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根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
古き香りの棚
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 老人はふと、カウンターに置いた手を眺めるようにして口を開いた。


「昔な……毎夜のように肩を寄せ合った仲間がいた。背中を預けられるってのは、あれ以上の財産はなかったよ」


 手のひらの皺をなぞるように指を滑らせ、目尻の皺が深くなる。

 言葉の調子は穏やかだが、その奥には焔に照らされた夜や、雨に濡れた槍の柄の冷たさ、風に揺れる小舟の軋む音まで、淡い記憶の光景が重なっていた。

 耳の奥には、仲間の低い息遣いや、雨の叩く音が、まるで昨日のことのように響いている。


「今で言えば……そうさな、嵐の夜に小舟を漕ぐようなもんさ。櫂を握る手が震えても、隣に誰かがいるだけで沈まぬ気がした。炎の熱、雨の叩く音、槍の重み……全部が胸に刻まれちまった」


 老人は微かに笑みを浮かべ、頬の筋肉をゆるめる。

 だが、その目の奥に一瞬、影が射す。

 指先がわずかに震え、心の奥の疼きを手で押さえ込むかのようだった。

 その手の動きは、かつて仲間と櫂を握った感触を反射するかのようで、胸に熱を灯す。


 ゼフィの心は自然とその光景に引き込まれる。

 小舟は荒波に揺れ、焔の熱に顔を赤らめ、雨に濡れた槍を握る手が力なく震えている。

 耳に残るのは雨の叩く音と、仲間の低い声、そして互いにかけた短い言葉の残響。

 ゼフィはその映像を、自分の中の風景として組み立てる。

 指先でカップを軽く押さえる手が、まるで小舟の櫂を握る自分の手のように感じられ、胸の奥に熱いものが流れ込む。


「だが、その小舟もな……一人減り、また一人減り……気づきゃ櫂を並べる音も聞こえなくなった」


 声は乾いた響きに変わり、手のひらで豆を軽く転がす動作に力が入る。

 過ぎ去った夜々の重みを指先で確かめるかのように。

 その指の震えには、取り戻せぬ時間へのわずかな怒りと、静かに寄せる哀惜が混じる。


「年を重ねれば、誰もが岸に辿り着く……あるいは途中で波に呑まれる。そういうもんだ。だから、今さら取り立てて悲しむことでもないんだがな」


 笑って言いながらも、その笑みには薄氷のような寂寥が滲む。

 光に照らされた皺の影が、過ぎ去った仲間たちの面影を、ほんのり映し出す。

 焔の光、雨の冷たさ、槍の重み――それらは今も心の中で温かくも痛い余韻となって残っている。


 ゼフィは小さく息を呑み、指先でカップを軽く押さえながら、その陰りを敏感に感じ取った。

 胸の奥を氷原を渡る風のような冷たさがかすめ、切なくも温かい感覚が走る。

 目元に微かに光を宿し、唇をかすかに噛む。

 雨に打たれた槍の冷たさ、焔の熱、仲間の吐息――ゼフィの内面でその全てが生き生きと動き出す。


 モンドもまた、言葉を差し挟まず、静かに視線を落とす。

 琥珀色の液面に映る自身と老人の影を見つめながら、胸の中で老人の孤独と懐かしい記憶の温度を、揺れる炎のように受け止めていた。

 その視線には、静かな共感と、相棒としての信頼が滲む。


 老人はゆっくりと頭を振り、カウンター越しに目を細める。


「だがな……忘れちゃいけないのは、あの夜々の熱、雨音、槍の重みも含めて、奴らと共有した時間そのものさ。戦争のことを良しとは思わん……だが、あの仲間たちとの記憶は、今も胸に生きている」


 指が震え、目元に微かな光を宿して言葉を重ねるその姿は、焙煎される豆の香りと重なり、時間の厚みを帯びていた。

 焔や雨の匂いまで蘇るような、懐かしくも痛みを伴う記憶の余韻。

 その震える指は、過去の手触りを今に引き寄せるかのようだった。


 淡い沈黙が、カウンター越しの三人を包む。

 モンドは静かにカップを掲げ、琥珀色の液面を揺らしながら老人を見つめる。

 ゼフィもまた、小さな微笑を浮かべ、わずかに視線を落として杯に触れた。

 言葉にせずとも、互いの胸中で、過去の夜と共有された記憶の重み、そして今の孤独が確かに交わる。


 ゼフィの視線はふと、老人の掌に残る皺や指の震えに注がれる。

 まるで時の重みそのものを触れようとしているかのようだ。

 彼女の胸中で、あの小舟の夜、雨、槍、仲間たちの声が折り重なり、現実と幻想の境界がわずかに溶ける。

 モンドもまた、カップを揺らす手元で、その気配を感じ取っていた。

 三人の時間が、言葉なくして一つの記憶を共有している瞬間。


 カウンター越しの空気は、過去を悼む静寂であり、語られなかった無数の夜を想像させる余韻でもあった。

 雨に打たれた槍の冷たさや焔の熱を思い出すような、その感触の残り香が、店内にじんわりと滲む。

 そして三人は、過去の夜々を胸に、今という時間の温もりを静かに受け止めていた。

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