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根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
古き香りの棚
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 モンドとゼフィは、石畳の街路を肩を並べて歩いていた。

 暮れかけた陽は銅を溶かしたような赤を路地に流し込み、長く伸びた影はまるで二人の背を押す風のように揺らいでいる。

 家々の窓からは、晩餉の湯気と人々の声が洩れ、日常の温もりが細い通りを彩っていた。

 そんな中、不意に漂ってきた香りが二人の足を止めさせた。


「……おや」


 モンドが立ち止まり、鼻先を高く掲げて深く息を吸い込む。


「珈琲豆の焙煎だな。火がちょうど、豆の芯まで届きはじめる頃合いだ」


 ゼフィも真似て鼻を鳴らす。

 焦げでも煙でもない、澄んだ苦みが胸の奥を静かに温める。


「ほんとに。あの香り……最後に頂いたのは、いつでしたか」


 彼女は記憶を探すように目を細め、ひとつ吐息をもらした。

 その吐息は、長旅に不意の春風が吹き込むような懐かしさを帯びていた。


 視線を向けると、小路の奥に古びた木の看板がかかっている。

「喫茶・小路」と墨で書かれた文字は、雨と陽を幾度も浴び、なお凛とした筆致を保っていた。

 擦れた線の一本一本に、歳月の層が沈みこんでいるかのようだ。

 モンドがにやりと笑う。


「こりゃあ、匂いの出所は決まりだな」


 扉を押し開けると、かすかな鈴の音がころんと転がり、暖かな空気が二人を包んだ。

 店内はこぢんまりとしているが、どこを見ても古い物が丹念に磨き込まれ、年月の息吹を宿している。

 木の棚には小さな陶器が並び、それぞれが微かに異なる表情を見せ、まるで静かに語りかける老楽師の顔のようだった。

 壁際の真鍮の焙煎機は、長年の熱と煙を吸い込み、今は大きな心臓のように静かに鎮座している。

 カウンターの木肌は幾千の掌を受け止め、刻まれた皺は年輪のように深く、指先に伝わる温もりが、店の記憶そのものを触れるようだった。

 その片隅に、場違いに光を放つ勲章がひとつ、無言の証のように置かれている。

 棚には手回しミルやサイフォンが整然と並び、年代物ながら精巧に立ち、時の色を帯びつつも気骨を失わない姿で存在感を放っていた。


「いらっしゃい」


 奥から現れたのは、背筋の伸びた老人だった。

 髪は雪のごとく白く、額には深い皺が刻まれているが、眼差しの奥には今なお火種が揺れている。

 声は朗々と響き、室内の古道具たちに新たな息を吹き込むようだった。


「見かけん顔だな。旅の者か?」


 モンドが軽く頭を下げ、気取らず答える。


「ええ。匂いにつられましてね。気がつきゃこの通りに足が向いておりました」


 老人は声をころころと転がし、陽気に笑った。


「匂いは嘘をつかん。風に運ばれてくるものは、腹よりも先に心を満たすからな」


 そう言うと、快活な笑みを浮かべ、二人をカウンター席へ導く。


 ゼフィは腰を下ろし、好奇心に頬を紅潮させて辺りを見回す。


「なんだか……不思議に落ち着くお店ですね」


「ああ。時を積んだ深みが、店の肌に沁みてる」


 モンドがそう相槌を打つと、老人はにやりと笑い、棚の勲章に視線をやった。


「囲炉裏の煙も、焙煎の香りも……それに戦火の煙さえも。違いはあれど、人は煙に包まれると妙に心を澄ませるもんだ」


 言いながら器具を扱うその手は、年輪を刻んでもなお若木のようにしなやかで確かだった。

 豆を量り、ミルを回すたび、金属音が店内に小さな旋律を描く。


 ゼフィは思わず問いかける。


「……あの勲章も、戦の煙に包まれて得られたものなのですか」


 老人の手が一瞬止まったが、すぐに笑みが戻る。


「さてな。焙煎も勲章も、焦がしすぎれば苦いだけだ。ちょうど良い塩梅を見つけるのが肝心よ」


 モンドは目を細め、唇の端を吊り上げた。


「粋な言い回しだ……こいつぁ、期待せずにおれん」


 ゼフィは目を輝かせ、ふっと微笑みを浮かべて頷いた。

 まるで初春の陽光が小路を撫でるように、静かに心を満たしていく。

 その頷きだけで、期待と好奇心が淡く漂い、空気をそっと染め上げた。

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