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根なしの味わい  作者: 小鳥遊綜一郎
羽ばたく影と食の焔
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 夜の饗宴は、笑い声と焚き火の香りを胸に残して幕を閉じた。

 その余熱がまだ肌の奥に宿っているかのように、翌朝の村はしんとした霧に包まれていた。


 川辺から立ちのぼる白い靄は、ゆるやかに広場を覆い、人々の姿を淡くかすませる。

 まだ陽は高くなく、空は薄藍に染まり、枝葉の間から射す光は水滴を帯びた蜘蛛の巣を宝石のように輝かせていた。

 昨日の焚き火の跡からは、かすかな焦げ香が漂い、炭の下に残る熾火が赤い眼差しをひそやかに光らせている。

 まるで夜の記憶が、朝へと溶け残っているかのようだった。


 赤子を抱いた母は、まだ眠たげなまぶたをこすりながらも、名残惜しさに集いへ足を運んでいた。

 子供たちは小声で囁き合いながらも、旅立つ二人の影を追って落ち着かない。

 老人は杖をつき、昨夜とは違う厳かな面持ちで立ち、若者たちはどこか誇らしげに二人を見つめていた。


 やがて首長が一歩前へ進み出て、モンドとゼフィに向き直る。

 霧を割るようにその声が広場に満ちた。


「短い時だったが……おまえたちと食卓を囲めたことは、この村にとって大きな喜びだ」


 静かな響きでありながら、森の根に染み込むような重みがあった。


「こちらこそ」


 モンドは肩に荷を担ぎながら応じる。


「おまえたちと囲んだ焚き火の味は、きっと忘れない」


 子供たちが我慢できずに駆け寄り、ゼフィの袖を小さな手でつかんだ。


「また来てね!」


「次はもっと大きな魚を捕まえてあげる!」


 声は震え、笑顔と涙が同じ顔に並んでいた。


 ゼフィはしゃがみこみ、ひとりひとりの目を見て、やさしく手を置く。


「ええ。きっとまた、この森の風と川の音に導かれて」


 その言葉に、子供たちは胸を張るようにうなずき、母たちの背へ駆け戻っていった。


 女たちは、草で編んだ小さな包みを二人へ手渡した。

 中には干した茸と香草、それに昨夜の余りをほんの少しだけ忍ばせてある。


「道中で腹が減ったら思い出すといい。森と我らの味をね」


 その声は穏やかでありながら、どこか祈りにも似ていた。


 モンドとゼフィは深く頭を下げた。

 言葉は少なくとも、胸の奥で交わされるものは数えきれないほど多かった。


 やがて、川風が霧を押し流し、光が木々の隙間から金色の筋を差し込んだ。

 二人はゆっくりと歩み出す。

 村人たちの手を振る影が小さくなるにつれ、背に残るのは香草と焚き火の記憶。

 その香りはまだ鼻先にあり、笑い声は耳の奥で反響していた。


 モンドはふと立ち止まり、霧にけぶる村を振り返る。


「……不思議なもんだな。ほんの一晩で、こんなにも胸に残る」


 ゼフィも同じ景色を見つめ、瞳に朝日を映しながら頷いた。


「旅先の一瞬だからこそ……深く刻まれるのでしょう」


 モンドは肩の荷を持ち直し、口元に苦みと甘みを混ぜた笑みを浮かべる。


「昆虫型の魔物も、ただ斬り倒すだけじゃなく……こうして食えるとなりゃ話は変わるな」


 ゼフィは少し考えるように目を細め、やがて穏やかに答えた。


「敵が糧となり、災いが恵みへと転ずる……そうなれば、懐にも風が吹かずに済みましょう」


 モンドは軽く笑い、「これは華のある言い回しだ」と肩を揺らした。

 二人は再び歩き出す。


 まだ長い道が前に続いている。

 だが、昨夜の焚き火と今朝の別れは、確かな灯火となってその道を照らしていた。

 それは煙のように空へ消えるものではなく、心に宿る炎として、いつまでも彼らを導くであろう。




 著書:根なしの味わい

 第三章、評言


 > かくて我ら、川辺の里にて焚火を囲み、人の温もりと森の恵みを共にせり。

 円環のごとく寄り添う家屋は、まるで大樹の根元に眠る菌草の群れの如く、静かに森と融け合う。

 ひとつの火を囲む暮らしの姿は、和の理を映すものなり。


 翌朝、霧深き森にて遭いしは、常に旅路にて刃を交わす節足の妖らなり。

 されど驚くべきは、それを糧として受け入れる里人の習いなり。

 シルフィダの身は蒸せば淡雪のごとくほぐれ、クリスピオンの肉は炎に照らされて甘みを帯ぶ。

 いずれも我らが戦場にて馴染んだ血腥き存在とは異なり、妙なる滋味を宿していた。


 思えば我らも旅の折々、虫そのものを口にしたことは幾度かありぬ。

 だが節足の妖を食すは初めてのことにて、敵が糧へと転ずるその理の深さに舌を巻きぬ。

 人は恐怖の象徴をも、工夫ひとつで恵みに変ゆ。

 まさに生の知恵にして、森と共に歩む者の強さなり。


 この里にて見たは、戦と糧とが矛盾なく結び合う姿なり。

 災いは祈りに、恐怖は滋味に。森と人とが互いに喰らい喰らわれ、なお調和を見いだして生きるさまは、旅人の心に長く刻まれん。


 ──されば筆を()く。

 焚火の赤と草の薫り、そして節足の妖の意外なる甘み。

 そのすべてが今も余韻として胸に残り、往路を照らす霞光(かこう)となりぬ。

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