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川霧が立ちこめる夕暮れ、沼と川が寄り添うように広がる小さな村への道を、二人の旅人はゆっくりと進んでいた。
湿った土の匂いが鼻腔をくすぐり、藁葺きの屋根からは焚火の煙が静かに昇る。
葦の間に差し込む夕陽は茜色と紫色の光を揺らめかせ、村全体を柔らかく包み込んでいた。
小道には水滴を含んだ苔が光り、石畳の隙間からは小さな野草が顔を出す。
川岸には小舟が幾艘か停められ、網や魚籠が置かれ、わずかな生活音が水面に響いている。
その中を歩む男――モンドは肩を少し落とし、黒髪を乱しながらも目の奥に疲れを漂わせる。
歩みは慎重で、地面に沿うように足を運び、長旅の重さを全身に感じさせる。
その傍らの女――ゼフィは淡い銀色の髪を揺らし、淡青色の瞳が川面や夕陽に映る光を静かに追う。
肌は澄み渡るようで、端正な動きは控えめながらも自然に目を引いた。
モンドは深いため息をつく。
長旅の末にようやく辿り着いた村。
腰や膝の鈍い痛みは、三十代後半の体には容赦なく、歩みを重くする。
それでも、ここまで来た理由は一つ――白ひげナマズ。
ゼフィは白い指先で衣の裾を整えながら微笑む。
「お疲れでしょうに……まずはお食事と参りましょうか」
その声は夕暮れの湿気を含んだ風の中でも、清らかに響いた。
モンドは片目を細め、軽く頷く。
「腹を満たさねぇで、旅を終えるわけにはいかねぇ」
川沿いに干された網や骨の山を横目に、村人たちは小舟から戻ると獲れた魚を手際よく処理していた。
声や笑い声が飛び交い、手元は驚くほど早い。
その光景を眺めるモンドの目には、僅かに険しさが宿る。
(ここまで来て、果たしてあの白ひげナマズの味を確かめられるだろうか……)
珍しい魚を求める旅の目的と、現実の不確かさが、胸の中で微かにざわめく。
村の中心にある小さな屋台には、炭火が赤々と燃え、魚を焼く香ばしい匂いが立ち込めていた。
簡素な木の台に人々が列を作り、笑い声や呼び声が飛び交う。
モンドは一歩踏み出し、屋台の主人に声をかける。
「白ひげナマズ、ひとついただきてぇのだが」
返ってきたのは、思いもよらぬ言葉だった。
「……すまないね、今夜は白ひげは出せないのだよ」
短い一言に、旅の期待がざわりと崩れ落ちる音がした。
胸に、失望と小さな疑念が同時に広がる。
「赤ナマズなら揃っておるけどね」
仕方なく二人は赤ナマズの塩焼きを頼んだ。
運ばれてきた赤ナマズは、皮はぱりりと弾け、身は箸でほぐれるほど柔らかい。
ひと口頬張れば、淡水魚特有の匂いは消え、脂の甘みが舌の奥に広がった。
「……うめぇ」
しかし心には、どこか穴が空いたような感覚が残る。
求めていた味とは違う。
ゼフィは微笑み、柔らかい声で言った。
「いただけなかった白ひげナマズのことを思えば、少々心残りではありますが……」
「そうかもしれんな」
モンドは盃を傾け、赤ナマズを噛みしめながら思う。
手記に書くべきは、味だけでなく、料理にまつわる物語や人々の営みそのものだ、と。
宿に戻ると、木造二階屋は湿った風を孕んで軋む。
荷を下ろし、腰を落とす。
疲れ切った体を布団に預け、瞳を閉じると、旅の道中で感じた匂いや音が次々に蘇る。
窓の外から、ぱしゃり、と水音が聞こえた。
月明かりが沼を白く照らし、魚影が揺れる。
「……ゼフィ」
「はい」
「少し、沼の様子を見に行かねぇか」
ゼフィは眉をひそめる。
「仕方ありませんね……ですが、おひとりでは行かせませんよ」
夜の沼は昼より静謐で、月光が波紋を白く縁取る。
葦はそよぎ、虫の声が夜を縫うように響く。
魚が跳ねるたびに、水面は細かな輪を描いては消える。
「……白ひげか?」
「赤かもしれません」
「だろうな。影じゃ見分けつかねぇ」
モンドは深いため息をついた。
求めた白ひげナマズ、その幻影を前に、取り出した手記に今日の記録を丁寧に刻む。
「――白ひげナマズ、供されず。赤ナマズは味良し。だが、風景も人々の営みも、記録すべき価値がある」
筆を止めると、ゼフィが静かに囁く。
「……今夜は、それで十分ではありませんか」
「……そうだな」
窓の外では、月光に揺れる魚影が、水面に静かに消えていった。