25
老人はふと、カウンターに置いた手を眺めるようにして口を開いた。
「昔な……毎夜のように肩を寄せ合った仲間がいた。背中を預けられるってのは、あれ以上の財産はなかったよ」
手のひらの皺をなぞるように指を滑らせ、目尻の皺が深くなる。
言葉の調子は穏やかだが、その奥には焔に照らされた夜や、雨に濡れた槍の柄の冷たさ、風に揺れる小舟の軋む音まで、淡い記憶の光景が重なっていた。
耳の奥には、仲間の低い息遣いや、雨の叩く音が、まるで昨日のことのように響いている。
「今で言えば……そうさな、嵐の夜に小舟を漕ぐようなもんさ。櫂を握る手が震えても、隣に誰かがいるだけで沈まぬ気がした。炎の熱、雨の叩く音、槍の重み……全部が胸に刻まれちまった」
老人は微かに笑みを浮かべ、頬の筋肉をゆるめる。
だが、その目の奥に一瞬、影が射す。
指先がわずかに震え、心の奥の疼きを手で押さえ込むかのようだった。
その手の動きは、かつて仲間と櫂を握った感触を反射するかのようで、胸に熱を灯す。
ゼフィの心は自然とその光景に引き込まれる。
小舟は荒波に揺れ、焔の熱に顔を赤らめ、雨に濡れた槍を握る手が力なく震えている。
耳に残るのは雨の叩く音と、仲間の低い声、そして互いにかけた短い言葉の残響。
ゼフィはその映像を、自分の中の風景として組み立てる。
指先でカップを軽く押さえる手が、まるで小舟の櫂を握る自分の手のように感じられ、胸の奥に熱いものが流れ込む。
「だが、その小舟もな……一人減り、また一人減り……気づきゃ櫂を並べる音も聞こえなくなった」
声は乾いた響きに変わり、手のひらで豆を軽く転がす動作に力が入る。
過ぎ去った夜々の重みを指先で確かめるかのように。
その指の震えには、取り戻せぬ時間へのわずかな怒りと、静かに寄せる哀惜が混じる。
「年を重ねれば、誰もが岸に辿り着く……あるいは途中で波に呑まれる。そういうもんだ。だから、今さら取り立てて悲しむことでもないんだがな」
笑って言いながらも、その笑みには薄氷のような寂寥が滲む。
光に照らされた皺の影が、過ぎ去った仲間たちの面影を、ほんのり映し出す。
焔の光、雨の冷たさ、槍の重み――それらは今も心の中で温かくも痛い余韻となって残っている。
ゼフィは小さく息を呑み、指先でカップを軽く押さえながら、その陰りを敏感に感じ取った。
胸の奥を氷原を渡る風のような冷たさがかすめ、切なくも温かい感覚が走る。
目元に微かに光を宿し、唇をかすかに噛む。
雨に打たれた槍の冷たさ、焔の熱、仲間の吐息――ゼフィの内面でその全てが生き生きと動き出す。
モンドもまた、言葉を差し挟まず、静かに視線を落とす。
琥珀色の液面に映る自身と老人の影を見つめながら、胸の中で老人の孤独と懐かしい記憶の温度を、揺れる炎のように受け止めていた。
その視線には、静かな共感と、相棒としての信頼が滲む。
老人はゆっくりと頭を振り、カウンター越しに目を細める。
「だがな……忘れちゃいけないのは、あの夜々の熱、雨音、槍の重みも含めて、奴らと共有した時間そのものさ。戦争のことを良しとは思わん……だが、あの仲間たちとの記憶は、今も胸に生きている」
指が震え、目元に微かな光を宿して言葉を重ねるその姿は、焙煎される豆の香りと重なり、時間の厚みを帯びていた。
焔や雨の匂いまで蘇るような、懐かしくも痛みを伴う記憶の余韻。
その震える指は、過去の手触りを今に引き寄せるかのようだった。
淡い沈黙が、カウンター越しの三人を包む。
モンドは静かにカップを掲げ、琥珀色の液面を揺らしながら老人を見つめる。
ゼフィもまた、小さな微笑を浮かべ、わずかに視線を落として杯に触れた。
言葉にせずとも、互いの胸中で、過去の夜と共有された記憶の重み、そして今の孤独が確かに交わる。
ゼフィの視線はふと、老人の掌に残る皺や指の震えに注がれる。
まるで時の重みそのものを触れようとしているかのようだ。
彼女の胸中で、あの小舟の夜、雨、槍、仲間たちの声が折り重なり、現実と幻想の境界がわずかに溶ける。
モンドもまた、カップを揺らす手元で、その気配を感じ取っていた。
三人の時間が、言葉なくして一つの記憶を共有している瞬間。
カウンター越しの空気は、過去を悼む静寂であり、語られなかった無数の夜を想像させる余韻でもあった。
雨に打たれた槍の冷たさや焔の熱を思い出すような、その感触の残り香が、店内にじんわりと滲む。
そして三人は、過去の夜々を胸に、今という時間の温もりを静かに受け止めていた。




