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根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
古き香りの棚
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 モンドとゼフィの前に、ほどなくして湯気を立てる二つのカップが置かれた。

 まだ一言も注文を告げていなかったため、ゼフィは瞬きを繰り返し、戸惑いを隠せない。


「……あの、私たち、まだ」


 老人は朗らかに手を振り、肩を揺らして笑った。


「言葉より先に鼻が頼んできておったろう。匂いに誘われてここへ入ったなら、出さずに返す方が罪ってもんだ。なに、年寄りの道楽よ。金なんぞとらんさ」


 湯気とともに立ちのぼる香気は、街角で漂った時よりもさらに濃く、まるで胸の奥に積もった氷を溶かし、心の扉を静かに押し開くようだった。

 焙煎された豆の奥に潜む苦味と芳香は、語られることを待つ詩のように沈黙しながら、空気の中で渦を巻き、ゆらりと踊る旋律を奏でていた。

 時折立ちのぼる煙の筋が、陽光に透ける薄絹のように揺れ、ふたりの間に柔らかな光の帯を描き出す。


 モンドは腕を組み、香りをひと息吸い込むと、ゆるやかに口端を上げる。


「……ずいぶんと。苦みと芳香が重なり合って、舌に触れる前から惜しくなる代物だな。まるで、飲む前に語り尽くされてしまう詩のようだ」


「ほう、惜しいと言ったか。それは重畳」


 老人は満足げに頷き、棚から取り出した瓶を軽く振って見せる。


「これは銀霜豆(ぎんそうまめ)と呼ばれる。山の尾根で寒霜を浴び、眠るようにじっと冬を耐え抜いた豆だ。焙煎すれば、苦みの奥底から澄んだ香りが立ち上がる。荒ぶる冬を越した分だけ、その一滴には清冽な風のような力が宿る」


 ゼフィは湯気を眺めつつ、ふとカップの横に置かれた小瓶へと目を向けた。

 透き通る琥珀色の粘液が光を受け、まるで月の滴を閉じ込めたように輝いている。


「この蜜……見たことがありません」


「おぉ、目ざとい。そいつは月光蜜(げっこうみつ)だ。夜にだけ咲く白い花から蜜蜂が集める。月の露をまとった花の香が混じるせいか、舌にのせるとひやりとした甘みが広がる。苦みを抱えた珈琲と出会えば、ふたりの舞踏のように寄り添い、互いを引き立て合う」


 ゼフィは恐る恐る匙を浸し、滴る蜜を少しだけ珈琲に垂らした。

 唇に触れた瞬間、熱と冷ややかさが絡まり合い、花の影が口中に咲いたような錯覚を呼ぶ。


「……ほんとうに。不思議と苦みを引き立てるのに、まるで刺がない」


「甘露ってやつは、いつだって人を包み込んでくれるもんだ」


 老人の声は静かに、しかし奥底に重みを帯びて響いた。


 視線の先には、瓶や壺や籠が幾重にも並ぶ棚。

 乾いた苔を束ねたもの、小さな赤い果実を詰めた壺、銀色に光る木の皮の巻物まで――どれも森が抱く秘密をそのまま形にしたようだった。


 モンドが赤い果実を指さす。


「この赤玉は?」


「火守りの実だ。森の奥でしか育たん。焚き火にくべれば炎を長らく燃やし続ける。人が食せば、内側に穏やかな火を宿し、寒気を払いながら心を鎮めてくれる」


 ゼフィは隣の籠に目を移す。


「では、この銀色の皮は?」


鏡樹(かがみぎ)の樹皮よ。磨けば姿を曇りなく映す。だがな、写るのは形ばかりじゃない。時に心の影までも忍び込むという」


 モンドは苦笑を浮かべる。


「そいつは困るな。俺の影なんぞ覗かれたら、碌でもないもんが映る」


 ゼフィはからかうように笑い、カップを軽く揺らした。


「でも、意外と綺麗に映るかもしれませんよ? ほら、見た目よりも中身が、って」


 老人は低く笑った。


「若さゆえの言葉だな。年を重ねれば、影の方がよく喋る。だが――影があるというのは、生きてきた証でもある。人の数だけ影がある。おぬしらの旅路にも、もう深く刻まれておろう」


 モンドはカップを掲げ、琥珀色の液面に揺らぐ自分の顔を見やった。


「影もまた、一杯の苦みに似ている。背負いながら味わうからこそ、沁みるものだ」


 ゼフィは小さく息を呑み、目を細めて微笑む。


「……ずいぶんと気障ですね、今日は」


 老人は呵々と笑い、カップを磨く手を止めて肩を揺らした。


「槍を抱えて夜を越したこともあったが――」


 短く笑みを刻み、掌で豆を転がす。


「豆を焙じている今の方が、よっぽど戦い甲斐がある」


 その声音には、影を抱えたまま今を生きる者の確かな手応えが宿っていた。


 モンドは笑みを返し、軽くカップを揺らす。


「なるほど、今日の豆は確かに手ごたえがあるな」


 ゼフィは目を輝かせ、口元を緩めた。


「ふふ、焙煎も、意外と刺激的ですね」


 湯気の渦がゆっくりと店内を漂い、光の帯となって棚の瓶や壺に反射する。

 珈琲の香りは、壁の古い木目をすり抜け、床を這い、二人の感覚を満たしながら、まるで時間の流れを柔らかく編み直していくかのようだった。


 やがて、木の皿に素朴な焼き菓子が運ばれてくる。

 焦げ目の香ばしさと蜂蜜の淡い光沢は、炎の欠片と月の雫をひとつの皿に並べたようで、杯の熱に溶け合い、さらに場を和ませていく。


 ――珈琲の香り、目を引く珍しい品々、湯気の舞い、そして言葉の往き来。

 それらすべてが、外を過ぎる夕暮れを忘れさせ、店内にひとつの温かな時間を紡ぎ上げていた。

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