にせんでも良いと言うに。客もこんから、ゆっくりしていきな」
老人は笑いながら二人に声をかける。
銀霜豆を挽く低い音が響き、粉が小さな滝のように受け皿へ落ちる。
その粒が砕けるたび、仄かに青みを帯びた香りが立ちのぼる。
空気の奥に漂うそれは、疲労を吸い上げる薬草の煙のように肺へ染みわたり、肩の力をゆるやかに溶かしていった。
ゼフィは香りに目を細め、両手でカップを包み込む。
湯気はもう立っていなかったが、掌に伝わる器の温もりに、過去の嵐を抜けてきた自分の心もそっと解けるようだった。
「……嵐を抜けてきた身には、こういう一杯が何より沁みます」
モンドが苦笑しつつ頷く。
「まあ、俺らも、似たような夜を越えてきた口だ。時に、刃より先に重みが落ちることもある。避けたくても避けられねぇものってのは、あるもんだ」
ゼフィは短く息を呑み、瞼を伏せて唇を湿らせる。
「光を選べば影は避けられない……。けれど、その影もまた私の歩みの一部。そう思えば、踏み越えてきた夜さえ静かに抱ける気がします」
老人は湯を注ぎながら二人の言葉に静かに耳を傾けた。
立ちのぼる蒸気がカップの輪郭を柔らかく包み、窓辺の淡い光と交じり合う。
煙のひと筋ひと筋が、夜の疲れをささやくように漂った。
モンドはカウンターに肘を預け、空いた手で髭を掻く。
「……振り払おうとして振り払えるもんじゃねぇ。追い払ったつもりでも、月明かりの下じゃ余計に濃く見えちまう」
ゼフィは小さく目を見開き、口元を緩めて微笑んだ。
「ふふ。慰めてくれているんですか? 本日は珍しいお姿をよく見せていただき胸がいっぱいです」
彼女の笑みに、モンドはくすぐったそうに肩を竦める。
短い沈黙のあと、目の端が柔らかく細められる。
老人は二人を見つめ、微かに口元を緩める。
三人の間に、言葉ではない静かな共鳴が生まれていた。
老人は口を開く。
「誰しも夜に火を灯せば、煙くらいは肺に入るもんだ。良かれ悪かれな」
そう呟くと、カウンターに並べたカップへ抽出した珈琲を注ぐ。
黒々とした液面に湯気が立ちのぼり、香りが小さな渦を描いて周囲に広がった。
ゼフィのカップには、彼女自身の手で小さく蜜が垂らされる。
黄金の雫が静かに溶け込み、甘やかな香りが漂った。
モンドのカップは深く濃く、迷わず口へ運ぶ。
老人は空いたサーバーを戻し、自らの分を手にして静かに腰を下ろした。
仕草には時の重さと、年輪の柔らかさが同居していた。
「手に残る煤は水じゃ落ちん。だがな……うまい珈琲で煙を吐き出すくらいはできる。そうやって胸を軽くしときゃ、次の朝も少しは晴れやかに迎えられる」
ゼフィはその言葉に小さく笑みを返し、掌を胸元に添えた。
蜂蜜の甘やかさに混じるわずかな苦味が、心の奥に巣くう痛みと重なり合い、しなやかに受け止められていく感覚を覚えた。
モンドは目を細め、琥珀色の液面を覗き込む。
波紋が小さく揺れ、過去の重荷が一瞬、ゆらりと浮かび上がる。
すぐに珈琲の深い色に溶け、穏やかな温かさだけが残った。
「……不思議なもんだな。飲み干すたびに、腹だけじゃなく背中まで温まる気がする」
老人は笑みを深め、皺の刻まれた指で自分のカップをカウンターに戻す。
「珈琲はただの飲み物じゃない。火と手間をくぐれば、香りや甘味と一緒に、過ぎた日々の記憶までそっと立ち上がる。人の心も、そうして柔らかく変わるもんさな」
三人の影が琥珀色の水面に揺れ、その揺らぎが互いの過去を淡く重ね合わせる。
外の風音がかすかに聞こえ、窓の外では薄雲が月を覆ったり透かしたりしている。
その微細な光の変化は、三人の胸奥に残る日々の温度や痛みを、そっと映すかのようだった。
店内の静けさは、過ぎ去った夜の残り香と、束の間の安らぎを同時に抱えていた。
そして、珈琲の香りに満たされた小さな空間は、戦場の記憶さえも一時忘れさせる、仮初めの聖域となっていた。




